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『子供』の問題 アジサイ の広場
AE86 えや 高2

 現在『子供』の問題がたいへん促えにくく、なにかと不気味なのは、一つ一つには、社会の中で子供についての或る一定の共通了解事項が成り立たなくな
ったからである。永い間、知識とは無知あるいはタブラ・ラサ(白紙)に付け加えられ、積み重ねられたものであり、したがって、より多く知ることがより真 理に近づくことだと考えられていた。そのことが最も極端なかたちで出ているのは『子供』あるいは『教育』の専門家たちによるレッテル貼り(レイベリング )の問題である。  

 最近増えてきた少年犯罪。その中でも私が最も印象に残っているのが「長い包丁を持っての『バスジャック』(名前をよく覚えてない…)」である。最後は
特殊部隊によって取り押さえられてしまったが、説得をしに来たのは母親であった。これはとても効果的な方法だと思った。母親というのは不思議な力を持 っている。しかし、あまり効果がなかったからか、その様な結末となってしまった。ここで専門家が出てきて「あーだ、こーだ」と理屈っぽく説明したした 日には、さらに多くの死傷者が出ていたかもしれない。私の中では、専門家は視聴者などには納得できる答えを出すが、容疑者(?)にしてみれば、何の解決 にもならないのだ。むしろ、傷ついている心に、更に深い心の傷を負うこととなるであろう。  

 最近は母親も働いている家庭が多い為か、母親の愛が足りなくなってきていると思う。理屈で説明してくれる専門家はいても、全身で体当たりして教えて
くれる人が少なくなってきたである。今は何かが起こると専門家が出てきて理屈っぽく説明する。果たしてこれで良いのだろうか? 私はいけないと思う。 そもそも、専門家が事件について語るのはニュース内だけで十分だと思う。ワイドショーなどにまで出る必要はないと思う。私は専門家自身の存在を改める べきだと思う。  

 確かにいろいろなことを知っている専門家は大切である。しかしそれ以上に、自分に愛を与えてくれる母親が大切である。専門家は所詮他人である。親に
できなくて他人にできることは少ないけれど、親にできて他人にできないことはたくさん存在する。人生の進路を間違えてしまった時、それを修正しなくて はならない。それは他人にはおそらく無理であろう。それが可能なのは、一番長く接している身内ではないだろうか?  

 
 

 (えや君の入れたパソコンのFDDが壊れていて、しかもLANがつながらなかったので、送るのが遅れてしまいました。m(__)m 森川林)
                                               
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