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適者生存 イチゴ の広場
眠雨 うき 高2

 これまで日本は、欧米へ追いつくことをその進歩の原動力としてきた。鎖国による三百の遅れを取り戻そうとした明治維新、あるいは戦後の貧しさをどう
にかしようと奮闘した団塊の世代。勤勉な国民性が美徳ともてはやされ、半ば行き過ぎたそれはエコノミック・アニマルという蔑称すら受け取るに至った。 しかし今、日本の経済力は世界有数のものとなり、それまで前方に背中を見ていた欧米に肩を並べている。ゴールとしていたものに追いついてしまった現在 、日本人に必要とされているのは、前人未到の荒野を切り開く「創造力」をもった人間である。  

 では国民の創造力を養うにはどうすればいいかというと、第一に学校教育の変革があげられる。今日の学校教育は非常に停滞的というか倒錯的というか、
新しい発想の混入を嫌う風潮がある。授業で習った以外の公式を考案し、問題に教師側の解釈とは違った答えを出すという人間は、学校では疎んじられる。 教師たちからは全体の進度を混乱させたと言われ、生徒たちからは奇異の眼で見られ、出る杭は満遍なく打たれていく。こうした教育体制のなかでは創造力 など育つはずもなく、均質化された生徒はベルトラインを滑っていく。ある友人が学校で、教師の質問にまだ習っていない解法を用いた。決して勉強ができ るタイプではない彼のそれは塾で習ったものだというが、これが教師には気にいらなかったらしく、これを使うのは次学年まで待てと言われた。学校側のカ バーしきれない範囲を自習で補うことすら封じられてしまうのならば、生徒たちはいつまでたってもその学校以上のレベルに達することはできず、自分だけ の何かを生み出すこと、持つこともできなくなっていってしまうのではないだろうか。  

 第二には、若者たちの意識の変革である。日本文化の風潮と言おうか、他者とズレることを嫌い、集団中へ埋没していこうとする精神が、近年は特に顕著
である気がする。「あいつも角がとれて丸くなった」という言葉は、これをよく表している。これまでの先進国であった欧米では、そんな人間はむしろ軽蔑 されてきた。創造力とは個性というその「角」が外側へ現れたものと考えられてきたのだ。対して日本は新しいものを生み出す必要はなく、ただ生産のライ ンで黙々と単調な作業をこなす、いわば産業機械のような人間が発展の要となってきた。だが既に欧米に追いつく時代は過ぎ去った。いつまでも過去の遺物 のようなその伝統を、保持している必要はないのだ。  

 確かに秩序と平和の維持を考えるのならば、創造力の根幹の、他者と衝突する強烈な個性はあまり歓迎されるものではないだろう。しかし、他者に合わせ
るということは、自己をどこかで抑えつけることだ。それは自分の正しさを信じきれない薄弱な精神力であり、自分の意見をうまくもてない貧弱な自我だ。 自我は進む一本の線であり、日本では誰かの線とぶつからないように、うまく方向を変え歪め、次第にその線の濃さは薄れていき、終には途切れようとして いる。、欧米では直線たちがしっちゃかめっちゃかに伸び、衝突事故の際に生じる爆発的なエネルギーを創造力に、ひいては発展に、いや、生存に転換して きた。世界の流通は既に平和の維持とかそういった次元ではない。うねりのたうつ津波のような、それは生存競争だ。生き延びる適者になるために、日本も また、変わっていくことが必要なのだ。  

 
                                                 
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