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行間・余白から読みとれるもの アジサイ の広場
正博 いえわ 高3

 新聞というものをまるで読まないと言い切っている人がいる。私は、新聞が一生懸命に論じようとしている主張の、あまりよい読み手ではないような気が
する。たいていの場合、新聞が無名性の名において大衆を善導しようとして声高にといている論述と、一人一人の新聞人が生きている現実のずれを、そのま ま出してくれるような紙面にあまりお目にかからないからであろうか。どちらかといえば、私は、行間と余白の読み手であるのかもしれない。  

 私は、新聞をあまり読まないので、新聞の行間や余白を読む楽しさというのはよくわからないのだが、この分を読んで思ったのは、こういった新聞の読み
方もあるのだなということだった。新聞が説いていることを正面から受け取るタイプの人や、この文の著者のように、行間と余白の読み手という人もいる。 私は、前者のような読み方しかないと今まで思っていたのだが、後者のような読み手は結構多いのかもしれない。  

 たとえば、スポーツなども、うちの学校の先生は、よく「勝ち負けは重要じゃない」と言う。しかし、スポーツには必ず、他人と比べて勝ち負けを決める
ために試合だとか記録会だとかいうものがある。つまりスポーツというのは相手に勝つのが本来の目的なのだ。にもかかわらず先生は、体育の授業前などに は必ず、「スポーツは楽しむことが重要だ」と言うのである。  

 誤解があるかもしれないが、私はこの先生が好きだ。楽しくもない練習をただ相手に勝つためだけに何回もできるものではない。他人に勝つという喜びも
あるが、うまくなったときの喜びだとか仲間との連携などの喜びもあるのだ。  

 行間と余白から面白さを感じるというのは大事なことだと思う。つらかったりすることであっても、そこから喜びや感動することができればそれを続けて
いくことができる。私も新聞を毎日読むようになるかもしれない。  

 
                                               
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