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人間の未来的 ウグイス の広場
はるる くあ 中1 産業革命以来、機会は人びとの生活を豊かにする打出の小槌の役目を果たすものだと思われて来た。だが最近になって、それだけがすべてではないというこ とが、反省されるようになった。考えてみるとわれわれの生活の大部分は、生物的嗜好でよいわるいを判断していることのほうが多い。例えば、住宅のよう な夜の生活を伴う建物では、冷たい無機質の材料で囲まれた舞台装置のようなインテリアよりも、木やもめんのような素朴な材料で囲まれた泥臭さの中に、 なにか人間の本質といったものがひそんでいることに気がついたのである。  

 よく映画でみる未来都市とは、四角くて青白い光を放って、表面は銀色というものが多いような気がする。それは何故だろうか。直線と直角で作られ、清
潔の色の象徴と言われる青や白を使っているだけで、それは未来都市なのだろうか。  

 人間は、日々進化してきたと思う。例えば日常の道具だ。最初、人類はでこぼこの大きな石を木の棒の先にくくりつけて、武器を作ってきた。それがだん
だん進化してきて、でこぼこの石は先の尖った石槍になっていった。そして今では銃など、一種類の物ではなく、たくさんの材料で形成され、しかもちゃん と計算しつくされた設計図に基づいて作られている。つまり、未来都市に用いられる直角や直線は、自然界ではありえない物なのである。人間が四角形の建 物に未来的な要素を感じる理由はこれだと私は思う。  

 しかし、いくら未来だからといってすべてがコンクリートのような硬い素材でできているとは限らないのではないだろうか。現に私が住んでいる家も、大
半が木で出来ている。(たぶんね)平安時代の家も木で出来ていたと思う。とすると、、、、、、。家自体の素材はあまり変わっていないのではないかとい う結論に至る。  

 人間は、ずっと昔から自然と付き合ってきた。そして、生活にはいつもとなりに木があったのだと思う。だから竪穴式住居は草で出来ていたし、法隆寺は
木材で作られたんじゃないか。私の体験では、石よりも木の方が暖かみをおぼえる。木という物は人の心を落ち着かせる力を持っていると思った。  

 確かに近代的な家もかっこいい。けれども木を近代的ではないというのはおかしいのではないだろうか。名言からは「人間は、求めているかぎり迷うもの
だ。」を引用する。人間は「未来的」を迷いながら求めていくのだと思う。  

 
                                             
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