先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
農業=自然 アジサイ の広場
横浜太郎 あわか 中3

 農業と聞いて、第一に思い浮かぶのが、アメリカの大規模な耕作地である。カンカンと照りつける日差しの下、一人の、着古したGパンをはいた農夫が、麦
か何か、一本一本手にとって見ている、そんな光景が広がってくる。  

 アメリカでは日本と比べ、かなり大規模且つ機械的な農業をやっているといわれる。農薬を散布するのは飛行機だし、収穫も、名前も知らない大きな機械
でやっているところが多いようである。こう聞くと、アメリカ農業はかなり先進的であり、自然をもコントロールできるような気になるのは僕だけだろうか  

 最近、資料を見て驚いたのが、日本の食料自給率の低さである。穀類は30%。果実は90%で自給できているが、豆類は5%とほとんど自給できていな
い。これには、後継ぎがいない、気候に合わないと理由はいろいろあると思うが、しかし一番大きな理由はとれないのだと思う。他の、国土の大きな国に比 べて、土地がないだけでなく、耕作方法がちびちびしている。農薬一つとっても、アメリカは飛行機でまくのに対して、日本はまだ防護服のようなものを着 て、ホースで行っているのがほとんどである。これでは、日本の農業が伸びないのはうなずけてしまう。とは言え、現実的に考えて、日本の国土でアメリカ のような農業をやれと言うほうが無理である。今のところここの部分は、国の違いということで納得するしかなさそうである。結局日本は、自然が定めた日 本国の国土の大きさを打ち破ることができなかったのだ。  

 農業といえば、僕もごく小さい規模ではあるが、農業をやったことがある。家で二十日大根とピーマンを栽培したことである。きっかけは学校の技術の時
間であったが、その後2ヶ月ほど、栽培のことで頭がいっぱいだった。現在は、高校受験という関門に向かってまっしぐら(?) のため、あまり関心がいっていないのだが、今も家の極小畑で、二十日大根が“生えて”いる。初めて種を蒔いたのは、暑いときだったので、7月か8月だ ったと思うのだが、ほとんど何も勉強しないまま、「いっちゃえ〜」という感じで蒔いてしまった。間引きをしなければならないのに、どれを抜いたらいいの かわからないうちに育ってしまい、す割れができてほとんど食べられなかったという苦い思い出がある。また台風の日に、ガードを作ったりもしたが、次の 日、二十日大根は(二回目に蒔いたもの)壊滅状態だった。そのとき、「所詮、ちっぽけな人間なんて、自然の前には全然歯が立たないのだな」と強く感じた。  

 農業は自然と向き合っている、という人がいる。僕もその意見には賛成だ。しかし、農薬を飛行機で蒔くところのどこが自然と向き合っているんだという
人もいるだろう。確かに、農薬を飛行機で蒔く、いや、農薬を使うこと自体自然ではない。しかし、農業は(これは他のことにもいえるが)自然なくしては成 り立たない。台風が嫌だと言ったって、雨が降らなければ植物は枯れてしまう。寒くなければ暖かくはならないのである。夏がこなければ冬はこないし、冬 がこなければ夏もこないのである。つまり、「存在するものには、良いとか悪いとかを言う前に、すべてそれなりの理由がある」という名言が示している通り 、何が良いとか悪いとかではなく、例えば、人間が一方的に悪いと決め付けているものでも、それがなければ人間にとってのいいものも存在できなくなるの である。その微妙なバランス、協調とでも言おうか、それが自然でなのである。結局、自然の前に人間ができることはただ一つ、成るようにするということ だけである。自然を操れるのは、神だけ。人間は、いくら神になろうとしたところで、人間である以上、神にはなれないのである。  

 
                                               
ホームページ