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叱られたワケが分かる時 アジサイ の広場
AE86 えや 高1

 私が、文章を書くことでやっと生活出来るようになった頃、言葉遣いについて時折注意して下さる二、三の先輩があった。私は先輩のある男性作家に名前
を呼ばれた。この間、偶然、新幹線の中であなたのもの読んだよ。おもしろかった。ただ、あれはちょっとおかし いんじゃないかなあ、と言って、ある用語のことを指摘された。読んでいて下さったからこそのご注意である。知らん顔されていてもすむ。  

 最近は注意されることも、することも少なくなってきた。これは私にとって、良いことでもあり悪いことでもあるのだ。その理由は二つある。第一に、注
意される機会が減ったということは、それだけ注意されるようなことをしてうないと言っても良いはずである。これは良いことではないだろうか。その逆に 第二は、みんながそれだけ冷たくなっている。というのも考えられる。私は、叱ることも叱られることも、恐れるべきではないと思う。なぜなら、注意とは その人の悪いところを指摘することであり、その人にとってプラスになることはあってもマイナスになることはないからだ。逆に叱られることも、自分の悪 い点を指摘してくれているわけなので、自分にとってマイナスになることはまずない。むしろ、「ありがたい」と思うべきであろう。「注意する人=厳しい 人」とは一概に言えない。むしろ最近は注意する人が少なくなってきた為「注意する人=やさしい人」になってきている。その人のことを思ってしてくれて いるのだから。  

 「今の親は甘くなってきている」とよく言われている。確かにそうだ。しかし、私はそれ以上に「冷たくなってきている」と思うのだが、どうだろう? 
そう思理由として「無関心さ」が挙げられる。子供が何かを話しても「ふ~ん」と適当に流したり「今忙しいから」と、全く聞く耳を持たなかったり。この ような親は、「自分の子供を叱る」といった感情は全くないだろう。いや、自分にとって不利益なことのみは叱るであろう。このような親に育てられた子供 は、自分の子供にも絶対に注意できない。というより、注意の仕方が分からないであろう。  

 子供は「注意されること=ありがたい」とは思えないはずだ。怒られなければ「気楽で良い」と思うだろうが。しかし、叱られたことのありがた味は大人
になってから分かるものなのだ。私の好きな歌手にサザンがある。その人たちが歌っている歌に「心を込めて花束を※」という歌がある。この歌詞に私は非 常に心を打たれた。  

 今からでも遅くない。みなさん、叱るべきところでは叱り、叱られるべきところでは素直に叱られ、それを自分のものにしていきましょう。
 

 
 

 サザンオールスターズ「心を込めて花束を」
 

 
 

 ※夢追う無邪気な子供の頃に  

 叱られた理由(わけ)が今解るの
 

 今日まで幸せくれた パパとママに花束を 
 

 若さにまかせて家を出た時 励ます言葉が身に沁(し)みたよ どんなに背伸びをしても
 

 腕の中で甘えてた  期待通りの僕じゃないけど
 

 素晴らしい女性(ひと)に出逢えた もしも涙が溢れそうなら 御免よ何も言えなくて
 

  笑顔の中には淋しさもある 幸せの旅を憂うばかり
 

 愛するこの女性(ひと)となら 辛いことも分け合える 
 

 期待通りの僕じゃないけど 人並みに愛を叶えた もしも涙が溢れそうなら
 

 時間を止めて抱き寄せて 心を込めて花束を 
                       
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