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輝ける人間 アジサイ の広場
拓馬 ねき 中3

 「【義務教育(ぎむきょういく)】国民が子女に受けさせねばならない普通教育。日本国憲法では、子供が教育を受ける権利を保障する性格をもつ。日本の
現行学制では、六歳から一五歳の九年間がその期間。」(資料:大辞林 第二番より)という資料をあげるまでもなく、誰もが中学生までが義務教育であると知っている。そしてその義務教育が終わった後は、一般的に行けば、高 校に行き、大学ないし会社に入り・・・・・といったものだ。その際、高校、大学、就職にはそれぞれ試験がある。入学試験、入社試験といったものだ。そしてそ の試験では、試験結果+αで合否が決まる。今日はその+αのなかで、主として高校入試に大きく関連している、「内申点」について語っていこうと思う。  

 まず、内申とは、学校においてのその人物の学習状況、生活態度などをその学校の教師が、数字、あるいは文章で書き記したもので、その情報はその人間
の受験する高校へとおくられ、参考資料となる。場所によっては、その内申で高校に入れるかがほぼ決まってしまうこともあるらしい。  

 この「内申点制度」については、いろいろな意見がある。もちろん公立の学校関係者は、内申点制度を良いと思っているはずである(むしろ、悪いと思って
いるのに、何も行動せず、何の気なしに教師をやっている方がおかしい)。しかし、どうやら、大多数を占める意見は、程度の差はあれ、「悪い」ほうであるら しい。  

 まず、「内申点制度」の批判すべき点は、人間であるところの教師が書くものであるからして、その教師の主観が嫌が負うでも入ってしまうところだ。自分
が嫌いな人間には、どうしても良い点数を与えかねる。例えテストで100点を取っていても、他に97~99が10人いたら(これは、学年生徒数100人の、5段階の 相対評価をしている学校であるという前提の話だ。)、その10人の中から「5」を選ぼうとする。まさか「1」にはならないにしても、本来「5」になるべき頭脳のあ る者が、それ以下の評価をされる可能性がある。それと逆に、点を取りやすい、という人間も出てくる。これでは、「公平」というには程遠いだろう。  

 またそれによって、公立高校を受けようとするものに、「教師に逆らうことができない」という、一種の強迫観念も出てくる。その教師の言動に腹が立って
も、決して表に出してはいけない。中学生くらいの人間は、「思春期」と呼ばれ、一番自己主張を強くし、精神的に不安定な時期だ。その気持ちを押さえるこ とは、とてつもないストレスになることは言うまでもない。更に、わけの分からない教師が出ようものなら、不安定な精神は、たちまち崩れることになるだ ろう。そこにまた、あくまで他人事だという評論家が少年少女を否定している。誰だって、「あ゛~~~~~~~」ってなるだろう。これは、決して誇張表現 ではない。私の経験からの言葉だ。  

 そして、「学力」という面から見た、内申点制度に対するもう一つの批判。それは、「急激な成長を遂げる可能性のある人間に対処しきれない」点である。私
事ではあるが、私は、1学期から2学期にかけて、内申点(今更だが念のため説明。国数英理社美技音体の9教科をそれぞれ5、ないし10段階評価し、それを足 して合わせたもの)が7点あがった。そして、模試の結果などから、親、友人、塾、そして自分の目からみて共通して言えることは、いまだに私は学力を向上 し続けていて、志望校にもトップでいけるだけの実力がある、ということである。ちなみに、これらは自慢である。このように、2,3ヶ月でどうとでもなる 可能性のある者にたいして、1年も前のことをいまさら言ったところで、なんの意味があろうか。  

 たしかにこの制度は、平均して人を見、その人間の長い努力を評価する、という面では他の方法よりも長けているかもしれない。しかし、国数英理社とい
った頭脳科目は、本来理解し、興味を持つことが目的なのであるから、授業態度などというものを点数の成績の方に入れるのはどうかと思うし、音美技体と いった実技科目に関しては、定期テストをして、その科目にたいしての暗記力を試したところで、こと実演するときには、なんの関係もないものが多い。こ れは私の持論になるが、そもそも学問は他からの強制力によってするものでなく、興味関心を持ったものに対し、徹底的に行うものである。日本人は昔から 、「文武両道」とはいったが、「文文両道」とは、まったくいっていない。このように、体力と知力を同時につけることは難しいが意志があればできる。しかし 、すべての「知」に対して深い考えをもち、全てに自分なりの答えをもつことは、本当に限られた人しかできない。「全てに効くという薬は、何にたいしてもよ く効かない」という言葉を聞いたことがある。まったくそのとおりで、どんなに広く深く知ろうとしても、けっきょくはどの知識も、その道に生きている人に は敵わないし、知恵に至っては、比べ物にならない。私はまだ自分の生きる道を模索中だが、見つかったときには、それを「極める」努力をしたい。そうして 生きていけば、輝ける人間になれるような気がするからだ。  

 
                                           
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