先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
             「死」 アジサイ の広場
潤之介 かな 中1

 人は二足歩行で手を解放し、その手に道具を扱う役割を持たせ、それを発達した大脳で制御するという方法によって、急速に強い動物になった。そして、
強くなったために狩る立場に立つことはあっても狩られる側にまわることはほとんどなくなった。 われわれの精神は死という言葉を聞いただけで毛を逆立 てる。果たして、生きることではなくただ死なないことに、それほどの意義があるのだろうか。 肉食獣に追われて逃げきるか喰われるかは一つのゲームで ある。何度勝った者も最後には敗れる。動物はみな捕食者であると同時に獲物であり、彼らにあるのは事故死と病死だけだ。  

 私は、死や締め切りを自覚する事は大切だと思う。その理由は二つある。一つは死を自覚していきると、生きる事そのものに喜びが湧いてくるからだ。現
代の社会では、死はなかなか見えない。例えば、ハンバーガーなどを食べている時に、牛が殺される瞬間を想像する事は困難であろう。人間が死と隣り合わ せだと感じる時はほとんどない。だが動物の場合はどうだろうか、野生の動物はいつも死と直面している。それはすなわち、喰うか、喰われるかという事だ 。そういう時に精一杯生きる事=喜びになるのである。動物たちは、毎日を精一杯生きようとしている。腹が減れば食べ、眠くなれば寝る。彼らはそれを当 たり前だと思っている。それが人間の場合は、毎日だいたい決まった時間に起きて、朝飯を食べ、昼飯を食べ、夕飯を食べ、寝る。このことの繰り返しで、 変ることなどほとんどない。何かに食べられるというような事はまずないといっていい。だから生きる事自体が、退屈でつまらないものになってしまったの である。  

 第二の理由は、死や締め切りを自覚しないで生きると、毎日が退屈でつまらないものになるからだ。例えば、学校の提出物やテストなどがそうである。提
出物が配られた時に先生が、  

 「次の時間に集めるから、それまでに仕上げてこい。」
 

 といわれるとみんな必死で仕上げようとする(しない人もいるが)。しかし、先生が、
 

 「またいつか集める気がしないこともないと思うけど、たまに集める気分になることもなきにしもあらずって感じだからそれまでに仕上げてこい。」
 

 などと曖昧に言ったりすると、生徒達が、「じゃあ当分は集めないだろう」と思ってしまい、何日間もそのままにしておいて、すっかり忘れてしまうとい
うことがあるかもしれない。だから締め切りがある方が覚悟などもできるし、その締め切りまでにやれることもたくさんあるはずだ。そしてその中で、ふだ ん得られなかったものが得られるということもあるかもしれない。こういうことからも締め切りを自覚することは大切だと思う。  

 確かに、締め切りなどにがんじがらめに縛られてると、息抜きということも大切になってくる。しかし、私は、「上天気の日に、嵐のことなど考えても見
ないのは、人間共通の弱点である。」人生には死や締め切りなどがあるからこそ充実した生活を送れるという面があると思う。どうやら私たちが自然から学 ぶことは、まだまだたくさんあるようである。  

 
 

 
 

   
                                     
ホームページ