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経験に勝るものはない!...と言っても過言
ではない。...かな? アジサイ の広場
AE86 えや 高1

 誰かがいつか、こんなことを言っていた。神経が苛立って眠れない時があるが、これは神経の疲労が肉体の疲労とのバランスを欠いて、独自に進行してし
まった結果である。従ってこうした場合 は、縄跳びを数回行って、肉体の疲労を神経のそれと同程度になるまで高めればいい。それぞれの疲労のバランスがとれれば、人は眠れるのである。 私は或るジャーナリストが、ケネディ暗殺事件を報道するテレビ画像を見て、「ここには何も映し出されていない」と言ったのを覚えている。彼は、彼が実 際にその場に居合せたことのある暗殺 事件の現場を想起しながら、「そこには確かに、人々を恐怖させ、吐き気を催させる何ものかがあったのだが、ここには何もない」ということを言っている  

 人間は時速数百㌔で走る車に乗っていると、肉体的には全くと言って良い程疲れない。しかし、普段の十倍以上のスピードを出しているのだから、精神的
には普段の十倍以上疲れていると言っても過言ではない。これは、何かを手に入れると何かを失う「give&take」そのものである。これは、今流行りのバー チャルリアリティでは味わえないものである。  

 今は、少年がナイフで人を刺してしまうという事件がよく挙げられる。ニュースなどでは、少年がどのような性格で、普段どういう行動をして...etc.
などと少年を責める(?)が、私はその少年だけを責めるのは良くないと思う。むしろ、少年を保護しなくてはならない立場の大人や社会全体を責めるべきで はないだろうか? しかし、その少年が悪くないと言っている訳でもない。  

 少年犯罪にしても、もんじゅ原子力発電所のナトリウム漏れ事故に付いても、経験がないから起こってしまうものなのだ。なぜなら、少年はナイフで自分
を切ったことがない。だから痛みが分からずにやってしまうのだ。痛みが分かっていれば絶対にやらないことだ。もんじゅにしてもそうだ。長年やっている 町工場の親父さんは長年やっている為、小さい爆発も数多く経験していたはずだ。その知識を生かして作った適切なRのある(笑)パイプの案を、もんじゅ の社長か何かが「こうしろ!」と、直角に曲がっているような無理な設計図で作らせてしまったのだ。おそらくこの社長か何かはコンピュータを使ったに違 いない。  

 この様に、理論は経験にかなわないのだ。その良い例が犬である。人間はカップラーメンを好んで食べているが、犬は食べないのだ。犬は本能的なもので
「味はあるが栄養はない」と分かってしまうのだ。犬は、食料が獲れなければその日の食料はない。だから、味よりも栄養のあるものを好む。これこそ「理 論は経験にかなわない」と胸を張って言えるのではないだろうか?  

 
 

 
                                             
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