先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
言語的二重性 イチゴ の広場
弥生 いきか

 ブラジルの日系社会には、どこにでも日本語学校があり日系の子供は5歳くらいになると通い始める。昔は家庭でも日本語を使っており、日本語を忘れな
いようにという目的で通っていたが、今では家庭で日本語を使うことはほとんどないが、昔からの慣習として通っている。5歳の子供などはまだアルファベ ットさえ読めないのにひらがなを学び、祖父母は孫にコロニア語と呼ばれる、ポルトガル語まじりの日本語で話しかける。しかし、私はまず最初に母語の基 礎をしっかり身につける必要があるのではないかと思う。  

 そのためにはどうすればよいか。私はやはり読書が有効だと思う。それもただ何でも与えるのではなく、年代に合っていて文章の原型を学べるものが良い
。文章の原型以前の問題だが、先日生徒が「先生、ナーボは日本語、ポルトガル語どっち。」と質問してきた。自分の知っている言葉が何語なのかわかって いないのだ。本を読んでいる生徒はこんな質問はしないだろう。  

 それから、作文も有効だと思う。それも、自由に書かせるのではなく制限を与える。ブラジルの子供たちは、知っている文型などが少ないので自然に書く
ことが制限される。その中でテーマを与えて文章を書かせる。最初は意味の通じないような文を書く生徒もいたが、慣れてくるとしっかりした文が書けるよ うになってきた。  

 確かに聖書は文章的にも内容的にも優れているだろうが、日本人にとってはなじみが薄い。どれだけの日本人が実際に聖書をちゃんと読んだことがあるだ
ろうか。言葉は模倣から始まる。赤ちゃんが母親をまねて言葉を覚えていくように、文章もまずはしっかりした基礎をまねることから始めるべきだ。学生時 代の先輩後輩間の言葉使いも、当時は馬鹿らしく思ったこともあったが、今から思えば敬語を使ういい練習だった。何事も基礎がしっかりしていてこそ飛躍 できるのである。                                                    
ホームページ