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オリジナル問題集も所詮は真似(ニヤリ アジサイ の広場
幸子 あさも 中3

 奈良時代の大仏や、戦国時代の鉄砲に代表されるように、日本人は異質で高度な文明・文化に触れたとき、それを率直に評価して猛烈な勢いで取り入れ、
追いついてきた。最新技術を受け入れ、消化するだけの潜在能力が、既に日本にはあったのである。しかし現代の日本人は、この驚異的な速さのキャッチア ップを可能にしてきた自らの潜在能力に誇りを持っていない。それは、欧米から「物真似上手」などと批判され続けてきたからである。しかし、必ずしも「 真似る」=「独創性の欠如」ではないのである。また、学ぶということは、徹底して「真似る」事だったのである。もっと物真似の価値を見直していくべき ではないか。  

 そのためには、物真似の退屈な行為に飽きないことだ。基本の行為を何度も何度も繰り返す。これはいかにも飽きそうな行為だが、飽きずに繰り返すこと
で「実力」がつくのである。いきなり小学生が何の知識もなしに偉大な発明をしようと思っても無理である。「物真似」、要するに人の発見したものごとの 定理などを知識として仕入れてこそ、素晴らしい発見、発明ができるのである。「三筆」として数えられている小野東風などは、元々はすごく字が下手だっ た(らしい)が、何度も何度も練習することによって「三筆」と数えられるまで字が上手くなったのである。私が字が下手なのはもしかしたら昔めんどくさ がって平仮名の練習を欠かしたからかもしれない・・・。  

 また、今の世の中、「個性を大切に」「真似はいけません」などといっているが、基本をしっかり「真似」しないと個性などでないのである。超個性派と
いった感じのピカソなどは、元々あのようなガラガラ(?)の絵だったわけではない。元々風景画など、基本の絵も上手くて、その上でピカソ個人のオリジ ナルが生まれていったのである。  

 たしかにオリジナルや個性は大切だが、基本を「真似」することなしではオリジナルは生まれないということを忘れてはいけない。個性を大切にする専門
学校などでもちゃんと基礎は教えているではないか。真似をして、真似の極限までいったら、そこからどう個性を伸ばしていくか。それが問題なのであり、 真似がすべて悪いというわけではないのである。「精読とは、ゆっくり読むことではなく、同じ物を繰り返して読むことである。」というように、例えば本 なら、繰り返して何度も読み、そこに書いてあることがらを知識としてモノにし、考え方を参考にすることが大切なのである。  

 でも盗作はだめだよv
 

 
                                               
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