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エミール アジサイ の広場
UZI.SMG そお 高1

 人の、特に子供の能力・可能性を最大限に伸ばすにはどうすべきか。それには強制を伴った受動的な手法と、自発的で能動的なものを利用する手法がある
。また、自己向上については現実的なことによって実感することが大切だ。  

 
 

 受動的なやり方と能動的なやり方はどちらもなくてはならない。たとえば、中学受験などは親にやらされない限り誰もやろうとは思わないだろう。習い事
というものたいていは幼年期に親にやれといわれたから始めた、というものである。しかしこういった強制的なやり方では理屈抜きであることが多く、何で 塾に行ってるんだ、とか思い始めると空虚になるし一度いやになると徹底的にいやになる。やはり能動的な一面が必要だ。大好きなことはいくらでもできる ように、自分から進んでやれることは自然と上達する。  

 
 

 受動的なやり方をいっさい否定し、子供は自然な状態においてもっとも意欲的になり、ひとりでに自己向上していくと考えた人がいる。ルソーは、その考
えの元に子供を育て、いっさい強要せずに子供の探究心に期待した。そしてその子が成人し、どんなに立派な人間になったのだといえば、何の教養もないた だの阿呆になっていた。笑い話みたいだが、やはり親による強制力は必要なんだということが良くわかる逸話だ。  

 
 

 自己向上をするにはやはり強制力が必要だ。当然「○○をやってみたい」「上手くなりたい」という気持ちも必要だ。また、強制力を発揮し、教育してい
く立場の人間はそのような気持ちをつぶさないようにし、上手くその意欲を育てることが使命だ。「あめとむち」を使い分ける才能が問われる。特に日本の 教師はあめは出さないが、むちばかり与えるとよく言われる。外国では生徒が良い結果を生めば誉めまくり、失敗すれば励ますという。生徒にしてみれば、 なんだかんだいっても誉められたいのだ。昔、誉める時は手放しに誉めてくれ、怒る時は烈火のごとく怒って下さった先生がいた。しかし、最近は好成績で もあたりまえといった感じで特に誉めもしないし、生徒がうるさくても放任主義をたてに怒ってくれない教師が多い気がする。最近の子供たちは凶悪化した とか意欲的に勉強しなくなったなどと大人は口をそろえて言うが、教育者側のの責任も否めない。放任・ゆとりばかりを一方的に与え続けても、子供の能力 ・個性・人格というのは培われない。ましてや徹底した管理社会である世の中に出すために子供を学校に行かせているのだから、そんなことを言う文部省は 愚の骨頂であるし、何もわかっちゃいないのではないか。  

 
                                           
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