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口から出る言葉   アジサイ の広場
拓馬 ねき 中3

 「ファレノリプシス」。  今あなたはこれをみて、何と思っただろうか。「新種のゲーム?はたまたプロレス技?」といった感じだろうか。実はこれ、胡蝶
蘭のことなのである。一見してまったくわからないこんな外来語が、花木や草花の名称に置き換えられていっている。「風車」という花の形を的確にとらえた 美しい日本名があるにもかかわらず、「クレマチス」。常に新しさを求める日本人の積極性は評価するにあたいするが、実態の見えない意味不明なよそもの外 来語に日本の美しきを奪われるのは、どうしたものだろう。  

 しかし、考えてみると、私達の周りは、思った以上の外来語があるものだ。「パソコン」など、元々外からきたものはいいにしても、日本の会社なのに、わ
ざわざ英名にしてみたり、最近では「ミレニアム」などとところ構わずのたもうている。語呂がいいからって、何でもかんでもミレニアムをつけりゃぁいいっ てわけじゃない。それに、ミレニアムの意味も知らずに使っている者もいる。ミレニアムは、日本語になおせば「千年紀」だ。……嗚呼、何と美しい響き。「千 年紀」、何と重みのある言葉。今一度、日本語の美しさ、芸術性をかみ締めることが、むやみやたらな外来語を使わないことへの第一の方法である。  

 また、第二の方法としては、「言葉」の使命をもっと深く考えることである。言葉は決してファッションではない。「これの方がかっこいい」「これの方がナ
ウい(しまった!!森川林症候群だ!!)」という考えは、基本的にない。その時々的確な言葉を選び、使い、そして伝える。これができなければ、どんなに美し い、すばらしい言葉(日本語、外来語あわせて)をならべても、所詮はバカの一つ覚えに成り下がってしまう。それは、魯迅の「阿Q正伝」の主人公阿Qは、貧し くて教養がなく、人の言ったことをすぐ自分の意見にする付和雷同の典型みたいなもので、結局最後は無知がたたって、暴動の主犯に仕立て上げられて処刑 さてしまう。この作品は、教養のないことへの恐ろしさを訴えているが、着眼点をそこではなく、阿Qの言葉に向けてほしい。彼の言葉は、他人の受け売り で、自分の考えというものをまったくもっていれていない。そのため、口では立派なことを言っていても、その裏付けがないため、言葉の意味は失われてし まう。おおげさな例だが、言葉の意味を理解しないで使うというのは、我々が思っている異常に恐ろしいことである。よく、典型的な漫才で、「いや~ホンマ 暑は夏いでんな~」「それをゆうなら『夏は暑い』や!このスカポンタン!!」というが、笑っていられない。もしかしたら我々は、そんな・・・・ちぐはぐで意 味不明な言葉を発しているのかもしれない。  

 確かに、常に新しきを求め、たくさんの言葉を理解していくことは必要なことである。少し漢字の言葉がでてきたら、もう訳が分からないでは、話になら
ない。しかし、それでも自分で自分の言っていることが理解できなければ、他人に理解してもらうのは、無理だ。だから、せめて自分の知っている言葉、そ して知ろうとしている言葉の意味は、なんとなくでも自分の中になければならない。「自分の心のうちに持っていないものは何一つ自分の財産ではない」の である。例え口にできても、理解できなければ、何の意味もない。自分の中で実態の見えない意味不明な言葉を使うのは、自分の感性を奪われることである 。理解されていない言葉は、死んでいる。死んでいる言葉は、口から出してはならない。口から出すべきは、生きて相手に受け取られ、相手のなかで、動い ていけるものにするべきだ。  

 
                                                 
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