先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
いじめ 学校 家庭
 
 
 最近、と言ってもだいぶ前からだが、いじめが多発している。世代関係を育
てていない、競争に勝たせ個性を育てることをさせていない、など原因は色々
考えられてきた。ここでは、学校でのいじめに限定しその原因について考える
。そして、学校の役割と家庭の役割について考えてみることによってそれに迫
ってみたい。
 
 
 
 まず第一に、学校の役割を考えたい。日本で学校制度が出来たのは、明治政
府誕生と期を同じくする。その背景には統制のとれた軍隊を作ること、海外の
科学技術を習得すること、と言うねらいがあったに違いない。特に前者は、言
語統制をしくことで指揮系統の円滑化を図ったと考えられる。何しろ当時の日
本では薩摩から蝦夷までほぼ全ての「国」で違った言語(方言)を使っていた
。通訳がいるほど激しかったという。とにかく学校誕生とはつまり政府による
国民統制機関の誕生でもあった。しかし時代は巡り今では共通語として標準日
本語が当たり前になるほど普及している。そして今学校の果たす役割は社会性
を身につける、と言うことにすり替わったのだ。これも一種の統制だしある意
味個性の弾圧だ。しかし、弾圧だからと言って攻めるべきではない。なぜなら
、学校は社会のルールをたたき込むところであり、殺人は良くない、万引きは
良くない、だとかを教えて犯罪を起こさないよう教育するのが目的だからだ。
勉強だって、社会に出て最低限知っておかねばならない知識を頭にたたき込む
ためにあるのだ。学校の役割について言えばこうなる。皮肉なことに文部省の
お役人さんにはそういった認識はないようだ。だからやたらとゆとりを強調し
たり家庭での時間を大切にしたがるのだ。人格形成に大切なのは家庭での生活
である、などと責任逃れか? では家庭について考えようではないか。 
 
 
 第二にいじめのもう一つの側面である家庭というものを考えてみよう。家庭
、特に核家族と言うのはある問題をはらんでいる。それは「親-子供」という
直接的、一方的な関係が存在すると言うことだ。しかも核家族ではそれが全て
なのだ。一人っ子などはさらにひどくて、兄弟がいるところに比べてその関係
は濃密になるし、喧嘩が出来ないから我が儘になる。そういった関係の緩衝剤
になるような親戚が同居しているといいのだが、少子化・高齢化だとそれは望
めない。おじさん・おばさんと言った親戚筋が減るからだ。つまり、現代家庭
では行動の自由が利き過ぎるので身勝手な人間が出来てしまう。しかも他人と
のリンクがないので他人とのつきあいが下手になり、社会の和に入れず、自分
を否定(抹殺=ひどいと自殺)したり、逆に他人を否定(抹殺=ひどいと殺人
)したりする。これが少年犯罪のからくりの一つだと思う。そんなわけだから
家庭ではない場所で社会を生きるすべ、つまりは社会性を、身につけねばなら
ないのだ。これで前項とつながったわけだ。
 
 
 それではこれまでのことをふまえてもう一度いじめについて考えてみよう。
いじめが起きてしまうのは、結局学校の怠惰と、家庭の持つ避けられない欠点
とがうまい具合に重なって育った人間が引き起こすのだ。だから対策としては
まず、「学校再定義」を行い、目的を明らかにして、学校でちゃんと社会性を
身につけさせる。そして生徒をもっと遊ばせるのだ。当然テレビゲームではな
く、チームプレイを必要とするスポーツがいい。他人との協和を楽しく学ぶこ
とがとりあえず先決だ。それに部活などをやらせて学校に長く引き留めるのも
いいかもしれない。遊んでいながら、気付かないうちに社会性が身に付く。家
ではくつろげばいい。結局学校では個性はある範囲内に制限され弾圧され、家
では個性がいかんなく発揮される。例えばエジソンは、学校ではその個性が「
出る杭は打たれる」式に弾圧されたが、学校を三ヶ月で中退し自由になってか
らは大いにその個性を発揮した。学校は個性をつぶす、実は恐ろしい場所なの
だ。しかし、普通はそんなことは思わないしそんなことはないと誰もが思って
いる。そして見えない重圧を受けている。むしろもっと見せてもいいと思うが
。とにかく、「学校=社会性を学ぶ場所」「家庭=我が儘の通る場所」として
そのニ者のバランスをうまく保つようにしたらいいのではないか? ただし、
塾は学校とは全く違う。塾は勉強しか教えない。その点にも要注意だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ホームページ