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「食べられる」か
アジサイ の広場
陽一 あわつ 中2
 「食べられる」か「食べる」か。「見られる」か「見れる」か。後者の用法
は許されるか否か。あるいはそんなことを公に議論すること自体、有益かどう
か。いわゆるら抜き言葉に関心が集まっている。どうして「ら抜き言葉」ばか
りが騒がれるのか。それは、昔から日本語の最後の部分が「られる」が当たり
前になっていたからだ。
 
 しかし、その昔の人たちの考えが変わりつつある。今は、昔のようにられる
で終わるというよりは、(見ない)(見て)(見る)(見る時)(見れば)(
見よ)などの様にいろいろな終わり方がある。そのように、昔のものから新し
い物に変わるのは良いことといえるだろう。最近の人たちは、古いものは、正
しいが不便。新しい物は、間違っているが便利であるという考えがおおい。そ
のような考えは不利物から、新しい物に変わろうとする人間の意志なのだろう
 
 今、書いたとうりだが、新しい物に変わろうとする例として、会社に着てい
くスーツなどがある。日本で働く人の大勢は、スーツで働く人が多い。でも、
アメリカなどの場合、Tシャツに、ジーパンという姿が多い。そのようにして
昔とは違う生活をしようとしている。
 
 でも、こうなると、昔のものはなんでも駄目だ、という考えが強くなってし
まう。最初のほうに書いたとうりだが、昔のものは、正しいという考えだって
ある。この昔の考えを何一つ使わないとしたら、とんでもない事になってしま
うだろう。昔の考えを取り入れる事はとてもよい事だと思う。その昔の考えを
取り入れた結果、日本のように会社にいく時スーツを来ていったり、といった
ようになる。
 
 一番良いのは、昔のきちんとした所を見習いながらも、世の中は変っている
訳なんだから、新しいものをする事が出来れば一番いいのでは、と思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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