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もしも「忘れる」という現象が
アジサイ の広場
武照 あよ 高3
 「最近、若者の足が短くなったと思ったら、ズボンを腰ではくのが流行って
いるのだという。個性を示したいのなら鼻水を垂らせ。そのほうが君たちには
お似合いだ。」(朝日新聞、天声人語)
 
 「人間は唯一、服を着る動物であります。人間は服を着ることによって個性
を表現するのであります。しかし、どのような服が個性を伸ばすものであるの
か軽々しく決めることは出来ません。我々、生徒指導委員としては制服を正し
く着る事に青春の青空にも似たすがすがしさを感じます。」(某県立高校で配
られたプリント)
 
 面白いですな。指導委員様、前半と後半で言っている事が矛盾していますぞ
、などというつっこみは不要だろう。しかしここで私が言いたいのは、我々が
衣服を望むからその総和としてフアッションが存在するのか、そもそも衣服と
いうものが、果たして上で言うように個人や個性といったものを表現するため
に存在するのかという点なのである。我々が、流行の服を着たり、ネクタイと
いう奇妙な紐を締めてみたり、制服を着たりするのはなぜか。それは、会社や
学校や異性といった「社会」に認められるためではなかろうか。言い換えるな
らば、社会という場が、その構成員である我々に衣服という共通言語を着せて
いるのだ。新聞は「アムラー」をクローンと評していたが、これはある意味で
当然の現象と言えるであろう。
 
 衣服だけではない。現在の科学にこそ個別の総和として全体が存在するので
はなく、全体というものが先にあり、それが個別を決定するという考え方は重
要である。科学というものは様々なものを分割してきた。自然科学は物体を原
子に、人間をDNAにし、人文科学は文学作品を個々の単語にした。しかし、
我々は気付きつつある。はたして部分の理解は全体の理解であるのかというこ
とだ。全体を見る視点というものが現在の科学に求められている。
 
 そもそも、分析的手法が一般的な認識方法として力を持った背景は何なので
あろうか。それは資本主義の発展と不可分の関係にあった。個人の利益という
発想は産業革命以降に根づいたものだろう。そしてその個人の総和が国家と認
識されるようになった。これが民主主義である。面白い事に、個体を単位とす
る進化論をウォレスやダーウィンが唱えたのは産業革命直後の事である。日本
において今西錦司が種社会を単位とした進化論を唱えたのは、農耕文化を
 
 根強く残した日本であったからこそであっただろう。いずれにせよ、個別が
単位という発想がそれ以後の科学の在り方を決定した事は間違いないと思われ
る。
 
 科学の将来を考えた時、膨大な情報をまとめあげることの出来るコンピュー
タは有効な武器となるであろう。映画「ジュラシック・パーク」でダチョウの
ような恐竜の群れが走る場面があったが、その時の動きは渡り鳥の動きをシュ
ミレートする事によって得られた法則に従ったという。個別の鳥の動きを正確
に描写するだけでは群れ全体の動きは科学的に認識する事は出来なかったに違
いない。全体から部分へという視点は、物を細かく切り刻みすぎた現在の科学
に新たな視点をもたらすだろう。
 
 確かに、全体から部分へという手法は直感論に陥る危険を持っている。花を
みて奇麗だと思う事は科学ではない。科学が世界を正確に描写する事が目的で
あるならば、分析に変わる新たな手法が今必要なのである。その手法が世の中
に浸透した時始めて、文頭の衣服に関する記述は過去の遺物となり、ファッシ
ョンは、新聞に論評されるに足る対象となり得るのである。 、
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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