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分析とは外から見る立場
アジサイ の広場
武照 あよ 高3
 「赤ちゃんが泣いています。あなたはどうするべきですか。次のイ~ニから
選びなさい。」選択肢には、薬を飲ます、背中をたたく、母を呼ぶ、ミルクを
飲ます、といったことが並んでいる。正解は、最後の「ミルクを飲ます」であ
る。
 
 これは、一昔前にある女学校で実際に知能指数(IQ)を測定するために用
いられた問題である。現在の一人っ子の小学生が同じ問題を解いたらどうであ
ろうかと考えてしまう。ここに、「知能指数」という分析的手法の持つ大きな
問題点が見え隠れしているであろう。つまり、変化する社会の中で生きる人間
というものが、はたして普遍的な定規で測れるのかという問題である。現在の
社会は分析的手法が非常に信頼を持っているといって良いであろう。花はまず
、花びらをちぎることから始まる。そしてバラバラになったものに「名前」を
付ける。これがもっとも客観的に物体を見る手法と考えられているのである。
知能指数は人を「知能沈滞児」と「知能正常児」に分け、偏差値は人を「優良
成績者」と「不良成績者」に分けた。しかしこれは同時に分析して「名前」を
与えれば分かった気になる社会を生み出してしまった。分析できないものをも
分析し、その結果が力を持ち得る社会なのである。最近、セレラ社が解析を終
了したという遺伝子研究もこの延長線上に在るものであろう。しかし、この分
析的手法がこのまま肥大していくならば、「名前」は増えるとも、本質はまっ
たく見えない社会が生まれる危険があるであろう。
 
 現在の社会で分析的手法がこれほど信頼を勝ち得てきた背景は何であろうか
。それは初期の科学というものが宗教的な精神世界となるべく対立しないよう
に発展してきたということがあるように思われる。ガリレオは宗教裁判で「科
学は惑星の運動を記述するのであって、なぜそのような運動が存在するのかを
説明する宗教とは矛盾しない」と述べたという。この構図は現在でも見ること
ができる。以前ナショナル・ジオグラフィック誌の投稿欄に「科学は進化論を
克明に記述しているが、そのような神秘が存在すること自体が神の存在の証明
なのだ。」つまり当初、分析的手法は「精神」や「人間」といったものを除い
た「客観的」な分野で発展してきたのであり、また客観的な範囲においては分
析的手法は最も優れた手法だったのである。
 
 しかし、その分析的手法が行き着くところまで行き着くのは、それほど遠く
はないだろう。社会科学であれ理論数学であれ、分析から全体論への流れがあ
るのは、分析的手法が破綻をきたしてきたことと無関係ではないだろう。日本
の歴史というものを、「百姓」に焦点をあててよりマクロに描こうとする網野
史学も当然の流れであったかもしれない。現在のコンビニエンス・ストアーが
やっているようにコンピュータの発達と普及は、今後ミクロからマクロへの「
脱皮」におおきな鍵を握っているように思われる。
 
 「IQ」を「愛級」と勘違いして覚えていた大学生がいたという。まこと良
い呼び名ではないかと思う。人間の本質は分析的手法による「知能指数」では
なく、むしろ「愛」級にあるのではないかと思われるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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