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 「ピルトダウン事件」について語る時、我々は必ず次のような一文を付け加
える。「私欲や名声を得るために手段を選ばなかった彼らは科学者と言うに値
しません。科学は必ず客観的な考察のみによって発展するのなのであります。
」この事件を語る者は皆、道徳的教訓を書きたくなるものらしい。ピルトダウ
ン事件は十九世紀初頭に起きた、人骨化石の偽造事件である。三人の首謀者た
ちは、現世人類と初期人類をつなぐ「ピルトダウン人」の化石を「発見」した
。生物は段階的に進化すると信じられていた当時は大発見としてもてはやされ
たが、後にこの化石は現世人類の頭骨にヒヒの顎を取り付けたキメラであるこ
とが発覚した。(グールドによれば、その首謀者の一人は神父であると言う。
そんな化石を発見して困らなかったのかね。)
 
 この事件はとんでもないことには違いない。科学におけるデータの信用性を
揺るがした罪は重かろう。が、この事件は現在の科学に必要な「とんでもなく
ないこと」が含まれているように思われるのである。これまでの科学の大発見
は、例外なく科学者の「こうであって欲しい」という主観的な思い入れによっ
てなされてきたのである。「ピルトダウン事件」だとて、首謀者の欲しかった
ものは名声だけではなかっただろう。漫画家でアニメ監督の宮崎駿も、「もの
のけ姫」で網野史学に基づいた独特の歴史観を描いていたが、インタビューで
「侍が日本の歴史をつまらなくしていると常々思ってきた」と語っている。ま
た、ニュートンも新聞記事で「リンゴが大好きだった」と白状している。現在
の科学と言うものは、何よりも先に客観性が求められる。しかし、科学に新た
な視点を与える意見と言うものは、常に主観的な独自の思い入れが必要なので
ある。現在のような科学に対する姿勢が変わらない限り、科学は近い未来行き
詰まることになるであろう。
 
 科学から主観性が排除されてきた背景は何なのであろうか。それは、宗教な
どによる歴史的な背景が最も大きいであろうが、それと同時に、現在の大学の
「後進性」が挙げられるはずである。現在の大学院にはハーバード大学助教授
スティーブン・グールド曰く「最も旧式な」師弟制度が機能している。たしか
にこれが上手く機能していれば、教授は学生の資金調達に時間を割き、学生の
成果は教授の名声に還元されるという「共生」関係が成り立つ。しかし、これ
を科学の進歩と言う点で見た場合、ある程度のポストを得るまでに教授に対し
て真っ向から反論することはできないということを意味する。福井で発掘を手
伝う学芸員に直接聞いた話だが「発掘中、教授が要らない化石をくれると言っ
ても、決してもらってはいけない。博物館に寄贈しますと言わなければ将来の
出世はない」。「こうであって欲しい」という主観性はまことに育ちにくい環
境と言えるであろう。
 
 いっそ教授と学生の有機的な関係を絶ってみてはどうだろう。決して極端な
話ではない。カンブリア期の生物の研究で改革的な役割を果たした、サイモン
・コンウェイ・モリスは彼の教授ウイッティントンについて次のように語って
いる。「彼は私にとってこれ以上はないと言って良いほどすばらしい教授だっ
た。私にスケッチをしたらと助言しただけで、それ以外の命令は一切下さなか
った。それでいて、援助は惜しまなかったのだから。」彼らは、面接以外ほと
んど顔を合わせたことはなく、互いに文献の中で議論をしたと言うから驚きで
ある。有機的な関係は、直接学生を育成することを可能にするが、それ以上に
その関係が感情的な好き嫌いに結びついていることを我々は多くの例によって
知ることができる。
 
 たしかに主観的な思い入れが時に科学の判断を誤らせてきた事も事実である
。ダーウィンとて生物の親と子が似るのは血に含まれる成分が混ざるからだと
言う説を唱えていたし、頭にダイオードをつけることによって体の分子振動を
正常に戻し病気を直す機具を開発した人(実話。某教団を思い出させる。)、
パンツの紐が全ての病気の根元だと主張する人もいる。だが、彼らの問題点は
主観的な態度に終始するあまり、証明を試みようとしなかったという点にある
であろう。本当に研究するのであれば、彼らの思い入れも重要な科学の進歩の
原動力となり得たと信ずる。科学者達が独自の思い入れを持ち、証明するべく
議論するのであれば科学はより高次元の段階に踏み出すことができるのではな
かろうか。主観性を見直されてこそ、ピルトダウン人もにっこり笑って成仏で
きると言うものだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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