先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
Drive to new World.
アジサイ の広場
眠雨(みんあ うき 高1
 最近の情報化社会は無機質な社会であると言われる。インターネットや電話
を介した通信販売は、相手の顔が見えないという不安面があるという。画面の
向こうのどこの誰かも分からない相手は、常にこちらを騙そうとしており、詐
欺が横行し、気を抜けば大金を騙し取られる。そんな妄想すら、現代に対応し
きれていない「遅れた人」の中には根づいている。しかし、誤解してはいけな
い。新しい世界は決して冷たいだけのものではなく、むしろ大きな希望と可能
性の満ちた場所であるのだ。私たちは、自らの慣れ親しんだものに偏執的なま
での保守性をもつ。だが、古い認識を打ち砕き、新たに前進していく生き方が
、これからのめまぐるしく変化する世界の中で必要とされるだろう。
 
 では、最新の「世界」であるインターネットの売買と、現実の我々の売買は
どう違うのだろうか。インターネットでの販売は、基本的にすべて年中無休の
コンピュータにプログラムされており(プログラムというほど大げさなもので
もないが)消費者がプログラムを介して送った情報を―大抵は日ごとに―管理
人がチェックし、そして消費者の元へ郵送されるというシステムになっている
。ほとんどの場合は銀行口座から直接引き落とされるため、実際の金の受け渡
しはいらないという便利さだ。だが、このやりとりがどうも気に食わない方が
いるらしい。商売は「客寄せ」をして「値切り」をして「お得商品を薦め」な
ければならないという、奇妙に昔風の認識を持っている方が。だが、道端での
アクセサリー販売ならともかく、現実の大きな商店や本屋で、一体どれだけそ
んなことがされているのだろうか。コンビニのレジで、バイトのお姉さんに「
ええ、こんなに高ぅなるん?ぎょぉさん買うたんやからまけてぇな!」なんて
言ったりしてるだろうか。現実にはそんなことはごく稀だろう。例えば、私が
本屋へ本を買いに言ったときと、インターネット販売で本を買ったときとを比
べてみる。重たい本を二冊、カウンターへ置く。店員さんが無言で背表紙を見
返し、レジを打つ。すらすらとビニールカバーを外しながら、値段を言う。こ
ちらは財布を探り、あと十円がなかなか見つからず苦労し、結局お札で払って
かさばるお釣をもらう。店員さんは「ありがとうございました」を言う。こん
な「人との触れ合い」と、ウェブページで一回ボタンをクリックするのと、ど
んな違いがあるというのだろうか。商売を介しての触れ合いは既に過去の産物
である。細々と生き残っているそれにとらわれてはいけない。
 
 また、物の売買に限らず対人関係においても、ネットは決して冷たい社会で
はない。いくら顔が見えないといっても相手は人間なのだから、言葉さえ通じ
れば、そう一般に思われているほど異様な空間ではない。もちろん、相手の表
情を読んだり、言葉の微妙な情緒を感じたりといったことは無理だ。そういっ
た面では確かに「冷たい社会」と言われるかもしれないが、それは、文章を上
手くしたり、フェイスマークを使ったりすることによって解決できるものだ。
もし、ネットが人と会話をするには全く向かず、あくまで情報の発信地と受信
地であるとすれば、何故「ネット恋愛」などという考え方ができるのだろうか
。それは、ネットを介しても人間の暖かみに触れることができた結果ではない
だろうか。ネットでの魅力は、現実世界で言う、容姿などが美しいこととは無
関係である。顔が見えない故に、ある意味もっとずっと人間の本質的な部分で
、美醜が判断される。エドモンド・ロスタンの脚本「シラノ・ド・ベルジュラ
ック」で、ロクサーヌは、顔を見せないシラノの情熱的な恋文に心を打たれた
。彼を見たことはなくとも、ロクサーヌは彼に焦がれた。シラノは鼻の大きな
醜い男であったが、彼の心は人間的な魅力をもっていたのだ。
 
 確かに、そんな社会が広がって、家にいながらにしてあらゆる用が足せるよ
うになってしまえば、実際に人間が会うときの、触れ合いやつながりの大切さ
が薄れてしまうという意見もあるだろう。しかし、まだまだネットは発展途中
の世界である。そのうちに、脳とコンピュータを接続する回路が作られ、電気
信号によって脳の様々なデータを刺激し、疑似空間を構築することすら可能に
なるだろう。人ともその中で会い、食事をして、触れて(触覚や味覚だって脳
の機能だ)、ということもいずれは可能になるだろう。そうなった時、孤立す
るのは時代に後れた人々だ。「脱皮できない蛇は滅びる」のである。我々は、
もっと新たな技術に対して意欲的に、貪欲に、肯定的になるべきだ。

ホームページ