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コミュニケーション
アジサイ の広場
ひまわり あなつ 高1
 今、日本の都会では路上でものを売る人を見かけることがほとんどなくなっ
てしまった。常設の店が出来る前は、自分の家の畑でできた食物を町まで運ん
で道端で売っていた。しかし道で売ってるものは時として信用できない。もし
それがインチキな品でも苦情を持ち込む先がないのだ。路上の、取り引きには
いつもこれくらいのリスクがつきまとう。それはしょうがないとして、それよ
りも人にとって必要なものがそこでは与えられている気がする。
 
 未成年は煙草を吸ってはいけないと法律で定められている。ということは煙
草を買う必要がないのである。しかし中には吸おうとしてしまう奴もいるだろ
う。それを他人は止めなければならないと思う。昔はタバコ屋のおばさんやら
が止めてくれただろう。だが今は簡単に、誰にも監視されることなく手に入れ
ることが出来る。自動販売機という便利なものが出来たからだ。自動販売機に
は気持ちというものがないのだ。よって、コミュニケーションというものが産
まれないのである。
 
 学校のそばには、ある老人夫婦がやっている駄菓子やがある。うちの学校の
生徒達はよく買いに行く。(少し恥かしいが…)私の場合、部員達とよく行く
。するとだんだんと顔見知りとなり、軽い会話をするようになっていく。とて
も楽しいひとときとなるのだ。時には何かをおごってもらったり、私たちから
も作ったクッキーなどを持っていったりもする。ただいつもお菓子を買いに行
くだけなのにこんなにも人と接することが出来るのだ。そこには人間同士のコ
ミュニケーションが存在するのだ。
 
 人が生活していく中で、コミュニケーションはなければならないものだと思
う。確かに自動販売機は、人を使わなくていいし、どこにでもおくことが出来
るし、とても便利である。しかしそれだけではだめなのである。最近は、駅の
改札などもほとんどが機械化され、人と人との接触が少なくなってきている。
だからだんだんとひとと話したりするのが面倒になってきている。私は、デパ
ートに買い物に行ったとき、お店の人に声をかけられるのが面倒で嫌なときな
んてしょっちゅうある。しかしこれでは駄目なのだ。人は常に人と会話を持ち
、気持ちを確かめ合いながら生活しなければならないのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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