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ある人物についての物語が
アジサイ の広場
武照 あよ 高3
 片手に猟銃を持ち、ゴビ砂漠の砂丘の上で片足を前に伸ばして、白人の探検
家が座っている。
 
 古生物学の歴史について書かれている本を見ると必ずと言って良いほど載っ
ている写真である。この探検家の名前はロイ・チャップマン・アンドリュース
。「インディー ジョーンズ」のモデルになったとも噂される人物である。(
スピルバーグ監督は「アンドリュースって誰だい?」と言ったそうだが。)彼
はアメリカ自然史博物館の研究員としてゴビ砂漠を始めて遠征し、恐竜の卵を
発見した人物として知られている。しかし、彼の本来の目的を知る人は少ない
。食べられもしない恐竜の卵探しなぞに、誰が金を出すと言うのか。実は、彼
が欲しかったのは人間の祖先の化石なのである。白人は最も進化した人間であ
るのだから、白人圏から最も遠いゴビ砂漠で人間祖先は発見されるべきだと彼
は考えていた。科学の華々しい業績が、偶然にせよ、当時のアメリカ社会に染
み付いていた「世俗的」通念を証明するために成し遂げられたということは注
目に値する。
 
 これはなにも人間の歴史に関することだけではない。我々の人生についても
言える事である。我々は物事を決断する際に、自らの来歴を作り上げる。そし
て現在の自分を位置づけることによってその決断の根拠を得ようとするのであ
る。例えば、将来獣医にも弁護士にもなりたいが、自分の前世は犬だったから
獣医になろうと我々は考える、わけないか。しかしこの個人的なものであるべ
き来歴は時に、社会的通念や正義というものによって構築される。「エリート
」になるためにはこのような人生を歩まねばならぬという通念がこれである。
しかしこれはアンドリュースが人間の歴史を構築するにあたって、白人優位主
義に基づいていたという誤りとまったく同じであろう。日本人が、ベンチャー
企業の発達において米国等に見劣りするのは事実であるが、これは日本人の来
歴が、社会的通念と言ったものによって制限されている一つの現われと見る事
が出来るかも知れぬ。
 
 日本人の来歴が社会的な通念によって構築されている背景として、日本の社
会が比較的身近で小さな集団を単位としていると言う事が挙げられる。阿部謹
也の言う「世間」とはまさにこのことであるが、日本では個人と言うものが「
世間」という小さな集団との関わりの中で定義される。この「世間」と言うも
のは小集団であるが故に、結束が強くまた画一化しやすいのである。だからこ
そ一つの巣に棲むアリさんは、芸術家のキリギリスさんに、「冬が来るのだか
ら、食料を貯えるか遊んでいるか決断しなさい。でも私達は遊んでいるのは嫌
いだから食料を貯えますよ。」と冷ややかに言うのである。
 
 たしかに社会的通念によって構築された来歴と言うものは社会を団結させる
のに役立つであろう。戦争直後の飢えを経験している労働者を団結させ、池田
勇人は「所得倍増計画」を成功させた。しかし、我々はその恐ろしさも見てい
る。我々はカルト教団の結束力の強さに目をみはる事があるし、ナチスのヒッ
トラーは、「正義」によって労働者をまとめあげ、人種弾圧を行った。我々は
「正義」や「社会的通念」に準拠した来歴ではなく、独自性に基づいた人生を
送って行く必要があるであろう。そしてまた、個人の来歴に必要以上に立ち入
らない社会を作って行かねばならないはずである。
 
 アンドリュース率いる自然史博物館が後に、人間の進化学的同等性を明らか
にして行くこととなるのは、興味深くとも皮肉な事と言えるであろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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