先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
「経験界で出会うあらゆる事物」
イチゴ の広場
きわ 大3
 言葉とは、本来「もの」という中身が存在して、その「もの」と他を区別するた
めに生まれた。そのため、言葉とは、「もの」という存在が前提となって、初め
て成り立つのである。
 
 しかし、今日私たちの社会では「もの」という中身よりも、言葉、言い換えれ
ば、「もの」の特徴をあげたにすぎない言葉という知識ばかりがもてはやされ
ている。例えば、今私たちは美術館で絵画を見ているとしよう。そこで絵画を
見る前に「これは1800年代に、ゴッホによって描かれ、この絵の金額は1千
万円位だ。」と言われてしまったらどうであろうか。その絵画から受取ること
のできる美しさ、奥ゆかしさなどなくなってしまうのではないだろうか。
 
 このように、今日私たちのあいだでは表面的な知識ばかりが重視され、「も
の」の美しさ、感動することを忘れてしまった。
 
 それはなぜなのか。理由は三つある。一つは、今日までの能率重視の社会。
結果がすべてという見方である。例えば、学校教育にしても実際に実験をして
その過程から学ぶのではなく、実験を省略して結果のみを知識として教えられ
る。
 
 二つ目には、私たちの追い求めてきた「目に見える幸せ」。お誕生日、クリ
スマスにはプレゼントがもらえ、お正月にはお年玉がもらえる。お腹が空けば
、いつどこでも空腹を満たすお店がある。望むものがあれば、なんでも手に入
る世の中になってしまったのである。
 
 三つ目に、この知識重視の傾向をそくす結果となった高度情報化社会がある
。わざわざ自分で行う必要、行く必要はない。電話一本で、インターネットで
わからないことを解決できるのである。
 
 このような、能率重視、「目に見える幸せ」、高度情報化社会の中で、どう
すれば私たちは表面的な知識ではなく、「もの」の本質、存在の意味を問い直
すことができるのであろうか。
 
 答えは、とにかく触れることである。何かを媒介にするのではなく、実際に
行動することであり、体験することである。そして、そこで抱いた疑問をその
ままにするのではなく、自分で調べていくこと。
 
 たしかに、教科書や本、インターネットに載っている知識も大切なものであ
り、必要不可欠なものである。
 
 しかし、これらはあくまでも補助的なものであり、この知識を踏み台として
多くのものを自分で感じ取っていかなければならないのである。そして、その
ようにすれば自然と美しさや存在の意味がわかってくるのである。本来、「も
の」の美しさ、存在の意味とは我慢して、努力したからこそわかるものではな
いだろうか。
 
 今日の社会の技術発展はもうすでに行き着くところまで行きついてしまい、
私たち自身も技術を追うことに疲れを感じるようになった。その中で、誰が見
ても同じ答えという知識ばかりを追うのではなく、一人の人間としての眼で見
た「もの」の美しさ、存在する意味を問いなおしても良いのではないだろうか
 
 そして、その一人一人違った感性から生まれる発想によって、これまでに技
術発展とは違った新たな世界が開けるのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ホームページ