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ネバーランドへ届かない
アジサイ の広場
ペー吉 うき 中3
 中身がない人間、という比喩がある。人間としての自我、「自分である」と
いうアイデンティティ、自分らしさがない人間を指して言われる言葉だ。現代
は、こういった人間が増えていると言われる。現れては消えて行く流行の波に
踊らされ、時代に着せ替えられる若い人々。足を挫きそうな厚底ブーツ、孔雀
のような色とりどりの髪、病的に黒い肌。マスコミが煽り、社会問題のように
まで言われている。先月の成人式などでは、チャンネルを回す度にインタビュ
ーを受けている「今風のヒト」の顔が見えた。だが、多くの情報源はこの問題
の「指摘」で終わってしまっている。私たちに大切なのは、いかに「中身のあ
る」人間であるべきか、ではないだろうか。
 
 まずそのための第一の方法は、使命を見つけ出すことであると思う。大袈裟
に書いたが、つまりは自分が現世で「何をするべきか」ということだ。自分な
りの目標がなければ、人生に意味はない。外へ目を向けて、外に合わせること
によって自分を作り出すのではなく、他者がどう言おうとも、譲れないものを
持つということ。それが必要である。例えば私は、文を書くことが好きだ。こ
れからも、書くこととともに生きたいと思う。ささやかな感動を、伝えること
ができればと思う。物書きなんて、とても流行にのっているとは言い難い。だ
が私は、駅前でギターを弾いて歌うよりも、文章に憧れるのだ。私はまだ若い
から、進むべき道はこれ一つではないだろう。しかし、今確かにこの「譲れな
いもの」を持っているというのは、私のとってのささやかな誇りでもある。
 
 だが、個人レベルでの意識の改変は、現代を改変するほどの大きな動きには
なり得ない。ではどうすればいいかというと、そのための第二の方法は、社会
レベルで改変することである。つまり、社会に影響を及ぼす存在、若者を作り
上げる学校や、流行を組み立てるマスコミなどを、だ。最近の学校教育は、「
学びたいものを学ぶ」「必要なものを学ぶ」という姿勢から離れているように
思う。学習とは本来、自分が知りたいことがあり、それを学ぶことであったは
ずだ。しかし、現在の学校は、勉強を「させられる」場、ともすれば「成績を
作る場」になってしまっている。生徒一人一人が、将来のために学びたいこと
がある。けれど、それは学校に期待してはいけない。本当に学びたいならば、
学校では学べない。そんな奇妙な環境が形成されてしまっている。そればかり
か、煩雑なカリキュラムと多忙な成績戦争の中で、「自分」を考えられる時間
は削られていき、数字にばかり目を向ける、夢を作る余裕のない人間ばかりが
出来上がってしまう。やりたいことがわからない。夢の見方がわからない。自
分が自分かわからない。ピーターパンは来てくれない。先日新聞の投稿欄に、
ある記事があった。それはごく普通の、面白いと思った漫画を薦めるものだっ
た。海賊王を目指す主人公の少年の絵が大きく描かれ、その周りに「夢を追い
かける彼の姿は、私を元気づけてくれます」といった内容の文章が書かれてい
た。夢をもつことの大切さを、多くの国民が日ごろから、或いは無意識のうち
に実感しているからこそ、こういった漫画が人気をもつのだろう。娯楽はその
形を変えようとしている。だが、お堅い機関は、小回りが上手く効いていない
のが現状である。
 
 確かに、無茶な夢で食っていくことはできないのだから、堅実に稼ぐ方がい
いという人もいるだろう。しかしそんな人でも、まだ小さかった頃には、成り
たかったものがあるはずだ。それを諦めてしまった事情は様々だろう。だが、
その「現実の壁の向こう側」に、悔やまない心がある。私たちは、逃げずにそ
れを追って生きるべきだと思う。「夢ならあるはずだ あなたにも僕にでも 
見つかりにくいだけさ 忙しすぎて」とは、B’zの「ミエナイチカラ~invisi
ble
one~」の中の一節だ。目まぐるしくせわしい現代の中、それに追い立てられ
ず、流れ行く流行の中に在る一つの石になってみてはどうだろうか。私たちに
必要なのは、流される木の葉でなく、水底からじっと水面へ憧れる、頑固な小
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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