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首飾りというものは
アジサイ の広場
武照 あよ 高2
 祭りの帰り道、ワルガキ達は満足だった。彼らのポケットはパンパンに膨ら
んでいた。中にはガムやら、ヘビのおもちゃやらが入っている。その中の一人
が言った。「俺のビー玉、夕焼けの匂いがするんやぞ。」「ばかたれ。夕焼け
の匂いがするわけ無いやないか。」そういったワルガキはビー玉を受け取ると
、ビー玉を受け取ると中を覗いた。中には奇麗な夕焼けが映っていた。「ほん
まや。夕焼けの匂いがする」
 
 灰谷健次郎の「ワルのポケット」にこんな場面があったことを記憶している
。どんな形であれ、子供の時に「宝物」を集めたことのある人は多いであろう
。物は機能的な面と精神的な面によって成り立っている。その精神的な面ゆえ
に、他人にとってはどうでもいいようなものが、自分との関係の中で何物にも
代え難いものとなるのである。去年、新宿でアンモナイトの研究者による講演
会が行なわれたのだが、その時、ある中年の参加者がアメリカの研究者に「ア
ンモちゃんは何故絶滅したんですか」と質問して場内を沸かせていた。しかし
その一言にたいする参加者たちの反応に、一種の賞賛と共感を感じ取ったのは
私だけではないだろう。近代社会は物の機能の面を重視し優先してきた。つま
り、いかに人にとって役に立つかが物の価値基準となってきたのである。ここ
で物の精神的な面、人間と物との関係によって育てられる価値に目を向ける必
要があるのではなかろうか。
 
 では物の精神的な価値がおろそかになった背景は何であろうか。一つは物の
機能的な変化に精神的な価値が追いついていないということである。現在、物
は驚くべきスピードで「進歩」している。パソコンであれば、購入した数年後
にはソフトが入らなかったりと充分に機能しなくなる。これをある評論家は物
に「もったい」という妖怪を付けてやることだといっていたが、要するに消費
者にいかに「もったいない」と思わせないかが企業にとっても重要な戦略とな
るのである。現在の消費社会は人があるものに精神的な価値を見出す前に、そ
の物を手放すよう仕向けているのであり、そうして成り立っている社会である
と言えるであろう。 
 
 それと同時に物と創造的作業の解離が精神的価値を見出しにくくしていると
いうことも言えるであろう。私の家には多くの化石が眠っているが、その一つ
一つを見る度に、河に流されそうになったり、崖をよじ登ったりといった「思
い出」が蘇る。化石採集が創造的作業かどうかは別として、物に自ら働きかけ
て得たものというのは愛着が湧くものである。例えば作家の立花隆が一本の「
モンブラン」という万年筆をずっと使っていることは、その物の機能と共に、
長年それで文章を創造してきたということと無関係ではないだろう。
 
 現在のお金があれば精神と結びつかずとも物が手に入るという状況は、それ
が消費社会の大きな利点ではあるのだが、物と人間との精神的な関わりを希薄
にしているように思われるのである。
 
 たしかに人間は物の精神的な価値を無視し、機能的価値を追求することによ
って多くの物を得てきた。急速な技術革新は「愛着」や「もったいない」とい
う気持ちを加味していては成し遂げられなかっただろうし、大量生産と大量消
費によって現在の資本主義は成り立っているといえる。しかし、機能的価値ば
かりが優先された社会というのは人間のもっと本質的ものを見失った社会であ
るとは言えまいか。科学で言えば、明治時代には機能的価値を優先した「実学
」がもてはやされたが、科学の本質は「好奇心」というより精神的価値にある
であろう。人間と物との関係を大事にした「夕焼けのにおいのする」消費社会
というものが求められているのではあるまいか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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