洞察やひらめきによって 読解検定長文 高1 春 1番
洞察やひらめきによって今まで見えなかったことが弁別できる、わからなかったことが 腑に落ちるということは 誰でも経験することである。しかし、だからこそ、私たちはそこに 介在している 暗闇への 跳躍に 驚くことを忘れ、ついつい 陳腐な数直線的時間観へと自分の生を写像してしまう。
しかし、本来、生というものは「 一瞬先はわからず」「 一瞬前は取り返しのつかない形で確定している」ということの 繰り返しであり、そこに最大の 驚異があるはずだ。たとえ一日の短い時間の中でも、不確定から確定への 跳躍がその中にいくつあるかということを思えば、そこには真に 瞠目すべき私たちの人生の、そして意識の流れの属性がある。(中略)
無限というものを、一気に 俯瞰できるようなその仮想の実体においてとらえるのではなく、可能体においてとらえること。1、2、3、……という自然数の数え上げにおいて、ある数の次にまた数があるということ自体が無限を保証しているように、私たちの生もまた、この 瞬間の次に何が起こるかわからないという点において無限を保証されているということを直視すること。たとえ、その不確定性の中に自らの死というアクシデントが 含まれていたとしても、その死への自由をも 含む「何が起こるかわからない」という事態こそが、自然数の数え上げのごとき可能無限を担保する。
一日のうちに 含まれる可能無限と、長き一生のうちに 含まれる可能無限は、その質において同等である。そのような 覚醒と 覚悟を持って生きる時、永遠の命とは決して数直線のようなメタファーの中にとらえられるものではないということが 首肯される。
死の 床に就いた人の 哀しみは、「次の 一瞬に何が起こるかわからない」という意味での不確定性の 幅が次第に 狭まっていく点に由来する。確定したものとして未来の出来事を知ってしまった男が直面するであろう自由意志のパラドックスとどこか似ている。たとえ残りの時間が物理的な意味において少ない場合でも、「次に何が起こるかわからない」という不確定から確定への 跳躍のときめきを∵胸に秘する限り、私たちは無限のオーラに包まれて生きることができる。死という文脈が次第に自分の身体をがんじがらめにしてしまっていく時、私たちはかつて自分が持っていた自由意志という 幻想が 劣化し、不確定性の白い光が次第に弱まっていってしまうことを存在の 奥底から 哀しむ。
創造性とは、つまり、未来はあらかじめ読めないということのもっとも 純粋なる表現である。世界が今までとは 違った場所に見えるということ。そのような認識論的革命への志は、生きる 衝動の素直な表現になる。だからこそ、ピカソやアインシュタインといった創造者は、生を本来の意味において全うしているように見える。
カフカがその小説の中で 描くような形式主義に従う 惰性の人がもはや生きてはいないように思われるのは、不確定から確定への 跳躍の 欠如においてである。 跳躍への感性が失われる時、人生は本当に有限のものになってしまう。
現代の脳科学は、感情を不確実性への適応戦略としてとらえる。しかし、不確実性を、アンサンブル(集合)の要素の 完了した数え上げの結果としての確率論の 枠組みでとらえている限り、生の一回性の本質をつかみとることはできない。
かつて、神はサイコロを 振らないとアインシュタインは言った。確率論的世界観と、決定論的世界観の間の 齟齬は、量子力学の観測問題を初めとして、いまだ解決されていない困難な問題のいくつかに接続している。生における一回性を、可能無限の一つの表現として見る時、そこには明らかにまだ考え 詰められてはいない思考の 豊饒への入り口がある。その 抽象的思考は、ランドセルを初めて背負った幼き自分の生の切なき一回性を引き受けることにもつながっているはずだ。
不確定から確定への命がけの 跳躍に 寄り添う時、太陽が地平線に 沈む一瞬を見る人の心にも無限は訪れる。
( 茂木健一郎『思考の補助線』)
生物の遺伝的複製技術という 読解検定長文 高1 春 2番
【1】生物の遺伝的複製技術という意味でのクローニングは、 衝撃ではない。 誰でも知っている、植物のいちばん簡単なクローニングは、「さし木」というかたちである。動物の場合は、さし木というわけにはいかないが、体の一部分から全体が再生するものはいる。【2】人間も 含めた 脊椎動物にとって、最も身近なクローニングは、 一卵性双生児である。それほど 頻繁に起こるわけではないが、しかしひとつの受精卵に由来し、しかも同一の子宮で育つ 一卵性双生児が存在することは、古くから知られている自然界の出来事である。【3】この点では、体 細胞の 核移植により作られ、母親とは別の 胎内で育てられてできている羊や牛のクローンなどよりも「 完璧な」クローンであると言える。
【4】羊や牛のクローニングが社会的に 衝撃を 与えたのは、言うまでもなく動物の 核移植クローニングという技術が、人間にも応用されるのではないか、そして、ひとりの人間から、大量にコピーが作られるのではないかという 憶測と 危惧のためである。【5】同じ遺伝子だから同じ人格が作られるという 憶測である。 一卵性双生児でさえ、それぞれに独立した別個の人格を認めていることを考えれば、このような遺伝子決定論が 間違いであることは明白である。【6】にもかかわらず、人間の大量コピーというイメージが 一般化したのは、特に合衆国において、遺伝子を絶対視し、 環境因を軽視する 傾向があるためでもある。【7】このことをスティーヴン・J・グールドは、「生まれ」に気をとられるばかりに「育ち」の重要さを見落としている社会の危険性として早々と 指摘していた。
【8】「ドリー」のニュースをはじめ、その後各国で報じられるクローニング成功のニュースに接するたびに、わたしの脳裏に 浮かびあがる「複製」のイメージがある。一九九三年(平成五年)秋、 伊勢神宮で見た光景である。【9】この年は二十年に一度の「式年 遷宮」の年にあたるが、そのクライマックスである「 遷御」の日、内宮のなかを 撮影しながら、日の落ちる夕刻まで歩いたことがあった。【0】二十年ごとに 御正殿をはじめ、神宮すべての 神殿から神宝∵までを新しく作り 替える「式年 遷宮」は、簡単に言えば神々のお 引越しであるが、わたしには、それが形態的には一種の複製の 儀式のように見えたのである。建築的には 耐用年数にいたらない二十年というサイクルで、いっさいの 神殿がまったく同じ技法と形態のもとに 作り替えられる理由については、いくつもの説があるが、現実的な意味で説得力があるのは、「 唯一神明造」と呼ばれる建築様式の知識と技法を伝承してゆくための期間として、二十年が適当であったのではないかというものである。確かに平均 寿命が現在よりもずっと短かった時代に、親から子へ、複雑で 精緻を極めた建築技法を伝えるには、十年では短かすぎ、かといって三十年では長すぎたのかもしれない。いずれにしても、「式年 遷宮」という 儀式の二十年という社会的時間が、世代間の知識の伝承という時間に関係しているという説は、できたばかりの白木の 神殿をレンズ 越しに 眺めながら、すんなりと受け入れることができたのだった。(中略)
「式年 遷宮」における広い意味での様式の「複製」は、その背後に人生と社会が取りもつ「時間性」があるが、 核移植クローニングによる人間の「複製」には、この「時間性」が欠落している。クローンである親から生まれた再クローンの牛が誕生している今日、クローニングを重ねるごとに、 細胞が若返る可能性があるという研究報告さえ出てきているが、結果の当否は別にして、現在わたしたちが目の当たりにしているクローニングとは、これまでの生物が性を 介して営んできた「時間性」に、根本的な 変更を 要請するものではないだろうか。クローニングの登場によって「 適齢期」という言葉が死語になるとは思わないが、しかしおしなべて生物は、「しかるべきときに、しかるべきことを」しながら世代を 継いできたのだ。それは「しかるべきときに、しかるべきことを」という性の規則を、時間性として社会に 組み込んできた人間にとって、「 適齢」の意味を改めて問い直させるものではないかと思う。
(港 千尋の文章)
一九二〇年代は 読解検定長文 高1 春 3番
一九二〇年代は弁士の黄金時代である。 彼らはフィルムの物語をなぞるというよりも、ときに 即興的な説明をもって 逸脱を行ない、観客の物語受容による映画体験を自在に操作した。観客はフィルムよりも弁士の人気や好みに応じて、映画館に通った。 邦画に関していえば、弁士たちは映画の制作者に対して、自分たちのパフォーマンスが効果的になされるように、注文をつけることさえできた。こうして日本映画はハリウッド(およびそのシステムに 追随する世界中の映画界)とは別のシステムのもとに、独自の発展を続けた。
だが一方で、特権的な声のもとに観客を自在に操作できる弁士という存在は、きわめて政治的な役割を担うこともあった。植民地下の 朝鮮では、しばしば『国民の創生』(グリフィス、一九一五)や『 十戒』(C・B・デミル、一九二三)の解説を務めた弁士が観客にむかって民族主義を 昂揚させるような演説を 挿入し、立合いの日本人警察官に中止を求められた事件があった。日本ではある時期から弁士は 免許制となり、国民に忠孝の愛国思想を訓導することを要求されるようになった。
一九一九年前後に「 キネマ旬報」をはじめとする多くの映画雑誌が創刊されると、そこに集まった知識階層の批評家たちはいっせいに弁士制度を 攻撃した。 彼らの説によれば、弁士はフィルムが本来的にもっている物語をいとも軽々しく変形してしまい、平気で余計な 脱線をよしとしてしまう、映画の 破壊者ということになる。しかも 彼らは西洋文化に無知であるため、説明に 間違いが多い。無声映画はそれ自体として芸術的に完成しているべきなのに、それを落語や講談に近いものに引きずりおろしてしまう。したがってもしどうしても弁士が必要であるというのなら、あくまでもフィルムの補足説明の域を 脱してはならない、との主張である。なるほど、こうした批判に応えて、弁士のなかには単に補足説明に 徹しようとした動きも、あるにはあった。しかしながら、大衆の好みはどこまでも 文飾多く、声の表情の豊かな弁士に集まった。映画評論家が弁士にかくも 苛立った原因は、今から見ればあきらかである。弁士が∵(文字言語による批評の対象たるべき)フィルムのテクストを、一義的に決定することを大きく 妨げているからだ。
現在の地点に立つならば、少なくとも次のことがいえる。
弁士は単純に先行して存在するフィルムを従属的に解説する人物ではなく、むしろフィルムを 歪曲しながら 破壊してしまう存在であった。 彼は観客の映画体験を自在に操ることができたばかりか、制作サイドに対しても一定の発言権をもち、日本映画を、無声の自己完結をもってよしとするハリウッド映画とは異なった方向へと発展させるのに効があった。リュミエール以来、映画がすべからく表象の次元で止まっていたとき、 唯一日本だけが表象を 越えた現前の次元に 到達できていたとすれば、それはひとえに弁士があってのことである。そして、こうした事実は日本人の映画体験を確実に独自のものにしている。なんとなれば、 彼らはまずフィルムよりも弁士によって、観に行く作品を決定したからである。弁士の発明は日本文化にとって、漢字から平仮名やカタカナを発明したことに 匹敵するほど意味のあることではなかっただろうか。(中略)
弁士の時代はもうとうに過去のものになったと、 一般的には信じられている。しかし、映像を素材とするパフォーマーと考え直した場合、このジャンルには映像テクノロジー時代を生きるわれわれの求める、新しい演劇様式の可能性が 眠っていることは否定できない。現在、日本には、松田 春翠の弟子でただ一人、 澤登翠という弁士が存在している。
(四方田犬 彦『映画史への招待』)
文明とは何かを 読解検定長文 高1 春 4番
【1】文明とは何かを地球システム論的に考えると、「人間 圏を作って生きる生き方」となります。人間 圏の誕生がなぜ一万年前だったかというのは、気候システムの変動に関わってきます。【2】気候システムが現在のような気候に安定してきたのは一万年前のことです。それに適応してその 頃、我々はその生き方を変えたんですね。
【3】人間 圏を作って生きる生き方というのは、じつは農耕 牧畜という生き方です。それ以前、人類は 狩猟採集という生き方をしてきた。 狩猟採集というのはライオンもサルも、あらゆる動物がしている生き方です。【4】したがってこの段階までは人類と動物の間に何の差異もなかった。これを地球システム論的に 分析すると、生物 圏の中の物質 循環を使った生き方ということになります。生物 圏の中に閉じた生き方です。
【5】それに対して農耕 牧畜はというと、たとえば森林を 伐採して畑に変えると、太陽からの光に対するアルベド(反射能)が変わってしまう。ということは、地球システムにおける太陽エネルギーの流れを変えているわけです。【6】また、雨が降ったとき、大地が森林でおおわれているときと畑とではその 侵食の割合が異なります。別の言葉でいえば、そこに水が 滞留している時間が 違ってくる。すなわち、エネルギーの流れだけではなく、地球の物質 循環も変わるということです。【7】これを地球システム論的に整理して 概念化すると、人間 圏を作って生きるということになる。人類が生物 圏から飛び出して、人間 圏を作って生き始めたために、地球システムの構成要素が変わったわけです。
【8】ところで、先ほど一万年前に人間 圏ができたのは気候が変わったからだと言いました。そういう時期は最近の一〇〇万年くらいをとっても何回かあったでしょう。【9】人類の誕生以来の歴史七〇〇万年ぐらいまで 遡ってみれば、一万年前と同じような時期が何度もあったはずですから、たとえばネアンデルタール人が農耕を始めてもよかったことになる。でも、 彼らはそうしなかった。【0】農耕 牧畜という生き方を 選択し、人間 圏を作ったのは、われわれ現生人類∵だけなんです。
それはなぜなのか。現生人類に固有の、何か生物学的な理由があるのではないかと考えられます。 類人猿や他の人類にはなく、我々だけがもっている 特徴は何だろうと考えると、まず思い当たるのは「おばあさん」の存在です。おばあさんとは、 生殖期間が過ぎても生き延びているメスのことです。たとえば、 類人猿のチンパンジーのメスと比べても、現生人類のメスは 生殖期間 終了後の 寿命が長い。なおこの場合、オスは関係ありません。オスは死ぬまで 生殖能力があります。したがって、おじいさんは現生人類以外にも存在します。しかし、おばあさんは他の 哺乳類には存在しないし、ネアンデルタール人の化石からも、現生人類のおばあさんに相当する骨は見つかっていません。おばあさんの存在は、現生人類だけに 特徴的なことなんです。
では、おばあさんが存在すると何が起こるのか。すぐに思いつくのは、人口増加です。なぜかというと、おばあさんはかつて子供を産んだ経験をもつわけですから、お産の経験を 娘に伝えることができる。するとお産がより安全になり、新生児や 妊婦の死亡率も低くなりますね。
さらにおばあさんは、 娘が産んだ子供のめんどうもみます。たとえば 娘の 生殖期間が一五年として、子育てに五年かかるとしたら三人しか産めない。ところがおばあさんがいることで五年が三年に短縮されたら五人産める。ということで、おばあさんの存在が人口増加をもたらしたのではないかと、私は考えています。このことは最近の研究からも確かめられています。
我々現生人類は一五万年前ぐらいにアフリカで誕生したのですが、五、六万年前ぐらいには、すでに地球上に広く分布するようになっていました。人類のような大型動物が、なぜこんな短期間に世界中に拡散していったのか。これも現生人類の人口増加という問題を考えるとその理由が判ります。
( 松井孝典『 松井教授の東大 駒場講義録』)
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