おかあさん。私 読解検定長文 小4 冬 1番
「おかあさん。 私、みかんをいただきたいわ。そんなに、たくさんでなくてもいいのよ。」
「でも、おとうさんが、どうおっしゃるか……」
かの子は、友だちのだれよりも、自分は幸福だと思っています。
例えば、町のお店では、今ごろとても手に入れられないようなみかんも、かの子は、病気の友だちに、持って行ってあげることができるのです。
そこでふと、かの子は思いました。
「あたし、みかんをどのくらい、おとうさんにおねだりしようかしら?」
その時、かたことと、おとうさんのくつ音――。
「おとうさん、お帰んなさーい。」
かの子は、茶の間をつききって、 玄関にむかえ出ました。
けれども、どうしたのか、おとうさんはいつもとちがって、おこったような顔つきをしています。
おかあさんも、台所から出てきましたが、すぐ、おとうさんの顔色に気がついて、
「気分でも、お悪いんじゃありません。」
「なーに。そんなことはないよ。」
おとうさんは、自分でやっと自分のきげんが悪いのに気がついたように、きまり悪そうに 笑いました。
やがて、着がえをしたおとうさんは、茶の間の 食卓の前にすわって、「ほう、おいしそうだな。」
おとうさんは、手作りの 野菜サラダが、何よりも 好物だったのでした。
食卓には、 野菜サラダのほかに、さかなのフライも出ていました。おとうさんは、それをおいしそうに食べます。
かの子は、おとうさんは、病気でなかったのだと安心しました。そして、「ああ、おいしかった。」と、おとうさんがはしを 置くのを見て、思い切って言いました。
「おとうさん。 私に、みかんをくださいな。たくさんでなくていいの。」
すると、おかあさんも、
「少しで 結構ですから、やってくださいません。」
ところが、それを聞くとすぐに、お父さんの顔色は、また、∵たちまちくもってしまいました。
かの子は、びっくりしました。
おかあさんも、はっとして、
「決して、 無理にとは申しませんけども……」と、半ばわびるように言います。
というのは、おかあさんは、おとうさんが、みかんのことでおこり出したのだと思ったからでした。
そのみかんというのは、この、県立の農事 試験場内にある温室みかんのことで、場長であるおとうさんには、それは、いつでも自由にとることができるのです。
けれども、おとうさんは、みかんに 限らず、 試験場のものを、家に持ってくることを、 絶対に 許しませんでした。もし食べてみたいなら、農場の人たちといっしょに 働いて、 試食をしなさいと言うのです。
おかあさんも、おとうさんの言うのが、正しいのをよく知っています。でも、今日は、かの子の友だちのために、 特別、たのんでみたのでした。
でも、おとうさんの顔色からみると、どうやら、それもだめなようです。
かの子は、さびしいような、悲しいような気持ちで、じっと、庭を見ました。その庭の向こうに、水色の屋根を見せているのが温室で、そこには、二十 株のみかんの木と、十二 株の 試験栽培の 水稲が大事に守られています。今朝も、かの子は、その前を通る時、まだたくさんのみかんの実が、まるで 宝石のように、美しくなっているのを見ました。
でも、それを一つもいただけないとなると、なんだか、おとうさんがうらめしくなります。作るのに、たいそう 費用のかかる温室みかんは、 当然、高く売らなければならないでしょう。
でも、たった一つぐらい、おとうさんに 優しい思いやりの心があれば、買ってくださることもできるのではないでしょうか。
「かの子ちゃん――」と、 不意に、おとうさんが声をかけました。
かの子が、だまって、おとうさんに目を 移しますと、おとうさんは、まじまじとかの子をながめて、∵
「病気をしているのは、どの子なの。」
「あたしと、ならんでいる子よ。」
「ほう。重いのかい。その子の病気は?」
「もう十日ねているの。 熱があって、なんにもおいしくないんですって。」
「それで、みかんが食べたいと言うんだね。でも、今ごろ、みかんなんかとても食べられないだろうよ。町には売っていないだろうし、もし売っているとしても、ずいぶん高いだろうからね。―― 困ったね。今朝ならよかったのに。」
「おや、それじゃ、もう温室にはないんですか。」
おかあさんは、意外だというように、おとうさんを見つめました。
おとうさんは、軽くうなずいて、
「ないんだよ。」
「市場へでも、お出しになったんですか。」
「ばかを言っちゃいかん。市場へ売りに出すくらいなら、 苦労して、今ごろまで 枝につけておくものか。あれは、 特別の 事情の人に―― 例えば、重い病気で、しかも、びんぼうで、食べたいみかんも食べられない――そういった人たちに、一つずつでもわけてやろうと思って、大事に 残しておいたんだ。それなのに、今日ちょっとしたすきに、みんなやられてしまった。」
「まあ、だれですの、そんないたずらをするのは。」
さすがに、おかあさんの顔つきも、 腹をたてたように 険しくなりました。
(住 井すゑ「わたしの少年少女物語」)
やわらかい毛皮と 読解検定長文 小4 冬 2番
やわらかい毛皮とボタンのような目、エナメルのような鼻。コアラは、まったくだれをもひきつける 魅力をもっています。だいてほおずりしたい、と思わない人はいないでしょう。 ( 中略)
コアラという名まえは、「のまない」という意味の 原住民のよび名からきていますが、じっさい、コアラは 必要とする水分のすべてを、ユーカリの葉からとっているのです。
おさないうちにつかまえられたコアラは、おとなしくて人なつっこいペットにそだつものです。じっさいには、のんきでお人よしというより、 無気力というほうがあたっているかもしれません。コアラは、ぶしょうで動きもにぶく、人間をおそれません。木にだきついている一頭のコアラを 懐中電 燈でてらしても、他の動物たちのように、安全な場所へにげようとあわてることもなく、むしろ、ぼんやりとながめかえすほどなのです。 攻撃しやすいことと、その毛皮に人気があるために、 今世紀はじめの数年間に、たいへんな数のコアラが 殺されました。一九ニ○年から一九ニ一年のあいだに、二十万頭 以上のコアラの皮が、オーストラリアの毛皮市場にあらわれ、三年後には、二百万頭をこえる毛皮が 輸出されました。
コアラはもう、西部オーストラリアでは見られなくなりました。いまでは、ニュー・サウス・ウェールズ、クイーンズランド、それにビクトリアといった東部や南部の州で、 保護される立場になりました。とくべつの 保護区でそだてられ、ときには、きゅうに数がへったり、まるでいなくなった 地域にふたたびつれてこられてきたのです。でも、コアラの数がふえつつあることは、こんな道路 標識があらわれるようになったことでわかります。
コアラが道路を横ぎったりするのは、他の木にうつりたいときだけです。コアラは、一生を木の上ですごします。おもな食物はあるかぎられた 種類のユーカリの生長しきった葉です。コアラは、 自然界でいちばんたべものにうるさい動物なのです。ある動物園の 飼育係は、コアラに食事をさせるいちばんいい 方法は、いろいろなユーカリの葉をバイキング方式であたえて、自分の 好みのものを見つけださせることだ、といっています。親指が他の指とむかいあわせに∵なった指と、するどいつめをもっているので、コアラは木の 幹や 枝の上で、すばやく動くことができます。また、 繊維の多い葉をしめらせて消化しやすくするための 袋を、ほおの内がわにもっています。かれらは、夜行動し、昼は 枝のあいだでうつらうつらしてすごし、夜になると、 好物の葉を1キロもたべて夜が明けるまでをすごすのです。
カンガルーの赤んぼうとおなじように、コアラの子どもも、うまれるとすぐ、目が見えないままで、母親の毛皮のなかを行進しなければなりません。 最初の六か月間をすごす 育児のうを見つけるためです。 育児のうは、うしろむきになっています。これは、木のぼりをする動物にとって、あまりつごうのよいことではありません。六か月間、 袋の中で生活したあとで、コアラの子どもは、おかあさんの 肩にうつります。三さいか四さいでおとなになり、なかには二十さいまでなが生きしたものもいます。 成長しきったコアラの体重は、 約十キロです。
オーストラリアの野生生物 管理官が、コアラたちを 移動させる 目的でわなをかけるときには、さきのほうにくくりむすびのついた、長いさおをつかいます。 不安にみちた 移動であるはずなのに、コアラたちは、おどろくほどおちついて行動をする、と 管理官は 報告しています。しかし、新しいすみかとなるはずの木の下についても、しっしっとおいあげられないと、木の 幹にのぼろうとしないのです。
コアラをペットとしてかったことのある人は、コアラが、 鏡にとくべつの 興味をしめすようだ、といっています。 鏡にうつった自分の毛むくじゃらの 姿を、ながい時間、あきるようすもなくじっと見つめているのだそうです。それは、まるで、コアラが人をひきつける 魅力をもった動物であることを知っているように見えたし、どうやらそれを自分でもあじわっているようだった、というのです。
(ドナルド・ディル・ジャクソン 岩倉徳光「世界の野生生物」)
人間が生きていくために 読解検定長文 小4 冬 3番
人間が生きていくために、どうしても 欠かせないものを四つあげなさい、と言われたら、みなさんは何をあげますか。
まず、空気がありますね。そして水、食物、ここまではほとんどの人が考えることと思います。
さて、四つ目は?
サルの研究で有名なM・スワンソンさんという生物学者は、人間が生きていくために 不可欠な四番目の 要素として、コミュニケーションをあげました。
彼女――M・スワンソンさんは 女性です――によりますと、
「人間は、どんな人でも、コミュニケーションのできる相手を持たないとき、病気になって死んでいく」
ということです。
私は、これまで、コミュニケーションということばをくり返し使ってきましたが、その意味は、心の通じ合い、ということでした。
しかし、コミュニケーションの考え方をもっとよく言い表している、 私の 大好きなことばがあります。
それは、このM・スワンソンさんが言ったことなのですが、
「コミュニケーションとは、人間の心の温かさの 交換である」
ということばです。
素晴らしいことばだと思いませんか。みなさんにも、ぜひ 覚えていただきたいと思います。
このことばについて 説明することは何もありませんが、一つだけ注意してもらいたいのが、「 交換」ということばです。これは、ことばのキャッチボールがそうであったように、コミュニケーションというのは、一方通行ではなく、両面通行であるということです。つまり、心の温かさの 交換というのは、思いやりのやりとりということになります。
M・スワンソンさんが言っている通り、 私たち人間は、おたがいに人間 的な心の温かさを感じ合えるような人が、この世界に一人もいなければ、生きていくことはできません。たとえ、行き来をしたり、手紙をやりとりしたり、 一緒に住んだりしなくても、心の温かさを感じ合える人が 必要なのです。∵
もし、家族も、 親戚も、友だちも、先生もいなかったとしたら、どうなるでしょう。話し相手も、遊び相手もいなかったら、どうなることでしょう。
自分が一人ぽっちになり、話し相手が一人もいなくなったときのことを 想像してごらんなさい。ロビンソン・クルーソーのように、南海の 孤島にたった一人ぽっちで 残されたときのことを考えてみてください。たとえ、食べることが 保証されていたとしても、ずっとその 状態が 続いたら、 私たちはふつうの生活を送っていくことができないのではないでしょうか。
M・スワンソンさんはサルの研究をしていますが、サルにとっても、コミュニケーションは 非常に大切なことなのです。
彼女の 実験によりますと、 群れをなして生活をしているサルの中から一 匹だけ 隔離すると、一週間もすると、サルの行動が目に見えて 変化してくるそうです。 仲間たちとのコミュニケーションが 断ち切られたことによって、サルの行動に 狂いが生じてくるのです。
いろいろな 例が 報告されていますが、一つだけ 紹介してみます。
サルは全身毛で 被われていますが、その毛を一本ずつ 一生懸命に 抜いていくのだそうです。 寝ているときと食べているとき 以外は、ほとんど毛を 抜き続けているので、しまいには、 抜いたところが赤むけになり、気持ち悪くて見ていられないぐらいになるそうです。ところが、このサルを元の 仲間のところに帰してやると、この 毛抜き作業がぴたりと止み、ふつうの 状態に 戻るそうです。
私たち人間も、だれ一人としてコミュニケーションのできる相手がいなくなってしまったら、 精神にどのような 狂いが生じ、どのような行動をとることになるのか、考えただけでも 恐ろしい気がします。∵
転校したときや見知らぬ土地で 一人暮らしを始めたときに感じる 孤独感は、コミュニケーションの大切さをよく物語っています。そんなとき、 私たちは、友だちが 欲しいなあ、話し相手が 欲しいなあ、と思います。つまり、コミュニケーションのできる相手を 求めているわけです。
そして、 実際にコミュニケーションをすることによって、新たな人間 関係をつくり出し、新しい 環境の中で生活していくことができるようになるのです。
人間というものは、コミュニケーションのできる相手が多ければ多いほど、楽しく 充実した生活を送ることができます。そして、その 積み重ねが、 豊かな実りある人生につながっていきます。そうした人生が送れるように、ことばのキャッチボールがあるのです。
( 斎藤美津子「話しことばのひみつ」)
わたくしたちは、「美しい」 読解検定長文 小4 冬 4番
美しい 景色をみて思わず、「きれいね」と口にでて、たのしい思いになる、それでもう十分とも思いますが、そのたのしい思いにさせてくれるものの 姿を、たしかめてみましょう。
美しいものと、美しくないものと、わたくしはいま自分の部屋を見まわして、よりわけてみました。
机の上のペン皿にあるえんぴつ、何本かのえんぴつの中で美しく目にうつるのは、けずりたてのえんぴつです。シンがまるくなったり、 折れたままのは美しいとは思えません。
お皿に 盛ったバナナは、あざやかな黄の色をしていて美しい。でも実をたべてしまった皮は、皮になった 瞬間に、もう美しいとは思えませんし、色もまたたちまち黒ずんできたなくなってしまいます。
けずりたてのえんぴつが美しく目にうつるのは、「どうぞ、いつでもすぐに使えますよ。」と、すぐに役にたつ 姿を見せてくれているからでしょう。
バナナの皮も、中に実をつつんでいるという、使命をもっているときは美しいのですが、その使命が終わって皮だけになった 瞬間に美しくなくなります。
こうしたことを思うと、人に心よい感動をあたえる美しさとは、そのものが役にたつという 姿を見せているところにあるのではないかと思われます。
花が美しい、木々が美しいというのは、その命の美しさを感じるところにあります。命とは活動することであって、つまり、役目をはたしている 姿です。花も木も、せいいっぱいに生き、そして自分たちの 子孫を 永続させるために、花を 咲かせ、実をならし、その命を 充実させて、活動しているのです。
わたくしたちは 働く人を美しいと見ます。どんなにどろんこでも、 汗みどろでも、 働く姿は美しい。どろんこも、 汗も、 働く姿の美しさを引きたてます。これは、 働くという 行為が、活動そのものであり、役だつ使命をはたすことであり、 汗もどろんこもまた、そのためにあるからです。
でも、 働くことをやめて、 食卓にむかったときの、 汗みどろ、∵どろんこは、きたない、もう美しくは目にうつりません。このときの、どろんこや 汗は、 労働という中味をとってしまったあとの 残りもの、バナナの皮みたいな 存在になってしまったからでしょう。食事をするという 行為に、どろんこは 不要です。そこで、きれいにさっぱりと 洗いおとさなければなりません。
ですから、同じものでも、そのものが、そのものとして役にたたない場所にあるときは、美しく目にうつりません。
髪の毛は、 髪にあるから美しい。ぬけおちた 髪の毛が、食物の中にでもはいっていたら、とてもゆううつです。
ショーウィンドーの商品がみな美しく見えるのは、「このとおり、役にたちますよ」と、マネキンに着せてみせたりして、たのしく、わかりやすく 飾られてあるからでしょう。
わたくしたちのおしゃれや、動作、マナーなども、その場にふさわしく、役にたつかたちであるとき、美しく見えるのです。
急ぐときは、きびきびした動作が美しく、人にものをたずねるときは、その人に教わるという気持ちをあらわすのに 必要な 謙虚な動作、教えるときは相手によくわかるようにする動作が、気持ちよく美しくうつります。
ここでひとこと、気づいたことをいいそえますと、 必要と実用とは少しちがいます。
たとえば道を教わるとき、わたくしたちは、「すみませんが」ということばをそえますが、実用という面からいうと、このことばはなくてもよいわけです。「東京駅はどっちですか?」といえば、用はたせます。でも、それではぶっきらぼうです。「すみませんが」といいそえることで、心のあたたかみが 伝わります。「どうぞお茶をお飲みください」のときの「どうぞ」も同じで、こうしたやさしさがあって、ことばも、動作も美しくなります。
「 必要」と「実用」とを、どうぞ、まちがえないでください。
わたくしたちが生きてゆく上では、実用 的な 衣・食・住のほかに、遊ぶことも、たのしむことも、安らぐことも 必要です。そうした 精神的に 必要なものとして、やさしさや美がつくりだされています。
(高田 敏子「詩の世界」)
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