ジュースを飲んだら 読解検定長文 小5 春 1番
ジュースを飲んだら 空き缶が残りますね。それをポイとゴミ箱に 捨てる。その先、そのゴミがどこでどのように 処分されているのかを知らなくても、 私たちが学校で、家で、街で出したゴミは 誰かがどこかに持っていってくれています。
だからいままで、みんな知らん顔をしてすんでいました。少なくとも、自分たちの生活している 範囲には、ゴミはあふれていない。ゴミが「見えなく」なっているのです。ところがいま、ゴミの行き先がパンクしつつあります。もう無関心ではいられなくなった。ものがあふれる、 現代の 使い捨て時代では、ものとおなじだけゴミもあふれているのです。ゴミが 増えたから、ゴミ 焼却炉を新しくつくったり、新しいゴミ 埋立て地を 増やすという、まるでいたちごっこが、日本中で 繰り広げられています。しかし、それには必ず 限界があるのです。
じゃあ、ゴミ問題を 解決する手立てはあるのだろうか。 私たちは何をすればいいのだろうか。ゴミ問題の根本的な 解決策を考える前に、まずなぜこんなにゴミが 増えてしまったのだろうか。そんなところから、考えることをはじめてみたいと思います。
私たちは、一週間に何回かビニールの 袋に入ったゴミを出します。ゴミ 収集所にゴミを持っていくとわかるのですが、 普通の家から持ち出されるゴミがびっくりするほど多いんです。ビニール 袋に 一杯入ったものがいくつもいくつも積み上げられている。いったい何がその中に入っているのか。とにかく大変なかさだし、重さでしょう。ゴミは、生活すれば当然出るものだといえば出るものです。しかし、あんなにたくさん出さなければ本当は生きていけないのでしょうか。いまの 私たちの 暮らしがあたりまえだと思えば、たくさんのゴミが出るのもあたりまえなんですが、ちょっと 振り返ってみると、戦時中、あるいは戦後しばらくはこんなにゴミの量は多くなかったんです。
( 槌田劭編「地球をこわさない生き方の本」)
つゆのまだ晴れきらない 読解検定長文 小5 春 2番
つゆのまだ晴れきらない、どんよりした日の午後のことでした。 次郎は、その日、村の子どもたち五、六人といっしょに学校から帰ってきていましたが、村の入り口に近い農家の前までくると、その庭先に、顔なじみの牛肉屋さんが、ちょうど荷をおろそうとしているところでした。この村に牛肉屋さんがやってくるのはめずらしいことで、せいぜい月に一度ぐらいでしたが、その顔は、きまっていましたし、子どもたちにとっては、それがめずらしいだけに、かえってわすれられない顔だったのです。
子どもたちは、とびつくように、すぐそのまわりを取りかこみました。そして、赤黒い、あぶらけのない肉が、 出刃の動きにつれて、つぎつぎにきざまれていくのを、息をつめて見ているのでした。むし暑い空気の中に、なまぐさい、いやなにおいがただよってきましたが、そんなにおいまでが、みんなの鼻には、めずらしい 香料のにおいででもあるかのように流れこんでいるのでした。
次郎は、しかし、もうそんなことには、たいして心をひかれませんでした。かれは、ほんのちょっとだけ、みんなのうしろから、それをのぞいただけでした。が、のぞいたとたん、ふと、かれの頭に 浮かんできたことがありました。それは、病気のかあさんが毎日飲んでいるスープのことでした。
「かしわ( 鶏肉)のスープには、もうあきあきしましたわ。」
「そう? でも、がまんして飲まないと、 精がつかないよ。」
「やっぱり、かしわのスープでないと、いけませんかしら。同じスープでも、変わったものだと、よさそうに思いますけど。」
「そうねえ、それは牛肉だっていいだろうともさ。こんど肉屋さんがきたら、一度、牛肉でこさえてみようかね。」
かれは、肉屋さんのまないたの上にきざまれていく肉の切れに、もう一度目をやりながら、頭の中で、自分のつくえの引き出しにしまってある、おこづかいのたかを 勘定してみました。それは五十 銭ぐらいあるはずでした。かれは、それを思いあたると、きゅうに 胸がわくわくしてきました。そして、上気したように顔をほてらせ、みんなの顔を見まわしたあと、やにわに家のほうにむかって走りだしました。
(下村湖人「 次郎物語」)
人間にとって一生のうちで 読解検定長文 小5 春 3番
人間にとって一生のうちで、いちばん大事な時期はいつごろでしょうか。これは 愚問かもしれません。人生のなかで大事でない日などというのは、一日たりとてないからです。けれど、いちばん幸福な日々はいつかと問われたなら、 私は 確信をもって、少年時代、と答えます。むろん、何をもって幸福と言うか、その考え方はさまざまでしょう。しかし、 私自身、自分の五十年にわたる 歳月をふりかえってみて、ちゅうちょなくそう 断言できるように思います。
と言っても、その少年時代に 私は自分が幸福であるなどとは少しも思いませんでした。おそらく、だれでもそうでしょう。少年のころ、あるいは少女のころは、自分が幸福などと思わないくらい幸福なのです。たとえ、どれほど苦しい 環境にあっても、です。
なぜなのだろう、と 私はときどき考えます。 端的に言えば、何につけても 夢中になることができるからではないでしょうか。
そんなことはない、大人になってからでも 夢中になれる、と言うかもしれません。たしかに 夢中になれるでしょう。けれど、その 夢中になるなり方がちがうのです。少年のころは、まったく 我をわすれて 没頭できる。 純粋に 夢中になれる。しかし、大人になると、たとえ何かにどれほど 夢中になっても、かならずほかのことへの 配慮が働いています。ほかのことが気になりつつ、あることに熱中しているにすぎません。
(森本 哲郎「ことばへの旅」)
いったい、ジャングルの破壊は 読解検定長文 小5 春 4番
いったい、ジャングルの 破壊は何が 原因なのでしょうか。
こうした地球的 規模の問題には、次にあげるふたつの大きな、根本的な 原因があると思います。ひとつは、ジャングルがある国はいずれも 発展途上国であり、 貧しいこと。もうひとつは、先進国のむだの多いライフスタイル( 暮らし方)です。
まず 発展途上国の場合は、人口 増加にともなって、ジャングルを大 規模に切り開いて農地にしたり、都市の人々を 移住させたりしています。また 薪木の消費量が多くなり、森がどんどんへっているため、 女性は何時間もかけて遠くの森まで 薪木を拾いに行かなくてはならないような 状況も生じています。 薪木が手にはいりにくくなったからといって、 燃料をガスや電気にかえることもできません。こうした結果が、ジャングルの 破壊につながっているケースもあります。
また 発展途上国にとっては、ジャングルの木々が重要な 資金源でもあります。ジャングルは自然がつくったものですから、新たに何かをつくり出す必要がなく、切って 輸出すればお金になります。マレーシア、インドネシア、フィリピンなど、ジャングルの 破壊が大きな問題になっている国では、いずれも木材の 輸出が国の 経済の柱となっています。
しかし 発展途上国の 経済を 支える熱帯の木材も、 価格は今、戦後最低です。結局、今の世界全体の 経済構造そのものが、 豊かな先進国が動かしているような感じですから、いつも買いたたかれてしまうんです。安いから、いくら切って売っても、たいしてお金にはならなくなってしまっています。
ただでさえ苦しい国の 経済状況に加えて、外国からの借金も返さなくてはなりません。そのためには、ジャングルを 伐採するのもいたしかたない、 伐採をやめるわけにはいかないという 事情があるのです。
そのいっぽう、 豊かな先進国では 使い捨てのものがふえるなど、∵むだの多い 暮らし方が広まっています。これも、ジャングルを 減少させているのです。
たとえば、ファストフードの代表 格であるハンバーガー。とくに 欧米のハンバーガーをつくるための安い牛肉は、中南米産がほとんどです。中南米のジャングルは、この肉牛用の大 規模な牧場 建設のために、半分以上がなくなってしまったのです。
豊かな先進国では、ハンバーガーを食べなくても、他に栄養 源はいくらでもあります。木材にしても、なにも熱帯の木でなくてもかまわないでしょう。つまり、先進国の人々には 選択の 余地がいくらでもあり、その 暮らし方を少し変えさえすれば、ジャングルの 減少や 破壊をくいとめられます。
焼畑農業にしてもそうですが、これまでジャングルの 伐採に関する主だった研究は、先進国の人間によって行われてきました。 出版された本も、先進国の立場から見たものが多かったのです。
過去にこんな例がありました。先進国によってジャングルに木を植えるという試みが行われたのですが、木は育ったものの、ジャングルに住む人々にとっては、ちっとも役に立たなかったのです。
植えられた木はやせ地でも、 比較的育ちやすく、生長の早いユーカリやアカシアなどでした。これらの木は、二年もたてば五メートルくらいになるのです。ところが早く、大きく育つのは 結構なのですが、これらの木が他の木に必要な養分も全部 奪ってしまいます。ですからそこは、ユーカリやアカシアだけの森となり、もとのジャングルとは 似ても 似つかぬ 姿になってしまうのです。そんな森には、動物や鳥もすみつかなくなるでしょうし、そうなったら、人々はその森から食べ物はおろか、 肥料も 飼料も得られなくなってしまいます。
この例からもわかるように、「科学」や「 技術」、「開発」とはなにか、だれのためのものか、あらためて考え直してみることが必要だと思います。
(生きている森 編集委員会 編「未来の森 森があぶない」)
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