本を読むことは、 読解検定長文 中1 冬 1番
本を読むことは、よいことだ。たとえ、それが住居のせまさが理由であっても、個人が自由な想像力によって、それぞれの精神の個室を持つのはのぞましいことだ。実際、そもそも「個人」というのは、そういうふうにして成長してゆくものだからである。
しかし、家庭の中の書物というのを考えてみると、これはずいぶん、ふしぎな品物のような気がする。なぜなら本は家庭の備品のひとつではありながら、結局のところ、個人に属するものであるからだ。家庭の 本棚にならんでいる何十冊、あるいは何百冊の本の背表紙は、家庭のみんなが毎日ながめているのに、その中身は、家族共有のものではないのである。その点で、家庭にある他の多くの備品と書物とは、性質がちがうのだ。
それはそれでよい。ちょうど、個室をのぞきこまないことが 礼儀であるように、精神の個室ものぞきこまない方がよいのかもしれない。 お互い、好きな本を読んで、それぞれの世界をたのしめば、それでよい、というべきなのかもしれない。
しかし、本は一方で個人に属するものでありながら、同時に、だれもが入ることのできる個室、つまりホテルの部屋のような社会性も持っている。だれかが使用中であるかぎり、そこにふみこんではならないが、空室になったときには、だれが使ってもかまわない。主婦が買いこんだ文学全集を夫や子どもが読むことはいっこうにさしつかえないことだし、子どものマンガを親が読んだっていい。表題はまったくちんぷんかんぷんであっても、夫の読んでいた経営学の本を、妻が読もうとしてみてもかまわないはずだ。
そして、わたしは、そういう密室の 交換がこれからの家庭ではたいへん大事なことであるような気がする。
人間がことばで表現できるものは、きわめてかぎられている、と 哲学者はいう。それは家族の中の人間関係についても真実だ。夫婦、親子、毎日顔をつきあわせておしゃべりは果てしなく続けられているけれども、それによって、はたして お互いがどれだけ「理解」しあっているかは、わからない。相手の心の深い部分が、どんな構造になっているのかは、本当に、見当がつかないのである。
その見当のつかない部分を知ることはできないし、また、知る必要もない。「個人」どうしのつきあいというのは、そういうものなのだ。しかし、もしも、その心の 奥深い部分をつくっているもののひとつが書物であるとするならば、前にのべたような理由によって、 お互いの書物を 交換することが家庭の中で考えられてもよいの∵ではないか。
書物を 交換する、というのは、自分の体験した異質の世界を見せあう、ということなのである。そして、だれにでも経験のあることだろうが、自分が読んでみて、本当にいい本だ、と思った本は、ひとにも読ませたくなるものだ。読んでいる間は、完全に自分だけの世界だが、その世界に、親しい人をひきずりこんで経験を共有したくなるのである。そういう経験の 交換が、家族のそれぞれの読書生活の中でおこなわれるのは、すばらしいことだ。
ひとの日記や手紙を読むのは失礼なことだ。だが、書物は、一方で私的でありながら、他方では共有の許されるものである。夫婦の間で、あるいは親子の間で、 お互いの本をとりかえて読むことで、家族は個人を尊重しながらも 互いに理解を深めることができるかもしれない。
( 加藤秀俊「暮しの思想」)
春、植木市がたつ。 読解検定長文 中1 冬 2番
春、植木市がたつ。お寺の境内へ、かなりな商品が運びこまれ、ちょっとした市なのである。父は私にガマ口を 渡して、 娘の好む木でも花でも買っちゃれ、という。 汗ばむような、晴れた午後だった。 娘がほしいといいだしたのは、 藤の 鉢植えだった。それは花物では、市のなかのお職だった。 鉢ごとでちょうど私の身長と同じくらいの高さがあり、老木で、あすあさってには 咲こうという、 蕾の 房がどっさりついていた。子供は、てんから問題にならない高級品を、 無邪気にほしがったのである。子供だからこそ、おめず 臆せずねだるが、聞かずとも知れる高値である。とてもガマ口の小銭で買えるものではない。もちろん私は買う気などなくて、子供と 藤の 不釣合いなおかしさを笑ってすませ、 藤の代わりに赤い草花をどうかとすすめた。子供はそれらの花は、以前にもう買ったことがあるからとしりぞけ、小さい 山椒の木を取った。お職の 藤から一度に大下落の 山椒だった。ほしいものが買ってもらえなくて、わざと安値のものをと 嫌味にすねたのではない。 彼女はさんしょの葉としらすぼしを、 醤油でいりつけたのをごはんにぱらぱらとまき、お菜に玉子焼をつけたお弁当が、大好きだったからなのである。 藤でなくても、 山椒でも子供は 無邪気に喜んでいた。私もそれでよい、と思ってうたがわなかった。
ところが、夕方 書斎からでてきた父が、みるみる 不機嫌になった。 藤の 選択はまちがっていない、という。市で一番の花を選んだとは、花を見るたしかな目をもっていたからのこと、なぜその確かな目に応じてやらなかったのか、 藤は当然買ってやるべきものだったのに、という。そういわれてもまだ私は気づかず、それでも 藤はバカ値だったから、と弁解すると父は真顔になっておこった。好む草なり木なりを買ってやれ、といいつけたのは自分だ、だからわざと自分用のガマ口を 渡してやった。子は 藤を選んだ、だのになぜかってやらないのか、金が足りないのなら、ガマ口ごと手金にうてばそれで済むものを、おまえは親のいいつけも、子のせっかくの 選択∵も無にして、平気でいる。なんと浅はかな心か、しかも、 藤がたかいのバカ値のというが、いったい何を物差にして、価値をきめているのか、多少値の張る買物であったにせよ、その 藤を子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか、その 藤をきっかけに、どの花をもいとおしむことを教えてやれば、それはこの子一生の心のうるおい、女一代の目の楽しみにもなろう、もしまたもっと深い 機縁があれば、子供は 藤から 蔦へ、 蔦からもみじへ、松から 杉へと関心の芽を 伸ばさないとはかぎらない。そうなればそれはもう、その子が財産をもったも同じこと、これ以上の価値はない、子育ての最中にいる親が 誰しも思うことは、どうしたら子のからだに、心に、いい養いをつけることができるか、とそればかり思うものだ、金銭を先に 云々して、子の心の栄養を考えない処置には、あきれてものもいえない――さんざんにきめつけられた。
藤の代わりに 買い与えた 山椒が、 叱られたあとの感情をよけいせつなくした。一尺五寸ほどの貧弱な木だが、 鮮緑の葉は 揉めば高い 香気をはなち、 噛めば 鋭い味をひろげ、 棘は 容赦なく 刺した。 誰のためにあがなった木だろうと、思わされた。だが、 叱られたのは身にしみたが、さればといってその後私が心を改め、 縁日のたびに子に花の楽しさをコーチしたのではない。とかくルーズなのである。
子は大きくなっていった。花を見ても、きれいだというだけ、木を見ても、大きな木ねというだけ、植物にはそれ以上は心が動かないようだった。世話をして花を 咲かすなどは、 面倒そう。庭木の 枯れ枝を一本切るにさえ、しぶりがちである。ほかには優しい心を持つほうなのだが、野良犬にふみ 倒された 小菊を、おこしてやろうともしない固さなのである。草木をいとおしまぬ女が、どんなに味気ないものか、子ながらうとましく思う時もあった。話しても説いても、心が動かないようだった。それまでも私は、あの時の 藤でチャンスを失ったらしいと、 後悔することが度々あったのだが、 今更ながらこの責任は自分にある、とつらい思いをした。いくらつらく思っても、もうおそかった。∵
年々四季はめぐる。芽立ち、花 咲き、みのり、 枯れおちる。そのことあるたびに心はいたんだ。が、そのまま 娘は人のもとへ 縁付いた。孫がうまれた時、この子は草木をいとおしむ子になれと、ひそかに 祈った。子に 怠ったことを、孫でつとめたいと思った。
けれども、私のおもわくはがらりと外れた。いいほうに外れたのである。思いがけないことに、 娘の夫は花を好み、木を育てようとする人だった。土をいじり、種をまいて喜ぶのである。子がうまれ、 結婚生活が落ち着いてから、その 趣味というか 心柄というかが、やっと形になって現れはじめたのである。意外な感じがしたのだが、もっとも意外だったのは、そういう夫につれて 娘もしみじみと花をみつめ、芽をいとおしむ気をもったことだった。ほっとして、私はもう孫のことも安心した。
(幸田文「 藤」)
急な下り坂をおりきったところに 読解検定長文 中1 冬 3番
急な下り坂をおりきったところに信号があった。交差する大きな道路があるのだから信号機があるのは当然だが、下り坂で勢いのついた車を停めるには、少々無理がある。よほど早めにブレーキを 踏まねばならない。もっとも、交通量は少ない道だが。
「この交差点で事故はおきないのかしら」
運転席の夫に言い終わるか、終わらぬうちに、急ブレーキをかける音と共に、車全体に 鈍い振動が伝わった。バックミラーを見て夫はサイドブレーキを引き、直ぐに外に出た。ぶつかったのは五十CCバイク。高校生か。その子は 転倒することもなく、バイクのハンドルに固定してみるミラーのゆがみを直しながら、我々の車の左側をするすると 走り抜けようとしたが、信号は赤である。
助手席の私が窓を開け、すぐ左 隣に来たその子が痛そうに 股間に手をやっているのを見て、「 大丈夫? 痛くしたんでしょ」と言うのと、夫が「おいっ、 逃げるのか」と声を出したのと、ほとんど同時だった。
逃げるのか、と言われて男の子はむっとした表情になり、バイクにまたがったまま、両足で二輪車を 押しもどして車の後にまわり、傷はつけなかった、と言った。ブレーキをかけていなかったわけではない。かけ方があまかった程度だから五十CCバイクがバンパーにぶつかっても車体に傷がつくことはない。
私はその子がけがをしなかったかどうかがまっ先に心配になり、夫はぶつかっておきながら 挨拶もせずに行き過ぎようとした態度が面白くなかった。「すいません」の一言を言わせて再びハンドルを 握った。私は走り出した車の窓から首を出し、「本当に 大丈夫ね。痛いところはないのね。気をつけなきゃだめよ」と車から次第に 遅れていく子にどなるように言った。
夫がとっさに出した「おいっ、 逃げるのか」という言葉に私はこだわっていた。あの子の気持ちの中に「 逃げる」という意識はなかったと思う。「あっ、いけねぇ。ぶつけちゃった。でも傷をつけたわけじゃないからかまわないだろう」と、軽い気持ちで通りすぎようとしただけのことだろう。きつい言葉で少年をなじる夫の心がうとましく思えた。
息子は高校二年の時、 奥多摩有料道路で 転倒し、反対車線のガー∵ドレールにぶつかって気を失い、病院に運ばれた。同行の友人がかけてきた電話で事故を知り、あわてて病院にかけつけた時は、夕やみが 色濃く人の顔も定かには分からぬほどだった。
病院の門をくぐるとかけ寄ってきた 人影があり、それが友人の安川君で、 彼はとぼしい外灯の明かりを背に顔をこわばらせて、「ハンドルを 握っていたのは宮地君で、 僕は後ろに乗っていた」とまず言った。「あなたはけがをしなかったの」の問いに、すり傷だけだと言ってズボンをまくりあげ、血のにじんだ 脛とすりきれたワイシャツからのぞいた右手の 肘とを見せた。
「オートバイは 弁償します」と言う安川君に、私は「とんでもない。あなたにけがまでさせてしまってごめんなさい。いずれおわびにあがります」と言って病室へ急いだ。
固いベッドに放り出されたような格好でうずくまっていた息子は、人の気配に 薄目を開け、私の姿を認めて、「ごめんなさい」と言ったまま、ゲーゲーとはいた。もうずっとはき続けていたらしかった。私は、息子の背中を一晩中さすり続けた。明け方はき気が治まって 眠りについた息子が、目を覚ましたのは昼近くである。もう安心と思うと私はむしょうに息子を責めたくなっていた。
「お友達にけがをさせるような無茶な運転はしないでちょうだい」
息子は 驚いた顔で「運転していたのはあいつだよ。『あっ、石だ』って安川が言ったとたんに投げ出されていたんだ」と答えたまま急に口をつぐんで、あとは何をきいても 黙して語らなかった。
救急隊員に 菓子折りを持って礼に行き、どちらが運転していたのでしょうと 尋ねた。
「我々には分かりません。しかし、運転者があんな遠くまで放り出されることは、あまり例がありません」
私は安川君に激しい 怒りをおぼえた。「ひきょうね、 逃げないでよ」ときつくとがめたい気分になっていた。翌々日、病院へ 見舞いに来た安川君に私は自分を制しきれず、「あなたが運転していたんですってね」と言ってしまった。 彼は言葉をのんで、私にチラッと視線を走らせ、「じゃ、また来る」と息子に言って部屋を出た。息子は暗い目をして私を非難した。∵
「よけいなことを言わないでよ。あいつは十分に悪いと思っているんだ。大人なんて、自分さえ気がすめば、それでいいんだね。これは 僕たちのことなんだから、 黙っててよ」
安川君が責任 逃れをしようとしたのは確かだ。しかし 逃げる人間を 追及して何が得られるだろうか。たとえ安川君が運転者だったことがはっきりしても、私が 彼を責めて 彼に反省をうながすことができるだろうか。十六才。事の善悪はわきまえている。
息子と安川君はその時を境に付き合いをやめた。親が付き合うなと言ったわけではない。 彼らには 彼らの常識があったらしい。
「あなたが運転していたんですってね」という言葉が、どれほどあの子の心に 突きささったか。 彼を責めた私は、あれ以来、自分を責め続けることになった。もう八年も前のことなのに、あの時から私は他人をなじる言葉に耳をおおいたくなっている。夫の「 逃げるのか」の言葉の中に、私は 冷酷とエゴしかないのを感じ、やりきれない気持ちだった。
やがて高速道路に入るまでの半時間あまり、夫と私はたがいに相手の態度を無言で非難しあっていた。 挨拶できない 年齢ではない。あの子に先ず 礼儀をさとすのが当然だろうというのが、夫の言い分であることは、相手が 黙っていても私にはよく分かる。夫の方が先に折れてきた。「今度の休みに大 菩薩へ登ろうか」。以前から私が行きたがっていたからである。しかし、私はいつものようにその言葉にすぐのる気にはなれなかった。再び二人とも 黙りこんだ。速度制限オーバーを知らせるチャイムだけが、さっきからずっと鳴りっぱなしだった。
(宮地真美子「ずれ」)
人間がこの世に生きて持つ 読解検定長文 中1 冬 4番
人間がこの世に生きて持ついろいろな体験は、人間の最大の教師だ。あることを目的として我々はそれを達成しようと試みる。そして失敗し、また成功する。その経験を、 記憶の中で整理して 知恵と呼ばれる理解力を得ることによって、類似した次の体験に我々は備える。その 累積が何代も何代も続いて 巨大なものに達したのが文化である。
技術的な 知恵のうち簡単なものは、教育によって容易に伝えることができる。しかし、理論や道具や機械のようなものが複雑になると、それを授ける人受け取る人が限られ、そこに専門家が生まれる。技術的な 知恵は専門家にまかせておいていいことがある。
肉体的なもの、心理的なもの、または道徳的、宗教的なものの伝授は、専門家のみで処理できない。乳の飲ませかた、子どもの育てかた、他人との交際の仕方、愛や悲しみの 扱い方とその表現の仕方などは、あらゆる人間が、親や教師や 先輩から受け取って、自分の生活の実質としなければならない。それ等を体得することは 赤ん坊から大人になることであり、言わば動物から人間になることである。
自分と他人との 触れ合いかた、自分の内部に起こる欲求や喜びや悲しみの調整の仕方は、人間であることの根本条件につながっているがゆえに、その処理を誤ることは、生存の危機となり、 破滅となる。我々の存在の外側にあるものは、特に専門的な知識や技能を必要とするものでない限り、我々はそれに慣れることができる。たとえば自転車に乗ることは、人間を 疲労させるものだとしても、人間は、必要なときだけそれに乗り、不必要な時はそれを使わずにいることができる。自転車は我々から 離れてそとにあるものであり、我々はそれを必要な時だけ利用する。
しかし、自分の喜びや悲しみ、家族や勤務先の 同僚などと 接触せずに生きていることはできない。そういう 事柄についての生き方の技術というべきものは利口な人間も利口でない人間もが、同じように学び取り、そして毎日を、毎時間をそれの処理に当たらなければならないことである。その処理の仕方として、 礼儀とか 倫理という 一般的なものがあり、さらにより深いところからその種のことに∵ついての真理的な安定を得る方法としての道徳、 愛憎、 恋愛、宗教の教理などがある。
そして我々が「体験」という言葉を、人間の生き方との関係において使うときは、このような体験のことを言う。そして宗教家や教育家が、我々を導くのもまたこのような部分においてである。この部分について、 誰でもが自分の体験について何かの判断をしているものである。私の父は、田舎の村の収入役という目立たない仕事をしている人間であったが、何度か私たちに向かって言った。「人生というのは 芝居をしているようなものだ。自分の当たった役割りをうまくやる外はない」と。たしか、私のおぼろげな推定では、私の父は村長になりたかったようである。その当時の村長は選挙でなく、前任者や村会議員たちの 推薦によって地方の長官から任命されたものであった。父は内気な手固い人間であったので、村長に推挙される機会がなく、収入役で終わった。そのことに対しての不満とあきらめの感情がこの言葉の中に 漂っていることを、二十 歳ぐらいのとき私は感じた。
( 伊藤整「体験と思想」)
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