日本人の平均寿命も 読解検定長文 小6 冬 1番
日本人の平均 寿命も 随分と長くなった。われわれが子どもだった 頃は、六十 歳などというとまったくの「おじいさん」と思ったものだ。七十 歳は現在では、「古来 稀なり」とは言えなくなってしまった。七十 歳を 超えて生きる人の方が多くなったのである。余程のことでもないかぎり、人間は 誰しも 長寿を願うのだから、このことは大変喜ばしいことだが、喜んでばかりもいられないというのが、実状ではないだろうか。というのは、 寿命の 延びた老人たちがいかに生きるか、という問題が生じてきたからである。
私は、二十年ほど以前に、はじめてアメリカに行ったとき、非常に印象に残ったことのひとつに、公園にたむろしている老人たちの 姿があった。昼の公園には、多くの老人たちが 坐りこんでいて、何もせずにじっとしているのである。つまり、 彼らは社会からも家族からも「無用の人」とされ、ただ時間をつぶすために公園にいるのである。その当時、日本はまだ物資の不足に 悩んでいた。しかし、日本の老人たちの方がアメリカの老人たちより幸福なのではないかと感じたことを、今もよく覚えている。
ところで、日本もその後 急激な 発展を 遂げ、「先進国」の仲間入りをしたわけだが、それに 伴って老人の生き方の問題も大きくなってきたわけである。文明が進むと、どうして老人は不幸になるのか。それは、文明の「進歩」という考えが、老人を 嫌うからである。文化にあまり変化がないとき、老人は知者として 尊敬される。しかし、そこに 急激な「進歩」が生じるとき、老人は、むしろ進歩から取り残されたものとして、 見捨てられてしまうのである。
近代科学は、その 急激な進歩によって人間の 寿命を 延ばすことに 貢献しつつ、一方では、それを支える進歩の思想によって、老人たちを 見捨てようとしている。この 両刃の 剣によって、多くの老人が 悲劇の中に追いやられているのである。
老人が、ただ年老いているというだけで 尊敬される時代は過ぎてしまった。そこで、老人たちも「進歩」に 遅れてはならないと思∵う。老人たちは、そこで「いつまでも 若く」ありたいと思いはじめた。 若者に負けない力をもっていてこそ老人は 尊敬を受けるのだから、老人も 若さを保つ努力をしなければならない、というわけである。しかし、そんなことは可能であろうか。
最近、 私はスイスの 精神療法家のユングについて、『ユングの 生涯』という伝記を書いた。そのとき非常に心を打たれたのは、 彼の 主著と 呼ぶべき多くの 著作が、七十 歳以後に書かれていることを知ったことであった。 彼は八十六 歳で 死亡するが、死の一週間前も、なお 机に向かって書きものをしていたという。 彼がこのような力を年老いても保つことのできた 秘密はどこにあるのだろうか。
ユングは「人生の後半」の意味の重要性をよく強調する。人生を太陽の運行の 軌跡にたとえるなら、人間は中年においてその 頂点に達し、以後は「下ることによって人生を全うする」ことを考えねばならない。人生の前半においては、 上昇が中心の主題であり、社会的地位や家庭などを築くことが大切であるが、人生の後半においては、「いかにして死を 迎えるか」に思いを 致すことが重要である、というのである。生きることは、もちろん大切であるが、中年 以降において、人間はいかに死への準備を完成してゆくかが大きな主題となるのである。
これは聞く人によっては、 奇異な感じを受けるかもしれない。七十 歳を 超えてから、 壮者も顔負けの多くの仕事をなしとげた人が、いかに死ぬかということを強調するのは、なんだか 矛盾するように感じられないだろうか。しかし、実のところ、この点に老いることの逆説が 存在しているように思えるのである。
われわれは「老い」を 避けることができたとしても、「死」を 避けることはできない。 従って、いかに死を受けいれるかは、いかに老いるかの中心問題であり、ここに不思議な逆説が 存在していると思われる。
癌の 宣告を受け、手術不能と言われてから、医者の予期に反して長く生き続ける人があることは、最近よく知られるようになった。∵このような点を研究したあるアメリカの心理学者は、興味深い結果を見出した。つまり、 癌の 宣告を受けて、まったく気落ちした人は早死にする。それと同時に、何とかこれに負けずに 頑張り抜こうと努力する人も早死にすることがわかったのである。
それでは、長命する人はどんな人であろうか。このような人は、 癌に勝とうともせず、負けることもなく、それはそれで受けいれて、ともかく残された人生を、あるがままに生きようとした人たちであった。これはもちろん、言うは易く、行なうは 難いことである。しかし、勝負を 超えた生き方が 存在し、そこに建設的な意味があることを見出したことは素晴らしいことだ。
人間は必ず死ぬのであってみれば、人間はすべての進行の 遅い癌になっているようなものである。 若者の戦う 姿勢を老いてそのまま持ち続けることも、弱気になってしまうのもよくない。しかし、そのいずれでもない「死の受けいれ」こそが、われわれの老年をより生き生きとしたものとするのではないだろうか。ここに老いの逆説が 存在しているように思う。
このように考えると、中年のときから死に思いを 致すべきだと主張したユングが、死の直前まで、仕事をやり 抜いた 秘密もわかる気がするのである。いかにして 若さを保つかに努力するのではなく、いかにして死を受けいれるかに力をそそぐことが、老いてゆくためには大切であり、その仕事は個人個人が中年から始めていくべきことである。これについては近代科学は解答を 与えてはくれない。
(河合 隼雄「働きざかりの心理学」)
我が家では正月に 読解検定長文 小6 冬 2番
我が家では正月になると、一家全員で写真館に記念写真を 撮りに出かけることが、松の内の行事であった。写真館に行く日取りや時間は、年末に 連絡がしてあって、たいていは 元旦の食事が終ってから全員で出かけた。両親と 子供六人にお手伝いさんが加わる。大変だった。写真館は駅前にあって、毎年、同じ主人が同じベレー 帽をかぶって現われた。
父は写真が好きで、正月、墓参り、それに 子供の入学式、卒業式には必ず写真館に 皆を連れて行った。入学式や卒業式は制服で行ったが、それ以外の記念 撮影の時には父は姉達が制服を着て行くことを 嫌った。
一度、 元旦の朝、台所で姉がセーラー服を着て立っていた。母は 困った顔をして姉を説得していた。写真館での 撮影が終ると、いつもそのまま 子供達は遊びに出かけていいことになっていたので、たぶん姉は友達と 初詣か何かの約束をしていたのかも知れない。
姉は 違う服に 着替えて 食膳に 座った。そこで思い切って父に、今年の記念写真はセーラー服で行ってよいか、と言った。父は姉の顔をじっと見て、
「正月の着物を用意してもらわなかったのか」
と低い声で言ってから、母をみた。父の声が低くなる時は、 怒り出す一歩手前だった。父がいったん 怒り出したら、家の中の全てが止まってしまう。その 怖さは、家族全員 恐しいほど知っていた。
近頃、取材で写真を 撮られることが多くなった。 私は写真を 撮られることが苦手である。もう少し自然に、と言われても 頬がひきつるばかりで、 迷惑をかけることが多い。それでも 子供の 頃に比べると 格段の進歩である。
特に写真館の 撮影がいけなかった。どうしてかわからないが、あのフラッシュを 焚かれると十中八九、目を 閉じてしまった。
「はい、もう一度。ちょっと 坊ちゃんが目を 閉じましたよ」∵
とベレー 帽の主人が 私に 片手を差しのべるようにして、 丁寧な口調で言う。ベレー 帽の口元は笑っているのだが、その目は、またこの 坊主が目をつぶった、という表情をしていた。
写真は十日くらいで出来上ってきた。そこで 私は笑い者になった。目を 閉じていたはずの 私が、フランス人形のようにマツ毛の長い少年になっている。姉達が 噴き出すほどの修整がされていたのである。
一度、記念写真が 撮り直しになったことがあった。 私の顔の修整写真を見た父が 怒り出したらしい。 嫌なことになったと思った。
写真館に行く前の夜、母は 私に写真を写される要領を教えてくれた。
フラッシュが光った時に目を 閉じるのは、それまで目を開けよう開けようとしているからだ、だからそれまでは 薄目にしているように、と母は言った。そうして 私の 背後にいる母が、 撮影の 瞬間に 私の 背中を指で 突いて、合図をすることになった。これはなかなかの名案だと思った。
翌日の 夕暮れ、全員で写真館に行った。父は 撮影の前に別室で主人に小言を言っていた。地声の大きい人だったから、その話がスタジオで待つ全員に聞えた。 私はよけいに 緊張した。母を見ると笑って指を 突き立ててポンと 叩く仕種をした。写真館の主人が現われた。 彼は額に 汗をかいていた。 私と主人の目が合った。それぞれの位置が決まると、写真館の主人が 私の顔をじっと見て、
「 坊ちゃん、もう少し目を開けましょうか」
と言った。しかし 私は母との約束で、 薄めを開けたままにしていた。
「 坊ちゃん、もう少し……」
と主人がまた言うと、
「何しとるんだ」
と父が大声で 怒鳴った。すると、∵
「 大丈夫です。 撮って下さい。どうぞ」
と母が大きな声で言った。母が父の前でそんな声を出したのを、 私は初めて聞いた……。
あの 頃、 我が家にとって一家 揃ってどこかへ出かけるということは大変なことだった。母は数日前からなにかと準備をしていた。しかし今考えてみると、母は父が 癇癪を起さないようにと気を配っていたのではなく、一家全員が顔を 揃えることが生活の中の節目節目の時にしかないことをよく知っていて、家のしきたりのようなものをちゃんと 子供達にも 躾ようとしたのではないかと思う。
年を 越せない家族がまだ 沢山いた時代だった。昼も夜も働いて、六人の 子供や何十人かの 従業員と無事に新しい年を 迎えるということは大変なことだったはずだ。全員が元気に年を 越せた証の行事を、母が一番喜んでいたのではないだろうか。
いつの 頃からか、 私や姉達は正月に帰省しなくなった。
元日の朝、 緊張して父の前に 並んだ母や姉達、そして 私がいた。その時間が今ひどく大切なものに思えて仕方がない。 懐かしんでいるのではない。 正座をして目上の人の前に 座るように、家族が元日という時間の前に 正座をしていたように思う。あの張りつめた時間は、ピンと張った家族の糸だったのではなかろうか。
母が 私の 背中を 押してくれた日の写真。 私は前に 突んのめって、ビックリした顔で写っている。目は、開きすぎるほど開いて……。
( 伊集院静「正月の風景・家族の糸」)
小雨が靄のようにけぶる 読解検定長文 小6 冬 3番
小雨が 靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら 渡っていた。
双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の 褪せた黒の前 掛をしめ、頭から 濡れていた。雨と 涙とでぐしょぐしょになった顔を、ときどき 手の甲でこするため、眼のまわりや 頬が黒く 斑になっている。ずんぐりした 躯つきに、顔もまるく、頭が 尖っていた。―― 彼が橋を 渡りきったとき、うしろから栄二が追って来た。こっちは 痩せたすばしっこそうな 躯つきで、おもながな顔の 濃い眉と、小さなひき 緊った 唇が、いかにも 賢そうな、そしてきかぬ気の強い性質をあらわしているようにみえた。
栄二は追いつくとともに、さぶの前へ 立ち塞がった。さぶは 俯向いたまま、栄二をよけて通りぬけようとし、栄二はさぶの 肩をつかんだ。
「よせったら、さぶ」と栄二が 云った、「いいから帰ろう」
さぶは 手の甲で眼を 拭き、 咽びあげた。
「帰るんだ」と栄二が 云った、「聞えねえのか」
「いやだ、おら 葛西へ帰る」とさぶが 云った、「おかみさんに出ていけって 云われたんだ、もう三度めなんだ」
「あるきな」と 云って栄二は左のほうへ 顎をしゃくった、「人が見るから」
二人の少年は橋のたもとを左へ曲った。雨は同じような調子で、 殆んど音もなくけぶっていた。
「おらほんとに知らなかったんだ」とさぶが 云った、「ゆうべ粉 袋を 戸納へしまってたときに、勝手で使うから一つ出しておけって、おかみさんに 云われた、だから一つだけ残しといたんだ、そしたらその 袋が出しっ放しになってて、おかみさんは使ったあとでしまっとけって、その 袋を返したのに、おれがしまい 忘れたっていうんだ」∵
「 癖だよ、 癖じゃねえか」
「粉が 湿気をくっちゃった、へまばかりする 小僧だって」さぶは立停って、 手の甲で眼のまわりをこすりながら泣いた、「――おら、返してもらわなかった、そんな覚えはほんとにねえんだ、ほんとに知らなかったんだ」
「 癖だってば、おかみさんはなんとも思っちゃあいねえよ」
「だめだ、おら、だめだ、ほんとにとんまで、ぐずで、――自分でも知ってた、とても続けられやしねえ、もうたくさんだ」さぶは 喉を 詰らせた、「おら、思うんだが、いっそ 葛西へ帰って、 百姓をするほうがましだって」
広い河岸通りの、右が武家 屋敷、左が大川で、もう少しゆくと 横網になる。折助とも人足ともわからない中年の、ふうていのよくない男が二人、 穴のある 傘をさして、なにかくち早に話しながら、通りすぎていった。その男たちの、 半纏の下から出ている 裸の 脛が、栄二にはひどく寒そうにみえた、さぶはあるきだしながら、 小舟町の「 芳古堂」へ 奉公に来てから三年間の、休む 暇もなくあびせられた小言と 嘲笑と平手打ちのことを語った。それは 訴えの強さではなく、赤児のなが泣きのような、弱よわしく平板なひびきを持っていた。大川の水がときたま、思いだしたように 石垣を 叩き、低い 呟きの音をたてた。
「 奉公が 辛いのはどこだっておんなしこった、おかみさんの口の悪いのは 癖だし」と栄二はつかえつかえ 云った、「それにおめえ、女なんてもともと、――車だ」
栄二がさぶの 腕に 触り、二人は立停って川のほうへよけた。からの荷車を 曳いた男がうしろから来て、二人を追いぬいていった。
「 腕に職を付けるのは 辛えさ」と栄二は続けた、「考えてみな、 葛西へ帰ったって、朝から 晩まで笑ってくらせやしねえだろう、それとも 百姓はごしょう楽か」∵
「 葛西のうちなら」とさぶが 云った、「出ていけなんて 云われることだけはありゃしねえ」
「ほんとにそうか」
さぶは返辞をしなかった。栄二も返辞を期待していなかった。さぶは 葛西にある実家のことを考えてみた。 腰の曲った 喘息持ちの祖父、気の弱い父と、男まさりで手の早い母、朝から母と 喧嘩の絶えない口やかましい 兄嫁、三人いる弟妹と、 呑んだくれの兄と、五人もいる 甥や 姪たち。うす暗く 煤だらけな、古くて 狭くて、ぜんたいが 片方へ 傾いている家や、五反歩そこそこの 痩せた田畑など。さぶは 途方にくれ、しゃくりあげながら、またあるきだした。
「おめえにゃあ田舎がある」いっしょにあるきながら栄二が 云った、「どんなうちにしろ帰るところがあるからいい、だがおらあ親きょうだいも身寄りもねえ独りぼっちだ、今年の春、おらあ店を追ん出されるようなことをしちまった、追ん出るか、どっちか一つという、とんでもねえことをしちまったんだ」
さぶはそろそろと 振り向いて、栄二の顔を見た。 好奇心からではなく、 戸惑ったような眼つきであった。栄二はふきげんな、 怒ってでもいるような口ぶりで、自分が去年から 幾たびか帳場の銭をぬすみ、それを主婦のお由にみつかったのだ、と告白した。
お由は二度だけしか見なかったのだろうか、それともすっかり知っていて、わざと知らないふうをよそおったのか、いずれにもせよ、栄二は死ぬほど 恥じ、もう店にはいられないと思った。自分をぬすっとだなどとは考えもしなかったが、銭箱から銭をつかみだした自分の 姿が、あさましくて 恥ずかしくて、そのまま店にいる気になれなかったのだ。∵
「だが、店をとびだしてどこへゆく」と栄二は続けた、「おらあ八つの年、 大鋸町で夏火事にあい、両親と妹に焼け死なれた、おれ一人は白魚河岸へ 釣りにいっていて助かったが、ほかに身寄りは一 軒もなかった、おやじは 伊勢から出て来たと 云ってたが、 伊勢のどこだかおらあ覚えちゃいねえし、覚えていたって 頼ってゆけるもんじゃあねえ、おらあそのときくれえ自分にうちのねえことが悲しかったこたあなかった」
「知らなかった、おら、ちっとも知らなかった」とさぶが 呟いた、
「――それで栄ちゃんは、がまんしたんだね」
「銭も二度とはぬすまなかった」
二人は 横網の河岸まで来てい、さぶが立停って、地面をみつめ、 濡れて重くなった 草履の先で、地面を左右にこすった。
(山本 周五郎「さぶ」)
オーストラリアのヨーク半島 読解検定長文 小6 冬 4番
オーストラリアのヨーク半島のつけね、西側にいたイル=イヨロント族の変化を見てみます。
かれらは食料採集民で、 狩りをしたり木の実を集めたりという生活をしていました。かれらにとっても 石斧は男のものでした。 奥さんや 子供が借りることはできましたけれど、借りるとき、返すときのあいさつは、夫は妻に、父は子に 優位に立っていることを確かめる機会でした。そこへ白人がやってきて、鉄の 斧が入ってきました。イル=イヨロント族の人びとが白人の手助けをすると、その 代償として鉄の 斧をくれたりします。ときには、 奥さんが鉄の 斧をもらうことがあります。夫のほうは石の 斧しかもっていないのに、 奥さんが鉄の 斧をもっていることになります。そうすると、「すまんけど、おまえの鉄の 斧を貸してくれ」ということもおきてきます。これが石が鉄に代わったことでおきたさまざまな結果の一つです。
もっと重要なことは、イル=イヨロント族が 浮いた時間をどう使ったかということです。この点にいま 私は大きな関心をもっています。
浮いた時間を使って、なんとかれらは昼ねをしたのです。 私はじつは、その部分を読んだときに 吹き出してしまいました。この笑いには 軽蔑の意味もふくまれていたと思うのです。ところが、 私のこの感想はじつはまちがっていた、といまは思っています。
二千年前、日本ではどうだったでしょうか。石から鉄へと変わってきたときに、 弥生人はおそらく 浮いた時間で 宴会に出席することも、 昼寝をすることもしませんでした。石から鉄への変化を、生産力の 飛躍的な増大につなげたのです。いままで石の 斧が一本 倒している時間で、四本 倒すというぐあいに、すごく生産力を高めたのです。
四世紀、六世紀( 古墳時代)の農民が働き者だったことは、群馬県で火山の 噴火や 洪水の直後に復旧工事にとりくんだ 証拠からわかっています。また、日本の農業が草をとればとるほど、よい 収穫∵を約束される農業であることから、 弥生農民が働き者だったことを、 私は予測しています。
パプア=ニューギニアやオーストラリアでは 浮いた時間を遊びに使ったのに、日本では労働に使ったということで、日本人は 勤勉だと先祖をほめたたえるつもりか、と思われるかもしれません。そうではありません。
道具や技術は、毎年のようにどんどんすぐれたものになっていきます。なんのためだと思いますか。質問すると、すこしでも楽になるようにとか、効率がよくなるようにとか、 企業がもうけるためだとかいう答えがよくもどってきます。しかし、結果から見ると、 私はそうではない面もあると思うのです。
じつは、 私たちを 忙しくするために道具や技術は発達してきているのではないでしょうか。それまで十時間かかったところを、三時間で行くことができるようになったとします。 浮いた七時間をどう使うかと考えてみると、ほかの仕事をしているのです。
すくなくともつい最近までは、歩いている時間とか車に乗っている時間はボケーッとしていることができました。あるいは空想にふけることができました。しかし、いまや 携帯電話ができたのです。歩いていても、車に乗っていても、いつ電話がかかてくるかわかりません。相手からだけでなくて、自分からもかけます。なにもそんなときまでと思うのですが、そんな大人たちが増えています。
私たちは、技術や道具の発達は自分たちを解放するためだと思っていますが、じつは大きな 誤解で、自分たちを 忙しくするために技術や道具が発達している面もあるのではないかと思うのです。そこで 私は思うのです。オーストラリアのイル=イヨロント族が 浮いた時間を 寝たというのは、正解だ、と。
多田 道太郎さんは、つぎのようなことを 私に語ってくれました。
『日本には「休む」とか「 怠ける」ということばがあるけれども、みんな悪い意味で使われている。しかし、 私たちは、むしろ強制されたことはなにもしないという 状況に自分をおくことがたいせつだ。そういう 状況のなかで、自由にしたいことをする、それが∵遊びだ。』
多田さんのいうことのなかに、 私にとってひじょうに重要なことがふくまれていました。それは、強制されている 状況からは空想力がはばたくはずがない、休んではじめて人間の構想力とか空想力がはばたくのだということです。働きづめに働いていると、そのあげくに出てくることは、しょせんたいしたことはないのだということです。空想力は想像力とおきかえてもいい。アインシュタインが知識よりも想像力のほうがずっとたいせつだ、といっていることを思いだします。
たしかに日本人は働きすぎると思います。 私たちはもうすこし 余裕をもって、いい意味での 怠惰の精神、遊びの精神で生きていくべきではないでしょうか。これをなによりもまず自分自身にいいたいと思います。もっと 余裕をもって、遊びをもって生きていったらいいのではないか、それをイル=イヨロント族に学びたいという思いなのです。
( 佐原真「 遺跡が語る日本人のくらし」)
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