地下鉄の路線図を 読解検定長文 小6 春 1番
地下鉄の路線図を考えてみよう。これは 距離も方向もずいぶんゆがんだ、しかも地下鉄以外のことは何にも 描かれていない地図だが、線路のつながり具合と、駅のならんでいる順序は正しく書かれているから、自分がこれからどういう駅を通過してゆくのか、どこで乗りかえたらよいかなどということはそれによってまちがいなくわかる。ゆがんでいても、地下鉄以外のことは何も書いてなくても、行く先についての不安をなくするという役目だけならば、この地図はりっぱに果たすのだ。
だが、われわれ人間は、そのときどきの目的を不安なく達しさえすればそれで満足しきってしまう 存在ではない。目的地に着くと、今度はそれがどんなところか、まわりにどんなものがあって、自分がすでによく知っているところからどっちの方角にあたるのか、地下鉄以外の交通機関でも来られるのかどうか、などということを知りたくなるだろう。人間というのは、さしあたり必要な 範囲よりももっともっと広い世界に対して、つねに 好奇心と 探究心と夢とをもち、また実際にまわりに対して働きかけて、自分の 活躍舞台を次々にひろげていこうとする生物なのだ。
このような 好奇心をみたし、夢を 伸ばし、また働きかける手がかりとして使うためには、ゆがんだ地図や、限られたものしか 描かれていない地図ではもはや間にあわず、もっとくわしくて、方角や 距離の正確な地図がぜひ必要になる。
自分の置かれている位置じたいもまた、自分のすぐまわりだけよりも、その外側のより広い世界までがわかっているほうが、もっとしっかりつかめるはずだ。自分の家の中での自分の位置がわかっているだけでは、自分が町のどのへんにいるのかがわからないが、自分の家が町のどこにあるのかがわかれば、家よりもずっと広い世界である町の中で自分がどんな位置を 占めているかがわかる。
というふうに、広い 範囲を知れば知るほど、世界の中の自分の位置がはっきりしてきて、自分の立場がたしかなものになる。自分の位置をたしかめたいという内向きの 欲求と、広い世界をさぐりたいという外向きの 欲求とは、けっきょく同じことの二つの面でもあるのだ。だから、地下鉄の路線図によってわかる自分の位置は、ほんのさしあたってのものにすぎないので、それをほんとうに確実∵につかむためには、やはりもっとくわしく正確な地図がいることになる。
地図は、人間のこのような、内向きと外向きとの、たがいにからまりあった 欲求にこたえるためにあるのだ、といってよいだろう。これらの 欲求にこたえるために、地図はしだいに発達して、いまのように、広い 範囲をおおい、しかも科学的にすぐれた地図がつくられるようになったのだ。
( 堀淳一「地図はさそう」)
どんな生物のからだであっても 読解検定長文 小6 春 2番
どんな生物のからだであっても、 細胞という単位からできている。しかし、 細胞は小さいものだから、ほとんど目には見えない。血液のなかにある赤血球や白血球も、 細胞の一種である。その大きさは、約十ミクロン。ミクロンという単位は、一ミリの千分の一の長さである。それなら、 細胞を約百個 並べると、一ミリになる。ずいぶん、小さいものだということがわかるであろう。
細胞には、たくさんの種類がある。人間のからだでも、数百種類が分けられている。それぞれ大きさや形や働きが、少しずつ、あるいは大いに、 違っているのである。
これだけ小さいもので、人間のからだができているとすると、人間のからだは、何個の 細胞からできているのか。もちろん、全部数えた人はいない。ほぼこのくらいという見当でいえば、十兆の単位になるといわれる。
人間が見ることのできる、いちばん小さいものは、大きさにしてどのくらいか。
それはほぼ十分の一ミリと考えてよい。 机の上をはっている、とても小さな虫、それでもたいていは一ミリを 越える。だから、目に見えないほど小さな 昆虫というのは、じつはいない。 昆虫なら、いくら小さくても、十分の一ミリよりは、 普通大きいのである。なぜなら、 昆虫もまた、 細胞からできているが、 昆虫だからといって、 細胞の大きさは、とくに小さくならないからである。それなら、ある程度の数の 細胞を集めてできた生物は、 細胞の大きさよりは、かなり大きくなるはずである。一辺が十ミクロンの長さの立方体になっている 細胞があるとして、その 細胞を千個集めると、一辺が百ミクロンの立方体ができる。これなら、肉眼で、やっと点として見える。
ところが、たとえ一 匹の、点ほどの大きさの 昆虫でも、 昆虫である以上は、頭があり、足があり、えさをとり、動きまわり、子どもを生む。それなら 皮膚も必要だし、 筋肉もいるし、それを動かす神経もいる。そうしたものはすべて、 皮膚細胞や 筋肉細胞や神経 細胞という、それぞれ 違った種類の 細胞の集まりだから、 細胞の数∵がたくさん必要である。そう考えれば、いくら小さな虫でも、 細胞の大きさよりは、ずっと大きくなければならない。それがわかるであろう。
細胞一個で生きている生物もある。アメーバやゾウリムシがそれだが、これは 単細胞生物といって、人間や 昆虫のような多 細胞生物とは区別される。 単細胞生物は、もちろん 細胞の大きさ、つまり十ミクロン、あるいはたかだか、その十倍の大きさ程度までである。これではなかなか、目には見えないことになる。
(養老 孟司「 解剖学教室へようこそ」)
私の平生の仕事は読むこと 読解検定長文 小6 春 3番
私の平生の仕事は読むこと、考えること、書くこと、話すことなどである。その中で「考えること」は、別にいつとは限っていない。どんな時どんな所ででも出来る。 御飯を食べながらでも考えられる。満員電車の中でもよい。とくに夜 寝床の中へはいってから考え出すと、だんだん頭がさえてきて、よい思いつきが 浮かぶことが多い。 翌朝目がさめてから思いかえしてみると、まったくつまらぬ 考え違いに過ぎない場合もあるが、時には昼日中には 到底思いもつかぬ新しい着想が 含まれていて、それが仕事のきっかけになることもあるのである。
つぎに、「書くこと」というのに二通りある。一つの着想を数式で表現し、計算を進め、その結果を経験的事実と 比較するというのが一つ。これは考えることの直接の 延長であると見てよい。この意味の「書くこと」は一つの 専門的な 論文が出来上がることによって一応終結する。もう一つはある外部的な事情にせまられて特別に筆を 執るという場合である。現に 私がこの短文を書いているのもそれである。それはなかなか楽ではない。ことにそれが 長篇になるにしたがって労苦は加わってくる。ましてそれをまとめて一 冊の書物にするとなると大変である。
読書が人生の大きな喜びであるのに比例して、 著作には苦しみがあるのである。そうして出来上がったものには、いつも不満足な点が多いのである。すくなくとも 私自身に関する限り、本を世に出してああよかったと思ったことはない。出来上がった本を見ると、いつもいろいろな欠点が目について、いてもたってもいられない気持になるのである。しかしそれも結局は 私自身の努力が足りなかったのだと反省せざるを得ないのである。
これを逆の面からいえば 著作の労苦が多ければ多いだけ、それを読む人の楽しみが増すならば、労苦はじゅうぶんに 償われているわけである。そう思うと、どんな短いものでもおろそかには出来ないことになる。しかし 私どもにとっては、何といっても 専門外のことを書くのは苦手である。また 専門の 範囲内でも、同じ問題の 通俗∵的な解説をたびたびやらねばならぬのは 苦痛である。それが多少なりとも科学の 普及になると思えばこそである。
そこで 私ども 専門家にとっての今後の義務は、むしろ程度の高い本当の 専門書の 著作にあるのではなかろうかと思う。とくに現在のように、外国の 書籍の輸入が 杜絶している際には、質量ともに研究の 典拠となるような書物が各分科にわたって刊行されることが望ましいのである。かようなものへの要望が強いのに比例して、それを書く人の労苦は多いであろう。それは 到底片手間で出来ることではない。
ところが書物の 執筆を 依頼されるような人は、必ず他に多くの仕事を持っているのである。その上に同じような 著作をあちらこちらから同時に 頼まれて 困る場合も多いのである。ここに真に良い 専門の書の世に出 難い理由があるのである。したがって真に 価値ある 専門書を多く世に出すには、第一に一人の 著者に同じような 著作を 幾つも 頼まないこと、第二には、 著者が他の仕事から解放されて一つの 著述の完成に 専念し得る期間を持つことが必要であると思う。しかしそれはいいやすくして、なかなか行なわれ 難いことであろう。
(湯川 秀樹「読書と 著作」)
「ばあちゃん、もう春は 読解検定長文 小6 春 4番
「ばあちゃん、もう春は来とるんかな」
ヨウはかまどに 薪をくべているるい 婆さんに 蒲団の中からちいさな顔だけを出して聞いた。るい 婆さんはもやのたちこめる暗い土間の 隅にしゃがんだままゆっくりとふりむいて、
「春の夢でも見たんかや」
と日焼けした顔から白い歯をのぞかせて言うと、こくりとうなずいた 孫娘に、
「ああ、もうとっくに 日向ッ原じゃ春の歌がはじまっとるぞ」
とうれしそうに笑いかけた。
ヨウはおおきな目をかがやかせて、 蒲団を 跳ね上げて立ち上がると、土間のサンダルをつっかけ 寝間着のまま外へ走り出した。
「こらっ、顔を 洗ってから行かんか」
背後で聞こえる、るい 婆さんの声にヨウは首を横にふりながら、島の南西を見下ろせる 裏手の 段々畑までの 畔道をかけ上がって行った。
昨日まではぬかるんでいた道をヨウは犬のように 跳ねながら走る。イモ畑を 越え蜜柑の木の下を 抜けて、牛のモグがいる小屋の前にたどり着くと、ヨウは立ち止まって朝陽に光る海を見下ろした。
半月余り続いた雨が上がった 瀬戸内海は無数の 波頭が西へむかう鳥の群れのように 踊っていた。ヨウは 肩で息をしながらおおきな目を少しずつ下げて行く。海原にむかって 突き出した 皇子岬、左手にとんがり 帽子のように頭を見せる 岬の白い 岩肌が草のひろがる緑にかわると、そこだけ円形のステージのように丸くなった草原、日向ッ原が見えた。
「モグ、見てごらんよ。春が来とるよ。日向ッ原に、いっぺんに春が来とるよ」
ヨウは大声で 叫んだ。
日向ッ原はまるで花たちが一夜のうちに開花したかのように菜の花とれんげが一面に 咲いていた。春風の織ったじゅうたんがヨウの目にあざやかに 映った。
「やっぱり夢で見たとおりだよ、モグ」∵
ヨウはその場で 飛び跳ねると、いつものように口をもぐもぐとさせているモグの首に 抱きついた。モグは 喉を鳴らしてから、ヨウの身体を 釣り上げるように首を回した。
( 伊集院静「機関車先生」)
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