人間の頭のなかを支配しているのが、そうしたイメージであることを、あらためて指摘したのは、アメリカの心理学者ケネス・ボウルディングです。と言っても、彼は、イメージというものの範囲を拡大して、人間の意識そのものを「イメージ」に置きかえているようですが、ともかく、ボウルディングは、人間の意識を形づくっているのがイメージだ、と言うのです。したがって、その内容は複雑で、なかなかことばにあらわせないのですが、彼はそれを、つぎのように分類しています。
一、空間のイメージ。二、時間のイメージ。三、関係のイメージ。四、個人のイメージ。五、価値のイメージ。六、感情や情緒のイメージ。七、意識、無意識、潜在意識とみられるイメージ。八、確実なイメージと、不確実なイメージ。あるいは、明晰なイメージと、曖昧なイメージ。九、現実的なもののイメージと、架空なもののイメージ。十、公的なイメージと、私的なイメージ。
こうなると、頭のなかのイメージなるものは、心のあらゆる相、と言ってもいいように思えますが、ともかく、彼はそれらの意識内容を、すべて「イメージ」と考えているわけです。
私はここで、ショシャールのいう「内言語」の実体を、つきとめようというのではありません。ボウルディングのいう「イメージ」の分析を試みようというのでもない。私は、たったいま、自分の頭のなかにどんな「内言語」や、どのような「イメージ」が浮かんでいるのか、それを実験的にとらえてみようとしているのです。
ところで、そうした「内言語」や「イメージ」は、けっして長くとどまっておりません。それは、あたかも水の流れのように不断に変化しており、風のようにとらえどころがない。けれど、水が流れながら、やはり、ひとつの川を形づくっているように、そして風が吹きぬけながら、しかも、春風や秋風、あるいは木枯らし、といったそれぞれの風であるように、頭のなかのイメージや言語も、何となくまとまった像を形づくっているように思います。
かつて、私はベルギーの言語学者グロータス神父に、あなたはどんなことばで考えるのですか、とたずねてみたことがあります。グロータスさんは、母国語のほかに英語、フランス語、中国語、日本語など、たくさんのことばを自由にしゃべることができるのです。
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