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読解マラソン集 5番 古代から中、近世にかけて yube3
古代から中、近世にかけて、公家、武家をとわず支配者の手で馬を通す街道がつくられ、馬をつかって荷物を運び、人が移動するようになると、街道筋には乗馬の客、荷駄をつれた客を泊める馬宿の設備が必要となる。牛はどこでも平気で横になり、人間といっしょに野宿できるが、馬は神経質で臆病なため、夜は馬宿のような安全な場所につないでやらねばならない。それに牛は道草で充分であるが、馬の旅には飼料の手配が必要である。古く旅宿のことを旅籠屋)とよんだが、旅籠とは馬料をいれる籠のことで、旅籠屋とは馬料を用意し、馬をつれた旅人を泊める旅館という意味であった。薪を用意し、宿泊の場所を提供するだけで旅人に自炊させ、薪の代金(木賃)をとる木賃宿より上等の旅宿とされたのがはじまりであったという。
馬を手厚く飼うのはむかしから武人のたしなみであり、その息災を祈る厩祈祷は古くからある。夏には蚊帳をかけて安眠させるなど、よい馬ほど神経質で、人間以上に手数を要した。乗馬はかならず二頭そろえ、交互に乗り替えるものとされた。明治、大正の陸軍の高級将校たちも、朝の出勤時に乗った馬は午後は休ませ、夕刻の退勤時には乗り替えの馬を使用した。これも武士の作法として伝来のものであったという。
したがって馬をつかえるのは、これだけの手数をかけたうえ、なおかつその機動力を利用したい人、利用しなければならない人にかぎられてくるのは当然であった。中世の鎌倉街道が、村落とはかならずしも関係なく、等高線にそって走っているのもそれが馬をつかう鎌倉御家人の道である以上、必然の姿であったといえる。古代の間道も、開設されたときは、おなじような姿をしていたろう。だがこうした馬の道は、馬を通すために沢山の人手を必要とし、街道の要所要所に宿駅、馬宿の設備がつくられなければならない。そして、近世に入ると、一般農村の生活水準がしだいに向上し、各地城下町の繁栄がすすみ、人と商品の流通が庶民生活の次元においても活発になりはじめた。このことから、農耕に馬をつかうのは依然として少なかったけれど、従来のように支配者たちの政治的、軍事的目的のためだけでなく、一般の商品や旅人を運ぶために馬を
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つかうことが多くなった。駄賃収入をめあてに手数と資金を投じて馬を飼い、牛にくらべて上等の飼料をたべさせ、街道に出て運輸業に従事するものが急速に増加した。
民間における商品の流通は、十七世紀末、元禄ごろから顕著になりはじめた。そのころ本街道の宿駅に常備されている伝馬は、もともと公用物運送のためのものであったから、公用の荷物が立て込めば民間商品はあとまわしになる。公用の駄賃は低く押さえられていたから、公用の運送で生じる赤字が民間のものに転嫁されるし、荷物は宿駅ごとに人馬を継ぎ立てるので、損傷することが多い。信州の中馬はこの欠点を補うために発生し、最初は農家の農閑期における現金収入のためにはじまったのが、やがて専業化した。一人の馬方が四頭の馬を追い、馬宿に泊まりながら数十里はなれたところまで直送したので、途中の荷傷みもすくなく、運賃も通常の宿継伝馬の半分に近かった。そのため、街道の宿場の問屋たちは既得権益を侵害するものとしてことごとに圧迫したので、中馬はしだいに宿場のある街道をさけ、間道をえらぶようになったという。
それゆえ近世における中馬道の成立は、交通運輸史上、重大な変革であった。それまで存在した馬の通う道は、いずれも支配者たちが彼らの政治支配と軍事上、経済上の必要から、強力な政策的努力によって、上からつくりだされたものであった。これに対して民間から、純粋に民間物資を馬で運ぶ道がつくられた。支配者から賦課された義務ではなく、自らの才覚で馬を飼い、駄賃稼ぎをする人、その人たちを馬ごと泊める家が、馬の道筋に発生したわけである。ここにいたって本街道はもちろん、中馬道のようなものまでふくめ、馬の通る道は名実ともに社会の表街道となった。はじめ馬の道は、支配者の手で村落とはあまり関係ないかたちで設定されたのに、この道筋に人と物資が集められ、町や村の生活がかけられて、社会の経済と、文化の発展をここで担うことになった。
しかしこうした表街道の繁栄の背後にあって、旧来の馬の通れない道は、けっして消滅したのではなかった。中馬の活躍した信州を例にとっても、新潟県西部の糸魚川と信州の松本とを結び糸魚川
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読解マラソン集 5番 古代から中、近世にかけて のつづき
街道は、いちおう平坦な道であったが、いくつかの小さな峠が馬の通行をはばんだので、もっぱら牛がつかわれた。幕末、ここを通って北国の塩を信州に運んだ荷は、年間八〇〇〇駄をこえ、太平洋岸、三河の塩を信州に運んだ中馬の数より多かったという。人と牛しか通れない旧来の道は、繁栄してきた馬の通る表街道からは遠い。その意味では、表街道につらなる、賑やかな人里からはなれた、辺鄙で、険阻な間道となり、陰のうすい存在になりはじめたのは事実である。しかし、この間道も、いっぽうではそれ自身で裏街道のネットワークをつくり、おなじように表街道の賑わいから忘れられかけた村々を直結して、その生活をひっそりと支えていた。裏街道という言葉は、この時代には現代の私たちの感じるほどうら哀しい響きはもっていなかった。近代的な交通機関が馬の道でさえ古いものとして切り捨てるまでは、裏街道もまた、りっぱに社会的効用がみとめられ、生きて働いていた。
(高取正男「日本的思考の原型」)
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読解マラソン集 6番 伊代はおぼれていた yube3
伊代はおぼれていた。もう沈む寸前といってもよかった。体が大きいぶんだけ、動きも大きく鈍くなりゆっくりになっていた。洋がよっぽどプールへ飛びこんで救助しようと思った。けれど、ここでそうしたら、泳げるようになるのは大幅に時間がかかる。あるいは恐怖が倍加する中で、泳げなくなるかもしれなかった。
(あと十秒、待とう)
たぶん、ぎりぎりの線だろう。へたに声をかけてもまずかった。洋は目に力のありったけをこめて伊代を見つめ見守った。
(腕を動かしてくれ、足で水をけってくれ。ひどい先生やと、おれを憎んでもよいから、憎しみを力に変えてくれ……)
洋はしばらくぶりに祈った。誰にということではなかった。そしてまばたき一つか二つする間、祈りながら自分もおぼれかけていた。
小学生のときだ。泳がしたろか。兄ちゃんが言ってくれ、洋少年はパンツ一枚で兄ちゃんの後について川っぷちにおりていった。紀の川の青い深い流れを見ると洋少年は足がすくんだ。兄ちゃんは水泳部の選手サンであり、みごとなポーズで流れに身を躍らせた。河童になって浮きあがり川ぎしにつないであった小舟にはいあがった。洋を手招き、舟にあがらせた。
「どないしたら泳げるようになるのン、兄ちゃん……。」
無邪気にたずねる洋に、兄ちゃんはいきなり、強い一突きをもって回答した。ひとたまりもなく、洋は流れにまっさかさまに落ちこみ、水をのみのみ、水をかきむしった。ようやく顔がつき出せて、こんどは犬になって水の中を走り、やとの思いで舟ばたに片手をかけると、兄ちゃんがその指を一本ずつ外してくれた。再び沈みながら、水中に洋は憎しみのことばを吐いた。
「兄ちゃんのひとごろし。」
しかしそれはみんな泡になって消え、声にはならなかった。夢中で水の中でもがき続けるうちに再浮上でき、こんどは兄ちゃんのいる舟がこわくて、遠くの岸辺へ泳ごうとあせっていた。泳ぐというより、流されるかっこうでようやく大きな岩にしがみついた。気が
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つくと、パンツを流していた。舟に兄ちゃんがいなかった。パンツ、パンツと洋は涙声を張り上げた。パンツは下手の方から兄ちゃん河童が片手に高くさし上げながら泳ぎのぼって取ってきてくれた。
「洋、泳げたやないか。」
兄ちゃんに言われて初めて自分が泳いでいたのに気がついた。荒療治ながら、兄ちゃん独自の特訓であった。
洋はおぼれていた。それから死力をつくして浮かび続けようとしていた。流れが洋を運ぶ。へたをすれば遠い遠いところまで運ばれかねなかった。洋はもがき続け、決してあきらめなかった。
(ぼくはまだ子どもやぞ、子どものうちに死んだりしてたまるか)
という気持ちで必死にさからっていた。
伊代は、はっと目を見開いた。
「先生、助けて――助けてちょうだい。」
口の中で叫んでいるのに、声になっていなかった。体が鉛みたいに重く、藻になったみたいにゆうらりゆうらりとしか動いてくれない。
(わたし、藻じゃなんかじゃないわ)
伊代は心の中で叫び、手足を動かした。わたしが藻でなくても、藻にからまれて動かなくなりそうな気がした。
「せんせい……。」
水の中からせんせいの姿を探した。自分を見つめるせんせいの目が青い光を帯びて輝き、伊予をそっと包んでくれた。伊代は青い光の中で急に体が楽になり、こんどはバレーでも踊っているように、ゆったりと手足が動かせるようになった。すると体全体がぐんと浮かびあがった。体全体が前に進んだ。これが泳ぐということかもしれない……と伊代はぼんやり思い、少しずつ力をいれて本当に泳ぎ始めていた……。
(助かった)
祈りが通じた気持ちで、洋は両手を合わせるかわりに両手をこぶしにしてかたく握りしめていた。握りこぶしの中から冷や汗がしたたり落ちた。
(今江祥智「牧歌」)
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読解マラソン集 7番 わたしは中学(一中)から yube3
わたしは中学(一中)から高等学校(三高)へかけて京都で育ったので、その頃の私はまことに京都的な少年であったらしい。まあ言ってみれば物腰の柔らかい少年として日曜日には嵐山などを歩きまわっていたらしく、現に大沢池あたりで友だちと香りのよい菫を摘んできた記憶がいかにもそれらしく残っている。
しかしなんといってもいちばんなまなましく残っているのは、三高の入試で、もちろん旧制の、しかも全国に七つしかなかった、いわゆるナンバースクール時代のことだから、競争はそれなりに相当はげしかった。
私はどうにか第一志望の京都にもぐり込むことができたが、発表された時の有頂天なよろこびは一生涯忘れることができない。これはひとつには当時高校の関門さえ通れば、大学へはほとんど無試験で入学できたのだから、高校の入学ということは当時の青年にとって、いわば一生に一度の難関だったためでもあろう。しかしそれと匹敵するくらいに思い出されるのがあの大文字の火なのだから、私の記憶の中にともっているあの火の照明度はかなり強いものだといわなくてはならない。
もっともこのことは今の学生にはたぶんあてはまらないことだろう。今のように市内の随所に鉄骨がそびえているのでは、大文字の火も繁華街のビルのすきまからのぞく明月かなにかのようにさぞみすぼらしいものになり下がっているだろうし、赤や青に明滅しているネオンがくれに眺めたのではこれも不景気な、色あせた存在だろうとなんだか気の毒になるが、私の学生の頃はそんなものではなかった。
その頃の京都全市の人々がかたずをのんで今か今かと待ちかまえた大文字山は、どこからでもなんのさえぎるものもなく、東方の空を黒々と大きく限って横たわっていた。街の灯もさすが電燈ではあったが、とっぷり暮れた夜の都には、まあどちらかといえば、点々としたさみしいものだった。そこへ真っ赤な炎が急に一つまた二つと燃えはじめ、またたく間に炎炎と一大文字が夜空の一角を領してしまう。
近所の屋上や路ばたの涼み台などあちこちから感嘆の声が聞こえ
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る。それはたぶん京都の市民たちがいっせいに挙げる歓声の一続きみたいなものであったろう。もっとも、何十年と大文字を見ていない私が、せんえつにこんなことをいってはどうかと思うが、近ごろの大文字がネオンに圧倒されたり、ビルの間にはさまって見えたとしても、そんなことであの火をつまらぬものになり下がったなどと、けいべつしたくはない。
あの文字どおりに燃えさかる炎にはどんなみごとなネオンのまばゆい動きにも代えがたい情熱がかくされている。その情熱こそは当時の青少年を学問へかりたてたその同じ情熱だった。またあの炎炎としてともりかつ消えていく自然のままの光の色あいの中にはなにかしら今日の蛍光燈などには求められない無邪気純真な真剣さが宿っていた。あの真剣さこそが当時の入試受験生をひたむきに勉強させた同じ真剣さではなかったか。
私は老人の口ぐせをまねて自分の若い頃のよさを手本にして、いまどきの若い者の功利主義やふまじめをお説教しようなどとはけっして思わない。ただ、私の時代のあの大文字が今もなおあんなにも情熱をこめて、真剣に何十年前と同じ姿で燃えているであろうなら、私の愛する青年たちの胸にもまたいたずらにビルにあこがれたり、ネオンにだまされたりしないで、その昔と同じような情熱で学問を愛し、真剣に入試とたたかう心がまえだけは生かし続けてほしいナアと祈るばかりである。
(高木市之助「詩酒おぼえ書き」)
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読解マラソン集 8番 人間は目ざめているかぎり、 yube3
人間は目ざめているかぎり、いつも頭のなかに何かを描いています。もしここに一枚の白いカンヴァスがあって、それに人間があれこれ思い描くイメージが、そのまま映しだされるとしたら、いったい、その絵はどんな作品になることか。人間の頭のなかほど神秘的なものはない、と言ってもいいと思います。
そこでいま、私は自分を実験台にして、自分の頭のなかを正直に描いてみようと思います。といっても、まさか白いカンヴァスに私の頭のなかにあるイメージを映しだすわけにはゆきません。やむを得ず、それを何とかことばで書き記してみようと思うのです。
ところが、このような試みは、けっして容易ではありません。なぜなら人間が頭に思い描いているものは、なかなかことばにならないからです。人間は何かを考える際に、ことばで考えています。ですから、考えていることを、そのままことばにすることは、かんたんのように思えますが、頭のなかで考えているそのことばは、けっして完全なことばなのではなく、いわば、ことばの断片のようなものです。とぎれとぎれのことばが、浮かんだり、消えたりしている、と言ってもいいでしょう。それを、そのまま原稿用紙に書き写してみても、当人以外には、いや当人にとってさえ、意味不明のことばの羅列になってしまい、とうてい、理解できる文章にはなりません。
フランスの生理学者ポール・ショシャールは、頭のなかで考えているそのようなことばを「内言語」と呼んでいます。つまり、人間はことばで何かを考えているのですが、そのことばは、話したり書いたりすることばとはちがった「内言語」だ、というのです。したがって、人間は、つねにふたつのことばを持っているということになります。考えるときに使う「内言語」と、話したり書いたりするときに用いる通常のことば――ショシャールそれを「外言語」と名づけます――です。
このふたつの言語は、一見、おなじように思われますが、じつはそうではなく、両者はまったく異質な脈絡のなかにあるのです。ですから、「思ったとおりに書け」と言われても、そうかんたんにゆきません。文章を書くということは、「内言語」を「外言語」に翻訳することであり、その翻訳の作業が何よりも大変なのですから。
しかし、人間の頭のなかには、ただ「内言語」だけが漂っている
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わけではありません。たしかに、抽象的な概念は「内言語」によって意識されていますが、そうした言語とともに、さまざまなイメージが明滅しているのです。いや、言語よりも、イメージのほうが主要部分を占めているように思われます。
たとえば、あなたが、リンゴを食べたい、と思ったとします。あるいは友だちに会おうと考えたとする。その際、あなたの頭に、まずリンゴということばが浮かんだのか、それともリンゴのイメージが先に現れたのか。友だちの顔が先か、友だちという言葉が最初か。私はいまそれを自分に即して考えてみたのですが、どうも、はっきりしません。イメージが先のようでもあるし、ことばがまず浮かんだような気もします。
このように、イメージといっても、きわめて漠然としており、さらによく考えてみると、イメージは「内言語」と一体になっているようにも思えます。しかし、イメージの背後に「内言語」があったとしても、あるいは「内言語」の土台にイメージが形成されていたとしても、イメージと「内言語」とは、やはりどこかちがっている。イメージとは画像のようなものであり、「内言語」とはことばだからです。
(森本哲郎「ことばへの旅」)
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問題
yube-02-4 問題1
問1 読解マラソン集5番「古代から中、近世にかけて」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 中世の鎌倉街道は、馬の休める村落と村落を結んで走っていた。
B 民間の手による馬を使った運輸業は、農家の農閑期の仕事として始まった。
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答1
yube-02-4 問題2
問2 読解マラソン集5番「古代から中、近世にかけて」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 牛は、馬の通れない険しい道も通ることができた。
B 馬の通れない道は、裏街道として生き続けた。
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答2
yube-02-4 問題3
問3 読解マラソン集6番「伊予はおぼれていた」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 洋は、伊予を助けてしまったら、伊予は二度と自分の力では泳がなくなると思った。
B 洋は、兄のように水泳部に入りたいと思っていた。
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答3
yube-02-4 問題4
問4 読解マラソン集6番「伊予はおぼれていた」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 兄は、洋を泳げるようにさせるつもりで川に誘った。
B 伊予が泳げるようになったのは、最後にほんの少しだけ先生が手を貸してくれたからである。
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答4
yube-02-4 問題5
問5 読解マラソン集7番「わたしは中学(一中)から」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 昔の大文字焼きは、今の大文字焼きよりも火勢が強かった。
B 昔は、京都中の人々が、大文字焼きを見ていた。
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答5
yube-02-4 問題6
問6 読解マラソン集7番「わたしは中学(一中)から」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 筆者は、「みごとなネオン」という言葉で、自然破壊を続ける科学技術の危うさを表している。
B ビルの乱立やネオンの点滅によって、大文字焼きの存続が危ぶまれている。
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答6
yube-02-4 問題7
問7 読解マラソン集8番「人間は目ざめているかぎり、」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 人間は、頭の中では「内言語」によって考えている。
B ひとりごとは、内言語がそのまま表に出たものである。
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答7
yube-02-4 問題8
問8 読解マラソン集8番「人間は目ざめているかぎり、」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 文章を書くコツは、思ったとおりに書くことである。
B 内言語の一つひとつには、それに対応したイメージがある。
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答8