a 読解マラソン集 9番 人間というものには ya3
 人間というものには、年齢ねんれい上のどの時代にも、昔は好かったなあ、という追憶ついおく溜息ためいきいてくるようです。
 私の最初の記憶きおくは、お手伝いさんに背負われていた私です。
 四つか五つのころまで、私は、生まれ故郷の山の中の小さい温泉場に育ちましたが、それから町に出て、わたしが小学校へ通ったころには、もう私には、町に住むようになって今の自分より、山の中の温泉場にいた幼い私の方が幸福だったと思う心が生まれていました。この心持ちをごく簡単に説明すれば、現実を厭ういと 心の道草と言って好いかもしれません。
 私にとっては、追憶ついおくは人生の清涼せいりょうざいです。
 こんな傾向けいこうを持つ私は、よく過去の私にのがれました。そして過ぎ去った私は、いつも、今の私よりどこか幸福だった気がします。
 追憶ついおくによって生まれた昔の幸福は今の自分を幸福にしてくれるほど著しい力を持ったものではありません。けれどそこから幾分いくぶん慰めなぐさ は来るようです。追憶ついおくは人間を幾分いくぶんでも慰めるなぐさ  ために、あの消極的な一種なつかしい慰めなぐさ を置いて行くために、時々やって来るのだ。追憶ついおくという心のはたらきは、人生の避難ひなん所の一つとして人間に与えあた られた宝玉だ。――私はいつとなくそう考えるようになりました。

尾崎おざきみどり「花束」)(文章の一部を編集した)
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a 読解マラソン集 10番 冬が近づくと、昆虫の変身は ya3
 冬が近づくと、昆虫こんちゅうの変身は、一時ストップをかけられる。それは、きわめて合理的だ。木の葉もないときに毛虫がかえっても、しようがない。花のない季節にチョウが生まれても、死を待つだけである。虫たちは、冬は休眠きゅうみんに入る。
 休眠きゅうみんに入った虫は、ある意味で仮死状態にある。ひどいときには完全に凍っこお てしまっている。呼吸もほとんどおこなわない。物質交代は、ほとんど止まっており、典型的な場合は運動もしない。
 生物は動いているときに生物なのだが、それをほとんど止めてしまうのだから、そこには何か特別なしかけがいる。本来、前へ前へと進んでゆくべき変身のシナリオを、一時がっちりと止めてしまうしかけである。このしかけがどんなものか、くわしいことはまだわかっていない。とにかく、日本のように季節変化のはげしい温帯や、さらにもっときびしい寒帯にすむ虫は、大部分このしかけをもっている。
 休眠きゅうみんに入った虫は、こういう「安全に停止した」状態で、寒く乾いかわ た、ひもじい季節をのりきってゆく。すべてがほとんど止まっている以上、これらの悪条件は苦にならない。――彼らかれ は、体の外も中も武装して、じっと冬を耐えるた  ――われわれはそう考えがちである。
 だが、このイメージは、まちがっている。彼らかれ は決してそんなに受け身ではない。むしろ彼らかれ は、きびしい冬を要求すらしているのである。
 休眠きゅうみんに入った虫の「停止のしかけ」は、ただ暖かくなったからといってとけるというものではない。昔からたくさんの研究者が、休眠きゅうみんに入ったばかりの虫に、そんな苦しい状態をすごさせまいという温かい親心からか、よい条件を示してやった。つまり、彼らかれ を暖かいところにおいてやったのである。しかし、親の心は通じなかった。虫たちは、いつまでも休眠きゅうみんをつづけ、さめることがなかった。翌年の春になって、戸外の寒さにふるえていた虫たちがぞくぞく休眠きゅうみんからさめ、変身を終えて舞いま だしても、文字どおり温室育ちの休眠きゅうみん虫たちは眠りねむ つづけていた。そして、ポツリ、ポツリと死んでいった。たまに眠りねむ からさめて変身をとげたものがいても、
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そのひよわさはあわれをもよおすものがあった。
 親心を示すなら、彼らかれ を冷蔵庫に入れておくべきだったのである。休眠きゅうみんの過程は、じつは決して単なる停止ではない。その間にやはり何かが進行しているのである。具体的に何がおこっているかを示した研究もいくつかある。とにかく、秋、休眠きゅうみんに入った虫たちは、積極的に寒さを必要とする。暖冬異変は、スキー場にとってばかりでなく、彼らかれ にとっても迷惑めいわくである。なぜなら経過すべき寒さ、それによって、目覚めへの過程が進行すべき寒さを、十分に得ることができないからである。
 冬の寒さをのりきるという深刻な課題に直面した虫たちは、このような積極的方法を発明した。逃避とうひがつねに敗北にしか終わらないことを考えてみれば、これはじつにみごとな解決法であったといえよう。

(日高敏隆としたか昆虫こんちゅうという世界」)
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a 読解マラソン集 11番 「自分」の一生を生きるというが ya3
 「自分」の一生を生きるというが、「自分の」といっても、どうにでも自分の思うとおりになるものではない。それどころか、むしろ、わたしたち一人ひとりの一生、一人一人の存在は、現実の社会関係の中で、様々に条件づけられ、決定されている。自分の生まれた国、生まれた社会、生まれた時代、生まれた境遇きょうぐう、等々によって、わたしたちはそれぞれ、自分の意志や意向とかかわりなく、一定の過去を背負っている。また、その延長上におのおの自分の歩いてきた道がある。そこには、勝手に帳消しにしたり抹殺まっさつしたりすることのできない、人それぞれの生がある。
 たとえ自分から見て他人の置かれている立場がどんなにうらやましくとも、また逆に、他人の不幸な境遇きょうぐうにどんなに同情しても、わたしたちは個人として他人とすっかり入れ替わるい か  ことはできない。他人の立場に身を置くということは、わたしたち人間の相互そうご理解のための大切な行為こういであり、人間の重要な特性の一つである。けれどもそれは、一定の限度の中で可能であるにすぎない。結局自分は自分でしかあり得ない。自分は自分だけで成り立っているのではなく他人との関係のうちに成り立っているにしても、それでも自分は自分でしかあり得ないのだ。そして、このように自分は自分でしかあり得ないということの確認は、決して尊敬、愛、友情、哀れみあわ  、共感などに基づく他人との結びつきを断ち切るものではなく、かえって他人との結びつきを強めることになるだろう。
 こうして、われわれ一人一人によって、「自分」の一生とは、「ほかには成り替われか  ない」一生ということになる。しかし、だからといって、それは何もかもすべてが決定されていて、自由な選択せんたくが全くできないということではない。これまでの過去については、条件づけとして、動かすことができないにしても、言い換えれい か  ば、それぞれに固有の過去を背負い、幾重にもいくえ  条件づけられてはいても、その上でなお多くの可能性や選択せんたくの余地が残されている。それが人の一生というものであろう。また、たとえ一人一人の背負っている過去は動かせないとはいっても、それは事実としてのことにすぎない。一人一人がその過去を、過去の諸事実を、どのような意味を持ったものにするかは、現在の、またこれからの問題である。過去による限定は意味にも及んおよ でないわけではないが、それは絶対的
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なものではない。更にさら 、今後の可能性ということになれば、生きていくその時々の各人の道の選び方や決断、それに意志的な努力によって大きく変わり得るのである。
 各人の道の選び方や決断といったが、それははっきりした人生の重大な岐路きろに立っての選択せんたくや決断のようなものばかりではない。選択せんたくや決断は、もっと目立たないかたちでわたしたちの日常的な生活の中でも求められることである。テレビやチャンネルを選ぶことだって選択せんたくであり、テレビを見ていていつ立とうかと思うのだって決断である。選択せんたくし、決断することは、わたしたちが惰性だせいに流されるのではなく、自覚的に生きようとすれば、いつでも伴っともな てくる。だからそれは、毎日毎日の生活の中で絶えず新鮮しんせんなものを見いだすこと、またそういう在り方を積み重ねていくことにも結び付くのである。その場合、偶然ぐうぜん的な要因が大きく働くこともあるだろう。それをも取り込んと こ で役立てつつ、一人一人が職業のうちにせよ、社会的な活動のうちにせよ、趣味しゅみのうちにせよ、自分の進む道を見いだすことができれば、各人それぞれの一生は、いっそう「自分」のものになる。

(中村雄二郎ゆうじろう哲学てつがくの現在」)
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a 読解マラソン集 12番 日本の人里の、何もきわだって ya3
 日本の人里の、何もきわだって美しいといえない風景の中にも、最近とくに知られるようになり、若い人たちが訪れる場所ができ始めた。京都の嵯峨野さがのなどは、そうした場所の一つに数えられるだろう。また大和の山のの道も、だんだん人気が出てきたようである。だが、これらの場所は、実は、完全な自然の風景ではなく、背後にひかえている歴史の重みが加わって、その価値を高めているのだ。風景を考えるとき、これは非常に重大な点である。
 その地の歴史を知ることにより、平凡へいぼんな風景、ありふれた小山が、見る人びとをたちまち深い感興を催すもよお 。きっかけは、歴史だけではない。芭蕉ばしょうの俳句に詠まよ れたいくつかの風景は、その地に行って、ゆかりの風物を見る現代人の心に深い感慨かんがいを呼び起こす。風景は、見る人の心によって変わる。風景の価値は、その現在の実体と、過去を思う観賞者の心の交渉こうしょうのうちに成立する。
 風景の要素には、歴史が大きくかかわるだけではない。自然に対する知識が、なかなか大きく作用する場合がある。名もない花が咲いさ ているのをただ見るだけでなく、その花の名が全部わかり、そのあるものがその土地にあることの意外性といったことがわかり、その育ちぐあいの良さ悪さまでわかったら、興ざめになるどころかかえっていっそう印象が深まるというものだろう。向こうの丘陵きゅうりょうの雑木林の中に、若葉をつけたコブシの木の群れを見いだし、二か月前の花のころの光景を想像に描くえが のは悪い趣味しゅみではない。まわりで鳴く小鳥の声を聞いて、その鳥の種類がわかるのも楽しい。ツキヒホシポイポイと形容されるサンコウチュウの鳴き声を、珍しくめずら  も人里近くで聞いた時のうれしさは、風景のよさと必ずしも異えんではない。
 日本の風景で、今まで人がほとんど注意を払わはら なかったものに生けがきがある。農村の住宅は生けがきで囲った家が多い。農村の生けがき用の樹種は、都会の住宅地より単調な場合が多いが、そのかわり年を経た貫禄かんろくのあるものが少なくない。生けがきというものは、手入れのぐあいで、実にさまざまな態様をしていて、見る人の心を刺激しげきするものである。
 人の住んでいる風景と関係するものには、もっと人間くさいもの
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がたくさんある。向こうのあの松の下の家のおばあちゃんは梅干を漬けるつ  のが上手で、そのとなりの家の息子は野球選手で甲子園こうしえんに出場したことがあるなどと知っていたら、その興の深さはどうだろう。そんなことは、風景とは関係ないと言う人がいるかもしれないが、私は何か関係があるという意見である。
 日本の、人の住む風景には、心温まる潤いうるお と豊かさをそなえたものが、いたるところにある。それは、いろいろな自然・人文の知識に裏打ちされいっそうの興趣きょうしゅを盛り上げる。自分もそこに住み込んす こ で、朝夕その中に溶け込みと こ たいような風景……いや、それよりも「風土」といったほうが適切な場所が、まだまだ、日本にたくさん残っているのである。

中尾なかお佐助さすけ「私たちの風景」)
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