a 読解マラソン集 1番 その日、天気はよかったが ya3
 その日、天気はよかったが昼になっても外気はあたたまることがなく、寒さは人々のからだを縮み上がらせていた。日ごろは、いたずら盛りの中学生をのみ込ん  こ で活気があふれている校舎も、なんとなくふんいきが沈んしず でいるようにみえた。もっとも、ふだんのように喚声かんせいが聞えないのは、その日が年の瀬とし せをひかえた二学期の終業式ということもあった。式の後、クラスでの行事が終わると、近正治はだれよりもはやく教室を飛び出した。かれは人かげのない運動場を横切って、一刻も早く校門を出ようと思っていた。しかし、十メートルも走らないうちに、正治は足がもつれてつんのめった。災難に会っているかれには非情な表現になるかもしれないが、うつぶせに倒れたお ている正治の姿態は、はたから見るとみじめでぶざまだった。瞬間しゅんかんのことではあるが、正治は失神していたのであろうか、意識をとりもどし、頭をもたげて前方を見ると、目の前の運動場が折れ曲がって、はしの方からかぶさるように上がってくる。そしてかれ自身は、足の方からもち上げられて逆さにのめり込ん   こ でいくような気がした。いつの間にか、周囲には人だかりがしていた。正治のクラスメートたちだった。
「何を見てるんだ。」
正治はそう言いながら両手をついて立ち上がろうとしたが、右のふくらはぎに激しい痛みを覚えて、そのまま突っ伏しつ ぷ た。みんな、おれをみておもしろがっているな、かれはくやしくてならなかったが、どうにも身動きできなかった。
 二年生の中ほどに、都会から田舎の中学に転校して来た正治は、そこでの自分の身の処し方を考えた。まちでは、大人も子供も如才じょさいなく人と接触せっしょくする。けれども、まるごとの人間関係に支えられている田舎には、都会のような気やすいものはみられない。そういうところで違和感いわかんをもち、かれは自分の居住地の風土に容易になじもうとはしなかった。むしろ、集団の中で「我」を通すことによって、都会育ちの自らの存在を誇示こじしようとした。しかし、結果は逆だった。周囲は自然に冷たくなり、正治は集団から、逃げ出すに だ ことばかりを考えていた。それは三年生になっても変わることがなかった。
「近、どうだい。」
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 担任の友田先生が、遠山らのクラスの代表数名と共に見舞いみま にやって来た。正治はアキレス腱    けんが切れていて、あの日病院にかつぎこまれてそのまま入院していた。正治は、クラスメートの心配してくれている顔を見ると、今までとんでもないまちがいを犯してきたように思いはじめた。
「思春期ってのは、自分が見えないんだよ。それを確かめようとして、いろんな形で自分を表そうとする。しかし、その自己表現のしかたがたとえまちがっていることがわかっても、こんどはわかっていることを認めたがらないんだよ。」考えこんでいる正治に先生が独り言のように言う。弱り目にある者に追い打ちをかけやがって。正治はうらめしげに先生をにらみつけたつもりが、その目になみだがにじんだ。なみだがつくり出したレンズで、そばでほほえんでいる遠山の顔をみると、正治はそれを純粋じゅんすいに受けとめることができた。

(中西幸雄「友情」)
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a 読解マラソン集 2番 私がエベレストを初めて見たのは ya3
 私がエベレストを初めて見たのは、ちょうど一年前、十二月二十九日であった。ネパールの首都カトマンズから飛行機で飛んできたシャンボチェの部落から少し歩いて、イムジャ・コーラの谷のおくへの展望が開けたとたんに、エベレストが見えた。世界の最高峰こうほうというのは、やはり見るだけでも感動的なものである。その頂からは、東の方へちぎれ雲がのびている。ジェット・ストリームが山にぶつかってできる大気の波動が作る雲である。
 そんな雲を眺めなが ながら、私は、エベレストの高さは何で決まるかと考えたことを、思い出した。
 最近、中国の登山隊が、頂上に反射鏡を置いて高さを再測したと伝えられるので、あるいは少し変わるかもしれないが、エベレストの高さは、今のところ、八、八四八メートルとされている。あるとき、私は、この高さがけん界面の高さに近いことに、あらためて気づいた。けん界面とは、地面近くにある対流圏たいりゅうけんと、その上にある成層圏せいそうけんとの境めで、地上から昇っのぼ た空気は、ここでいちおう止められる。いわば、大気の天井てんじょうである。その高さは、熱帯で高く、極で低く、季節によって変わる。エベレストのあたりでは、冬に約一万メートルの高さにある。最近のジャンボ・ジェットが飛ぶ高さである。
 エベレストの高さ約九千メートル、けん界面の高さ約一万メートル、ざっと似た値である。だが、この二つを結びつけて考えた話は聞いたことがない。偶然ぐうぜん一致いっちとかたづけることもできるが、いったん二つを結びつけると、私には、それが比例関係をもつように思えてきた。
 例えば、こんな説明である。さきに書いたように、けん界面は地上からの空気が昇るのぼ いちおうの限界で、水蒸気が豊富なのも、ここまでである。だから、私が見た、エベレストから風下へのびる雲は、いわば、雲の上限に近いものである。けん界面の上では、水蒸気が少なくなり、雲もないといってよい。そこで、エベレストに限らず、ヒマラヤの高峰こうほうの頂上に降り注ぐのは、雲にさえぎられることのない「はだかの太陽光線である。岩肌いわはだは、それで暖められる。だが、夜になると、岩の放射冷却れいきゃくをさえぎる雲も、まだ、ない。だから
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岩肌いわはだは急速に冷やされる。
 こうして、昼と夜とで、加熱と冷却れいきゃくが激しく繰り返さく かえ れると、岩石の風化が進行する。岩肌いわはだについた雪は、昼には溶けと て割れめにしみ込み  こ 、この水が夜には凍っこお てふくらみ、割れめを拡大する。この作用は低地でも働くが、けん界面の近くでは、特に激しい可能性がある。
 そこで、造山運動によって、じわじわと盛り上がってきたヒマラヤの高峰こうほうは、このけん界面付近の激しい風化作用で削らけず れる。だから、エベレストはけん界面よりやや低く、八、八四八メートルなのではないか、もしけん界面がもっと高かったら、それに応じてエベレストも今よりずっと高いかもしれない。
 これが私の推論である。アイデアとして地球科学を専攻せんこうしている友人に話すと、おもしろがられる。山の高さの上限について考えた人は、あまりいないらしい。

樋口敬二ひぐちけいじ「エベレストはなぜ八、八四八メートルか」)
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a 読解マラソン集 3番 犬と人間の歴史をふりかえってみると ya3
 犬と人間の歴史をふりかえってみると、哺乳類ほにゅうるいという共通点はあっても、先祖はまるで違うちが 別の動物だということが分かります。
 だが、人間にとっていちばん身近にいて親しい動物は犬です。それも昨日今日のつき合いではない。数万年も昔から、人間と犬はごく身近に暮らしてきた仲です。
 まず考えられることは、そばにいればお互い たが に得になることがあったということでした。
 人間の祖先が木の上から下りて、地上で生活するようになってから、最も警戒けいかいしなければならなかったのは、大きな猛獣もうじゅうたちでした。
 その猛獣もうじゅうたちは、時代や場所によっても違いちが ますが、たとえば、ライオン、サーベルタイガー、トラ、クマ、サイ、イノシシなどに人間の住まいが襲わおそ れたら、ひとたまりもありません。
 一方、犬たちにとっても、これらの猛獣もうじゅうは最も警戒けいかいする敵だったのです。そこに数万年も前に人間と犬が接近した問題を解くかぎがあるようです。
 森の中で生活している類人猿るいじんえんたちの食物は、植物が主食です。木の葉や果実、木の実などです。動物性の食物は昆虫こんちゅうぐらいなものです。だが、地上に下りた人間の祖先は、肉食じゅうと同じように狩猟しゅりょうをする必要がありました。彼らかれ は大きな草食じゅう倒すたお ためには、鋭いするど きばつめのかわりに石で武器を作ることにしました。
 石のけんやりの先に結ばれて、草食じゅうたちには投げやりになって飛びました。投げるやりに勢いをつけ、命中率を高くする「アトラトル」という道具を、弓矢を発明する前に発明していたのです。
 当時の狩猟しゅりょう法は投げやり獲物えもの倒したお たり、落とし穴に追い込むお こ と、上から石を投げたりして殺しました。
 捕えとら た動物は食べるだけではなく、生活のために利用できるものはなんでも利用していました。シベリア地方には、二万年近い昔に作られた人間の家が残っています。それは数十頭のマンモスの骨を解体して作ったものです。骨を積みあげて、その上にはマンモスの皮をはいでかぶせたものです。いまでも、シベリアにはトナカイを従えて遊牧しているエスキモー民族の部族がおりますが、その人た
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ちが宿泊しゅくはくするときに建てるテントのほろは、トナカイの皮で出来たものです。この家は石器時代の名残りといえるでしょう。
 このように石器時代の人間は、動物を捕えとら たら解体しましたから、その住居のあとには、残りものを捨てる場所がありました。
 トラやライオンなら、獲物えものの大半は食べ尽くせつ  ますが、人間はそうはいきません。利用できるものは利用した後でも、骨や噛みか きれない硬いかた 筋などが残ります。そういう廃物はいぶつを捨てておくと、それが犬にとっては魅力みりょくのある食物になったのです。
 犬たちはむろん自分たちのりょうはしますが、不猟ふりょうのときは人間の住まいのそばの捨てたものを狙うねら ことも覚えたのでした。
 犬にとって、人間に近づきすぎるのは危険です。人間は犬も狙うねら からです。犬は食料にもなるし、毛皮は利用価値が十分にあります。だが、あるときから人間は、犬がそばにいると便利なことに気づきました。
 それは犬は猛獣もうじゅうが近づくことをいち早く知るからです。犬は自分の仲間たちに、危険を知らせるための遠吠えとおぼ をしますが、それはそのまま人間への合図になりました。とくに視力がまったく役にたたなくなる夜間に、犬が近くにいることは、心強いことでした。
 また、人間は犬が天候の異変に敏感びんかんに反応することも分かったのです。とくに大雨になるようなときは大急ぎで自分の巣に帰っていくので分かりました。
 それは犬は人間よりもはるかに鋭いするど 嗅覚きゅうかく聴覚ちょうかくを持っていたから、遠くからの匂いにお や物音に敏感びんかんだったからです。
 このように犬がそばにいるほうが便利だということが分かってから、人間は犬が住居の近くに来て、捨てたものをえさとして食べてもその犬を捕えよとら  うとはしなくなったのでした。

沼田ぬまた陽一「もし犬が話せたら人間に何を伝えるか」)
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a 読解マラソン集 4番 私たちはこれまで、木は時代遅れの ya3
 私たちはこれまで、木は時代遅れじだいおく の原始的な素材だと思っていた。だからそれに新しい技術を加え、工業材料のレベルに近づけることが進歩だと考えた。その結果、改良木材と呼ばれるものが次々に生み出された。それらは従来の木の欠点を補い、大量の需要じゅように応じ、生活を豊かにするのに大きく役立ってきた。たしかに木材工業は発展したのである。
 だが一方、最近になって、一つの疑問が持たれはじめてきたように思う。それは木というものは自然の形のまま使ったときが一番よくて、手を加えれば加えるほど本来のよさが失われていくのではないか、という反省である。考えてみるとそれは当たり前のことだったかもしれない。木は何千万年もの長い時間をかけて、自然の摂理せつりに合うように、少しずつ体質を変えながらできあがってきた生き物だったはずである。木は自然の子で、そのままが最良なのである。
 だから木を構成する細胞さいぼうの一つ一つは、寒いところでは寒さに耐えるた  ように、雨の多いところでは湿気しっけに強いように、微妙びみょうな仕組みにつくられている。あの小さな細胞さいぼうの中には、人間の知恵ちえのはるかに及ばおよ ない神秘がひそんでいるとみるべきであろう。それを剥いは だり切ったり、くっつけたりするだけで、改良されると考えたこと自体、近代科学への過信だったかもしれない。
 木を取り扱っと あつか てしみじみ感ずることは、木はどんな用途ようとにもそのまま使える優れた材料であるが、その優秀ゆうしゅう性を数量的に証明することは困難だということである。なぜなら、強さとか、保湿性ほしつせいとか、遮音しゃおん性とかいった、どの物理的性能をとりあげてみても、木はほかの材料に比べて、最下位ではないにしても、最上位にはならない。どれをとっても、中位の成績である。だから優秀ゆうしゅう性を証明しにくい、というわけである。
 だがそれは、抽出ちゅうしゅつした項目こうもくについて、一番上位のものを最優秀さいゆうしゅうだとみなす、項目こうもく別のタテ割り評価法によったからである。いま見方を変えて、ヨコ割りの総合的な評価法をとれば、木はどの項目こうもくでも上下に偏りかたよ のない優れた材料の一つということになる。木綿も絹も同様で、タテ割り評価法でみていくと最優秀さいゆうしゅうにはならない。しか
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し「ふうあい」(繊維せんいの手ざわりや見た感じ)まで含めふく 繊維せんいの総合性で判断すると、これらが優れた繊維せんいであることは、実は専門家のだれもがはだで知っていることである。総じて生物系の材料というものは、そういう性質をもつもののようである。
 以上に述べたことは、人間の評価のむずかしさにも通ずるものがあろう。二、三のタテ割りの試験科目の点数だけで判断することは、危険だという意味である。たしかに今の社会は、タテ割りのじくで切った上位の人たちが、指導的役割を占めし ている。だが実際に世の中を動かしているのは、各じくごとの成績は中位でも、バランスのとれた名もなき人たちではないか。頭のいい人はたしかに大事だが、バランスのとれた人もまた、社会構成上欠くことのできない要素である。だが今までの評価法では、そういう人たちのよさは浮かんう  でこない。思うに生物はきわめて複雑な構造をもつものだから、タテ割りだけで評価することには無理があるのであろう。

小原二郎こはらじろう
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