a 読解マラソン集 5番 人間社会は「同じ」を繰り返すことで wape3
 人間社会は「同じ」を繰り返すく かえ ことで「進歩」してきた。「同じ」というはたらきの典型が言葉である。日本のなかに違うちが 言葉を話す人たちがいると、やがて「同化」される。それが方言やアイヌ語に起こったことである。すでにおびただしい数の言語が滅びほろ た。いまは英語が国際語だといわれている。インターネットの普及ふきゅうによって英語はさらに広がり、中国語はやがて北京語に統一されていくのではないかという予測もある。中国語の場合、ケータイへの入力はアルファベットつまり発音に依存いぞんし、それなら発音が「正しく」ないと、目的の漢字が出てこないからである。そのうち日本語はかつてのアイヌ語になるかもしれない。それが「進歩」なのである。そこではみなが「同じ」言葉を話す。その反動で、個性、個性とわめきだすのであろう。挙句の果てに、心に個性があるなどと思ってしまう。
 個性をいうなら、多様性というべきである。個々の独自性がいちばん大切なのではない。個々の独自性は、それ自体が滅びほろ たら、それまでである。なにしろ諸行は無常なんだから。多様性とは、さまざまな「違っちが たもの」が調和的に存在する、存在できる、という状態である。それを私はシステムと呼ぶ。生態系=エコシステムは生物多様性を維持いじする。なぜ世界的にその「違っちが たもの」が危険に陥っおちい ているか、すでにおわかりだと思う。「同じ」「同じ」をひたすら繰り返すく かえ だけでなく、それを「当然として強制する」世界では、多様性は失われていく。
 「違いちが 」は感覚世界に由来する。それなら感覚世界をたえず「脳裏に存在させなければならない」。それぞれ違っちが たものこそが、真の意味での「現実」である。現実は人によって違うちが 。一言で表わすことができない。一言でいうためには「同じ」にしてしまうしかない。だからたとえば「なにごともアッラーの思し召しおぼ め 」ということになる。「同じ」を繰り返すく かえ 意識が、その意味での多彩たさいな現実を嫌うきら ことは、むしろ当然であろう。現実=感覚世界を、意識はできるだけ「同じ」に変えていく。
 「そのほうが便利だから、そのほうが楽だから」と人々はいう。
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 環境省かんきょうしょうがいくら頑張っがんば ても、多様性の説明がむずかしいわけである。説明するほうだって、現代人であり、官僚かんりょうである。そもそも言葉にすれば、五百万種は超えるこ  という昆虫こんちゅうが「虫」の一言となり、十億を超えるこ  人たちがただの「中国人」になる。官僚かんりょうなら言葉つまり情報を扱うあつか しかなく、言葉や情報はひたすら同一性の上に成立する。だからこそ私は、
 「言葉は感覚世界と概念がいねん世界をつなぐだろうが」
とわざわざいわなければならないのである。言葉こそが「同じ」と「違うちが 」の間で、微妙びみょう釣り合いつ あ を保つ。そこを「怠けなま たら」、世界はひたすら同一化する。
 たとえばお役所なら、「数字なら扱うあつか が、実体は扱わあつか ない」。数字にすれば、十人の人は要するに十である。個別の実体としてみれば、十人の人だけでも、やたらに面倒めんどうなものだというしかない。だから、
 「そんなややこしいものなんか扱っあつか たら、仕事にならない」
 「規則は規則だろ」
 「そんなことはできません」
 お役所はたえずそう繰り返すく かえ 。ついには、
 「本日の交通事故、死者一名」
となる。感覚世界で、それこそ唯一ゆいいつ無二の存在である、ある人が失われても、意識の世界はそれを「一名」で済ませる。それで「人命を尊重せよ」と、お題目をいう。人命一般いっぱんというものが、この世にあるのか。
 とはいえ、人はその二つの世界に住むしかない。現に住んでいるからである。感覚を消すことも、意識を消すこともできない。それなら「同じ」を繰り返しく かえ て階層をつくる一神教的世界に対して、「違うちが 」感覚世界と「同じ」概念がいねん世界を往復するだけで、「同じ」という世界を「上に上ろうとしない」日本人は、珍しいめずら  存在ではないのか。そうだからこそ、逆に多様性の維持いじに関して、利点を持ち、持って来たはずである。
(養老孟司たけし『無思想の発見』による)
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a 読解マラソン集 6番 デジカメ→パソコンという世界には wape3
 デジカメ→パソコンという世界には、選択肢せんたくしあみの目のように広がっている。オンとオフの選択せんたくからはじまったのがコンピューター世界だから、どこまで行っても選択せんたくである。毎日毎日選択せんたくしないと前へ進めない。それが辛いつら 選択せんたくなんだから自由にできていいじゃないか、というが、いつの間にか選択せんたくさせられているわけである。
 自由な表現、というのも最近はいやな言葉だ。もちろん理念の上で間違っまちが てはいない。でもいまは自由な表現といったとたんにいやで、これは何故だろうか。やはり言葉のもつ体臭たいしゅうのせいだろうか。体臭たいしゅうはあるくせに、言葉に真実味がない。公的な、横滑りよこすべ 感触かんしょくだけがある。
 選択肢せんたくし、という言葉は多様性のシンボルみたいに使われていて、その勘違いかんちが いやなのである。
 選択せんたくするというそのことは、とりあえずは自由なおこないである。自由であるのは、自分にとっては心地よいことのはずである。でも選択せんたく迫らせま れるのは、辛いつら ことだ。常時選択せんたくしないと進めない世の中は、自由どころか地獄じごくである。ぼくは社長になりたくない。県知事も王様も回避かいひしたい。
 選択肢せんたくしとか自由な表現が辛いつら のは、自分という位置の束縛そくばくが出てくるからである。自由による束縛そくばくといってもいい。いまの子供たちは、自由な表現というものを強要されて、ずいぶん辛いつら 思いをしているのではないか。表現したいことなんて何もなくても、とにかく自由にして見せないといけない。それよりもむしろ固苦しい習いごとを押しつけお   られて、そのことに抵抗ていこうを感じている方がよほどネイティブの自由がふくらんでくるのに。
 デジカメ世界では、すべてに選択肢せんたくしが林立していて、選択せんたくすることで空の色を変えたり、邪魔じゃまな電柱を取り除いたり、女性の鼻を高くしたり、何でもできる。自分の思い通りにできる。でもそういう思い通りは快適なのだろうか。
 逆にいうと自分の思い通りにしかできないことは、自分の思いだ
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けに閉じ込めと こ られるということになる。自分の思い通りが突っ走っつ ぱし た結果は、自分が自分のかべの中に閉じ込めと こ られて、外気は遮断しゃだんされて、そのままでは一酸化炭素中毒となってしまう。
 デジカメと従来のフィルムカメラを比べるとよくわかる。フィルムカメラだって、最近のは自動露出ろしゅつのオートフォーカスで、じつに便利で有能である。選択せんたくボタンだって、たくさんついてしまっている。でも電柱は消せないし、女性の鼻も高くできない。道具としての機能の基盤きばんは、あくまで対象物をそのまま受け入れる機構に止まっている。
 つまり思い通りという自分のかべがあるにしても、そのかべが低いのだ。だから思い通りにいかないところから、その低いかべ超えこ て運命が流入してくる。
 ぼくなど、それこそが写真を撮ると 楽しみなのだ。思いも寄らぬ運命は、常にフィールドにある。自分の外の世界の、つまり複雑系の中にあるといってもいいのかもしれない。カメラは道具だから便利であるに越しこ たことはないのだけど、その外気の中に漂うただよ 運命がすくえないものではしょうがない。
 デジカメ→パソコンという世界は、そういう運命への防御ぼうぎょ装置で成り立っている。だから仕事の道具としては有能である。でも人間の思い通りにできる装置は、思いがけないものの到来とうらい封じふう られていることでもある。自分にとっていちばん面白いのは、思いもしないものに出合うことだ。自分の思いを超えこ たものにめぐり合うことである。何故それが面白いかといえば、そのことで自分が広がっていく快感があるからである。

赤瀬川原平「選択肢せんたくしという言葉がいやな理由」による)
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a 読解マラソン集 7番 現代は退屈が極端に wape3
 現代は退屈たいくつ極端きょくたん嫌がらいや  れている時代だ。若者たちは、スケジュール帳が空白にならないように、さして重要でもない用事をたくさん入れているし、そうでなければ「何か面白いことないの」と呟いつぶや ている。世の親も子どもに退屈たいくつさせるのは悪いことだと考えているのか、子どもをほとんど毎日、じゅくお稽古 けいこごとに行かせている人もいるという。
 退屈たいくつ嫌悪けんおするそうした欲求に応えようと、退屈たいくつ紛らわせるまぎ    ための刺激しげきが世の中に満ちている。
 (中略)
 こうしたネットやゲームのように、絶え間なく、それも簡単に刺激しげき与えあた てくれるものが、いままでの日常生活の中にあっただろうか。現実の子どもたちは、歴史上かつてなかったほど、強烈きょうれつ刺激しげきに囲まれた状態で生きているのだ。
 私は、外からの強烈きょうれつ刺激しげきで脳を興奮させるのではなく、刺激しげきの少ない状況じょうきょうでも自分の脳を満足させる能力をつけるべきだと思う。すなわち退屈たいくつの中から、何か満足感を自分で生み出す力、「退屈たいくつ力」をつけようということだ。
 私は若いころから、英国の哲学てつがく者バートランド・ラッセルに私淑ししゅくしてきた。ラッセルは一九三〇年に書いた著書『幸福論』の中で、「退屈たいくつと興奮」という章をもうけ、「退屈たいくつは、有史時代を通じて大きな原動力の一つであったし、とりわけ現代においてそうである」と説いた。
 そして、次のようにも書いている。
 「多少とも単調な生活に耐えるた  能力は、幼年時代に獲得かくとくすべきである。この点で、現代の親たちは大いに責任がある。彼らかれ は子どもたちに、ショーだの、おいしい食物だのといった消極的な娯楽ごらくをたくさん与えあた すぎている」
 ラッセルは現代の子どもたちが置かれている環境かんきょうをみたら驚くおどろ にちがいない。ゲームやネットなど、外からの強烈きょうれつ刺激しげきが子どもの周囲に氾濫はんらんしているのだ。このように退屈たいくつすることを許さない
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環境かんきょうは、子どもにどのような影響えいきょう与えあた てしまうのだろうか。
 退屈たいくつが生み出したものを考えるとき、とても参考になるエピソードがある。「ドラえもん」の藤子不二雄Aが自伝的作品『まんが道』で描いえが た、二人が少年のころの話だ。
 昭和二十年代の前半、富山県の高岡たかおかに住んでいた二人は、いつも大好きなマンガについて語りあっていた。しかし終戦直後にマンガ雑誌など簡単に入手できるわけではない。そこで二人は、古本屋で入手したものを参考に、自分たちで雑誌をつくることにした。これが現代のように、いくつも雑誌があって、毎日、マンガを読んでいたとしたら、自分たちで描こえが うとは思わなかっただろう。退屈たいくつを創造の原動力にした格好の例である。
 「幼年時代の喜びは、主として、子どもが多少の努力と創意工夫によって、自分の環境かんきょうから引き出すようなものでなければならない」
 ラッセルもこのように書いている。
 この例を日本文化の視点から見てみると、藤子不二雄には想像力をかきたてるための時間、つまり精神の「ため」を作る時間がたっぷりあったといえる。この「ため」という言葉は、もともと「こしのため」のように身体に関する表現で、それが転じて「力をためる」「思いをためる」など、前向きの精神状態をあらわしていた。ところが今や、「疲れつか をためる」「ストレスをためる」など、心身が悪い状態をあらわすようになっている。精神的な「ため」を積極的につくるという技術が、日本人から次第に失われていくうちに、言葉の意味合いまで変わってしまったのだ。

齋藤さいとう孝「子どもに『退屈たいくつ力』をつけよ」)
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a 読解マラソン集 8番 なぜ人は理解を求めるのであろうか wape3
 なぜ人は理解を求めるのであろうか。これは、進化の歴史において人間がきまった生活様式をもたず、それ故に逆にさまざまな環境かんきょうに住みつき生活できたことと関連があると思われる。特定の生活様式をもっていれば、それで適応しやすい環境かんきょうを選んで住みつき、そこで所与しょよの情報を処理するだけでこと足りる。しかしそうした特定の生活様式をもたないときは、将来出会うさまざまな環境かんきょう条件、おこりうる種々の環境かんきょうの変化に対処しうるような、一般いっぱん的な準備をしておくことがどうしても必要になる。
 ある手続きによって今好む結果を手に入れることができたとしても、それだけでは、その手続きがどの範囲はんいで有効なのかわからない。環境かんきょう条件の些細ささいな変化によって好む結果が得られなくなってしまうというのでは、あまりにも不安定である。これに対して、その手続きが「いかにして」「なぜ」うまく働くのかがわかっていれば、条件が変わったときには、手続きを柔軟じゅうなんに修正することができるだろう。また将来、予見することのできない課題に出会ったときにも、そこに含まふく れる対象物をよく理解していれば、適切な手続き的知識を生み出すことも、それほど難しくないにちがいない。
 このように考えてくると、理解というのは、いわば、いろいろな環境かんきょう条件(の変化)の可能性に備えて、あらかじめ一般いっぱん的な準備をしておくことと見ることができるのではあるまいか。理解しておくことが人間にとって適応上必要な意味をここに求めることができよう。
 予想に反した事象に出会ったとき、あるいは、どれが真実なのかよくわからないとき、一応わかるがピタッとわかったという感じがもてないとき、知的好奇こうき心がひき起こされる。この知的好奇こうき心のひき起こされた状態とは、ことばを変えれば、理解がまだ十分に達成されていないことをわれわれが感じとった状態だといえよう。このときわれわれは、今のところうまくやっていけているが、将来にわたってこの状態を維持いじできるかどうかわからない、と告げられていることになる。そこでできるかぎり他の課題に優先させて、理解を達成しよう(知的好奇こうき心を充足じゅうそくさせよう)とするのである。
 当面の課題の達成をめざすことが現在志向(あるいは特定化された近い将来志向)だとすれば、理解をめざすことは、特定化されない遠い将来志向だといえよう。そして人間は、そのような将来志向
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の強い動物なのではないだろうか。
 もちろん、だからといって現在のさまざまな理解活動において、その都度「これは将来のためだ」と意識しているわけではない。むしろこの活動に際しては、わかることそのものが楽しいから、自分なりに納得できるのはうれしいことだから、それに従事している、というにすぎない。それが結果として将来の適応に役立つのだ、と考えるべきであろう。
 ここでひとつことわっておきたい。人間が知的好奇こうき心が強く、深く理解することを求めている、といっても、いつでも、どのようなときでも、そうなのではない。例えば、四さいから九さいの子どもたちに、種々の積木を与えあた 、「平均台(支点)」の上に置いてバランスをとるように求めた実験をみてみよう。年長の子どもやこの事態に慣れた子どもは、積み木の中央を平均台の上に乗せるとバランスがとれるという「理論」を持ち、これを試そうとしていた。
 ここで注目すべきなのは、これらの子どもが、とりあえずはこの課題ができるようになっていた、すなわち、試行錯誤しこうさくご的に何とかつりあいをとって積木を置くことができたことである。どうやったら課題を達成できるかまったくわからない、いいかえれば全精力を当面の課題の達成に使わざるを得ないあいだは、理論検証つまり理解への試みは見られなかったのだ。ひとまず課題を達成できたという心的余裕よゆうがあったからこそ、この解決法をより広い文脈において内省してみようとしたのだと考えられる。
 現在の課題の達成のために手もちの心的エネルギーないし情報処理能力を使いきっている状態では、とてもこうした理解の達成のほうにまでその力をふり向けられないであろう。いいかえれば、理解をともなう学習には時間がかかるのである。時間に追われ、多くのことを速やかに処理しなければならない場合には、とても深い理解など達成できない。ここであげた事例が、他からの強制がないだけでなく、自分の好むやり方で、好むだけの時間取り組める事態で生じたものであったことを、もう一度注意しておこう。知的好奇こうき心にもとづく学び手の能動性は、外側からせきたてられないかぎりにおいて発揮されうるのである。

稲垣佳世子波多野誼余夫『人はいかに学ぶか 日常的認知の世界』による。一部改変)
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問題

wape-02-4 問題1
問1 読解マラソン集5番「人間社会は『同じ』を繰り返すことで」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 「本日の交通事故、死者一名」に、性別・年齢・職業などを示しても、「違い」に近づいたことにはならない。
B 「違い」は感覚に属し、「同じ」は意識に属している。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答1

wape-02-4 問題2
問2 読解マラソン集5番「人間社会は『同じ』を繰り返すことで」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 「同じ」世界を「上に上ろうと」するという意味は、概念を抽象化するということである。
B 一期一会とは、「違う」世界を見ようとする発想である。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答2

wape-02-4 問題3
問3 読解マラソン集6番「デジカメ→パソコンという世界には」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 自由な選択肢が増えることで、社会は進歩し、個人の幸福は拡大する。
B 自分の思いどおりにできる機械によって、人間がかえって自分の思いの枠を超えられなくなることがある。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答3

wape-02-4 問題4
問4 読解マラソン集6番「デジカメ→パソコンという世界には」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A カメラの機能が少ないと、その分思いがけない運命に出合うチャンスが減る。
B 自分を超えたものとめぐり合うことによって、自分が広がる快感を持てる。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答4

wape-02-4 問題5
問5 読解マラソン集7番「現代は退屈が極端に」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 現代の大人は退屈な時間を避けようとしているが、子供にとって退屈な時間はない。
B 退屈力とは、刺激の少ない状況でも自分の脳を満足させる能力である。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答5

wape-02-4 問題6
問6 読解マラソン集7番「現代は退屈が極端に」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 藤子不二雄は、少年のころ、マンガ雑誌が簡単に手に入らないので、自分たちでマンガを書いた。
B 人間は、退屈を克服しようとして社会と自分自身を進歩させてきた。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答6

wape-02-4 問題7
問7 読解マラソン集8番「なぜ人は理解を求めるのであろうか」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 理解する能力は、進化の歴史において役立ってきた。
B 環境条件の変化する可能性が高いほど理解力が役に立つ。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答7

wape-02-4 問題8
問8 読解マラソン集8番「なぜ人は理解を求めるのであろうか」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 知的好奇心が引き起こされるのは、理解が不充分だと感じるからだ。
B 理解力を高めるためには、時間内に多くのことを速やかに処理する課題を課すことだ。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答8