a 読解マラソン集 1番 宿題がどっさりあるとき ri3
 宿題がどっさりあるとき、ふうとため息をついて、「山のような宿題」とか、「宿題の山」ということがあるでしょう。このとき、あなたはすでにレトリックの世界に入り込んはい こ でいるのです。山は文字どおりの山ではありません。比喩ひゆ的な山だからです。
 比喩ひゆ的な山なので、登ることはできない……と思っていると、宿題がはかどって、どうにか「山を越すこ 」というでしょう。やはりすでに山を登りはじめていたのです。「宿題の山」は、レトリックの用語では隠喩いんゆといいます。「山のような宿題」は直喩ちょくゆといいます。このような表現手段をもたない言語は、地上には存在しません。こう断言していいでしょう。人間が手にする表現の手段としてのレトリック、これは基本的には文化を超えこ て平等なのです。
 つまり、隠喩いんゆ直喩ちょくゆなどの言い回しは、日本語のレトリックのパタンであると同時に、まだあなたのよく知らない諸外国のレトリックのパタンでもあるということです。そして、レトリックが、文学的な表現であると同時に、日常的な表現でもあることを、あらかじめ知っておいてください。
 西欧せいおう社会では、レトリックは二五〇〇年の歴史をもちます。紀元前からの伝統で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスたちが活躍かつやくした古代ギリシア時代から続くものです。ふつうレトリックというとき、この西洋のレトリックを指します。
 では、レトリックとは何を意味し、何を目的としたのでしょうか。
 当時のギリシアは、市民に言論の自由がありました。そして、市民の代表は、自由に意見を述べることができて、議場での議論とその結果によって重要な方針が決められました。そこでは、いかに「よく話す」かが当然大きな意味をもつでしょう。
 レトリックは、議場や裁判の場で、「よく話す」方法として開発され、それがしだいに体系化されていったものです。「よく話す」の「よく」とは、「説得力をもって」という意味です。つまり、レトリックとは、「説得術」を意味したのです。腕力わんりょくで人を負かすのではなく、ことばで人を説き伏せると ふ  ――、これがレトリックでした。きわめて実践じっせん的な意味をもっていました。
(中略)
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 説得術としてのレトリックは、より広くは、「弁論術」と理解されました。人前で話すときは、いつでも相手を説得することを目的としているとはかぎらないからです。たとえば、英雄えいゆうの死に対して弔いとむら のことばを述べるのも、弁論の大切な一部でした。自由な発言が認められた社会では、なにかにつけて口頭による論、つまり弁論が重視されました。この弁論術の主軸しゅじくが、説得術だったと考えていいでしょう。
 レトリックは、古代の哲学てつがく者のアリストテレスが書いているように、どのようなテーマに対しても応用できる一般いっぱん的な技術体系でした。ですから、私利私欲のために悪用する者もいました。たしかにレトリックならぬトリックとして用いる者もいました。また、近年にいたっても、国民を大規模な戦争に向かわせる政治レトリックにも応用されました。この意味で、レトリックは両刃りょうばつるぎです。説得力が悪い方向に暴走しないように、知性による見張りが必要なのです。

瀬戸せと賢一けんいち「日本語のレトリック」)
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a 読解マラソン集 2番 花の多いところに ri3
 花の多いところに着いたら、リュックを下ろして寝ころんね   でみよう。寝ころぶね   場所が問題で、谷あいの棚田たなだなら山手半分は敬遠したほうがよい。いつの間にかみ出した水のために背中がぬれる。地下水位が高いのだ。下手のあぜのへりなら乾いかわ ていて、まず大丈夫だいじょうぶだろう。そのつもりで改めて眺めなが なおすと一枚の田んぼでも場所によってレンゲの生え方、密集の程度がちがう。レンゲはあまり湿っしめ た土を好まない草である。ブンブン唸りうな 声が聞こえる。ミツバチだ。チョウも遊びに来るかもしれない。ミツバチの仕草を眺めなが たら、レンゲの体を見なおしてみよう。
 まずレンゲを一株だけ、根ごと掘りほ とってみる。力まかせに抜くぬ のではなく、棒切れか竹べらか、あるいはナイフを土に突き立てつ た て、なるべくそっと掘りほ 上げる。指でつまんで土を丁寧ていねいにもみほぐすようにして落とすと、根があらわれる。付近の用水こうの水で洗ってみると、いっそう根の様子がよくわかる。一本の太い根と、枝分かれしたたくさんの白っぽい根がある。そのヒゲ根のあちこちに、米つぶ形の長さ三〜五ミリほどのつぶがたくさんくっついているだろう。少し赤みがかっている。
 このつぶが曲者だ。これはじつはチッソ工場なのである。この中に根瘤バクテリアこんりゅう     という特別な細菌さいきんが住んでいて、根のまわりやすき間などの空気の中のチッソを水溶すいよう性のチッソ化合物に変える働きをしている。稲刈りいねか をした後の田んぼにレンゲの種子をまいておくと、翌年の田植えまでの間にレンゲが生長し、根につぶができて多くの水溶すいよう性のチッソ化合物が生産され、レンゲはこれを栄養にしてますます生長する。これをスキで掘り起こしほ お  、くだき、土と混ぜる。つまり肥料にするわけで、緑の草の肥料という意味で「緑肥りょくひ」と呼ぶ。現金収入の乏しかっとぼ   た農家が、化学肥料を買わずとも田んぼの土を富ませられる手段だったわけである。
 この方法は昭和十年代が最盛で、二十年代には半分に減った。最近では人手不足の代わりに現金収入のふえた農家が、手間の簡単な
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金肥きんぴ」――化学肥料をどしどし使うので、田園全域が赤い花に敷きつめし   られるという風景は少なくなった。レンゲはもともと日本には生えていなかった、と考えられる。中国大陸の原産で漢名を紫雲英しうんえいまたは翹揺ぎょうようと言い、「緑肥りょくひ」として栽培さいばいがさかんに行われ出したのは明治中葉と言われている。
 レンゲの花が終わり、野を占めるし  ものの主役が虫媒花ちゅうばいかからイネ科の風媒花ふうばいかに変わるころ、田園の風景はにわかに色どりを失う。(中略)だから、春の野の花の鮮やかあざ  さは、農民たちには一種の救いであり、よみがえり来る生の季節の象徴しょうちょうとして喜ばれたのだろう。キンセンカ、ヤグルマギクに始まって、種子とりには不必要なほど多量のシュンギクの花が、抜きとらぬ   れもせずに咲くさ にまかせてある。不精なのではない。単なる風流でもないように思われる。少しでも風景を色どり豊かにしようと心がけてきた農民たましいのあらわれなのである。
 かつて大和の飛鳥ではレンゲ論争というのがあった。村長さんが音頭をとって、農家にレンゲの種子を配り、休閑きゅうかん田にまこうと奨励しょうれいした。観光客の誘致ゆうちのためである。「日本のふるさと」というキャッチ・フレーズのポスターには、ぜひとも野にみちるレンゲの赤が必要だ。レンゲにうずまる田園こそ、訪れた都会人たちの心をなごませ、楽しかった少年時代への郷愁きょうしゅうを呼ぶ――。植物学者のKさんがこれに抗議こうぎした。もともと日本にレンゲはなかった。古代の飛鳥の風景はもっと淡彩たんさい素朴そぼくであった。飛鳥が「日本のふるさと」ならば、そうした「ふるさと」の真実を訪問者に知らせることが大切なのだ。レンゲまきをすすめるなど邪道じゃどうだ――。
 春に咲くさ 野の花は、黄色の花が多い。量の多いタンポポやジシバリ類、キンポウゲ類、ヘビイチゴ類がすべて黄色で、白い花はハコベにしてもタネツケバナにしても小形で目立たない。これでレンゲがなかったのだから、古代日本の田園の風景は、もっと地味で寂しいさび  眺めなが だったにちがいない。そのような風景を眺めなが て、私たちの祖先は暮らしていたのである。
日浦ひうらいさむ『自然観察入門』)
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a 読解マラソン集 3番 私たちの体が ri3
 私たちの体が膨大ぼうだいな数の細胞さいぼうからできていることは、みなさんもよくご存じだと思います。ではその細胞さいぼうはいったいどのくらいの数があるのでしょうか。
 体重六〇キロの人で約六十兆個もあります。キロあたり約一兆個の計算で、生まれたばかりの赤ちゃんでも三兆個の細胞さいぼうをもっています。とにかくちょっとピンとこないくらいのすごい数ですが、もっとすごいことは、この細胞さいぼうの一個一個に、例外を除いてすべて同じ遺伝子が組み込まく こ れていることです。
 人間の体はいろいろな部分で成り立っていて、見た目やはたらきはずいぶん違っちが ています。たとえば髪の毛かみ けつめ皮膚ひふ。この三つを見ても、とても同じ仲間とは思えないでしょう。しかし、これらは全部細胞さいぼうと呼ばれるもので、構造やはたらきは基本的に同じ。そしてその細胞さいぼうのはたらきを決めている遺伝子もまったく同じなのです。
 そこで、細胞さいぼうの仕組みをここで簡単に説明しましょう。
 一つの細胞さいぼうの中心にはかくがあってかくまくでおおわれており、そのかくのなかに遺伝子があります。元をたどればこのたった一個の細胞さいぼう(受精卵)からスタートして、いまのあなたがあるのです。一個の受精卵が二個に、二個が四個に、四個が八個に、八個が十六個に……と細胞さいぼうが次々に分裂ぶんれつ繰り返しく かえ 途中とちゅうからは、
「おまえは手になれ」
「おまえは足になれ」
おれは脳にいく」
おれ肝臓かんぞうになる」
 と、それぞれ手分けして母親の体内でどんどん分裂ぶんれつを続けて、十月十日で出産、細胞さいぼう数約三兆個の赤ちゃんの姿になってこの世に誕生する、というわけです。
 もちろん、その後も細胞さいぼうはどんどん分裂ぶんれつを続けますが、問題は遺伝子です。
 遺伝子は細胞さいぼうかくのなかにあり、ここにDNA(デオキシリボ核酸かくさん)という物質があるのですが、この物質こそ私たちが遺伝子と
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呼ぶものなのです。
 その構造については第一章で詳しくくわ  説明しますが、ここで簡単にいっておきますと、DNAはらせん状の二本のテープになっていて、そのテープ上に四つの化学の文字で表わされる情報が書かれている。この情報が遺伝情報で、そこには生命に関するすべての情報が入っていると考えられています。
 ヒトの細胞さいぼう一個のかく含まふく れる遺伝子の基本情報量は三十億の化学の文字で書かれており、これをもし本にすると、千ページの本で千冊分になる。そして私たちはこのDNAに書き込まか こ れた膨大ぼうだいな情報によって生きているのです。
 これだけの膨大ぼうだいな情報量をもった遺伝子が、六十兆個の細胞さいぼうの一つ一つにまったく同じ情報として組み込まく こ れているということは、体のどこの細胞さいぼうの一片をとってきても、そこから人間一人を立派に誕生させることができる可能性をもっているということです。
 しかし、ここで一つ大きな疑問が生じてきます。どの細胞さいぼうも人間一人の生命活動に必要な全情報をもっているとしたら、つめ細胞さいぼうつめにしかならず、髪の毛かみ け細胞さいぼう髪の毛かみ けの役割しか果たしていないのはどうしてなのか、ということです。
 髪の毛かみ け細胞さいぼうが急に「心臓の仕事をしたい」、心臓の細胞さいぼうが「おれは今日からつめの仕事をする」などといい出すことはないのか。各細胞さいぼうがもつ情報はすべて同じなのですから、それは潜在せんざい能力的には可能なことなのです。
 しかし現実にそういうことは起きていません。それはつめ細胞さいぼうの遺伝子はつめになることはOK、つまり遺伝子をオン(ON)にしているが、それ以外はいっさいダメ、つまりオフ(OFF)にしていると考えられるからです。詳しいくわ  ことはまだよくわからない部分もあるのですが、受精卵から分裂ぶんれつして体をつくっていく過程で、細胞さいぼう間でなんらかのそういった取り決め、役割分担みたいなものが行なわれ、以後は各細胞さいぼうがそれをきちんと守っていると考えられています。
(村上和雄かずお生命いのちの暗号』)
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a 読解マラソン集 4番 むかしぼくらは、 ri3
 むかしぼくらは、学生で合宿していたころ、よく上野の動物園へ出かけていった。近かったし、ほかに遊びを持ってなかったし、二〜三枚の銀貨でみんなそろって遊べるので、よくいっしょにドヤドヤッと出かけていった。
 しかしぼくは、全体としての動物園をあまりすかなかった。第一、水禽すいきんのガアガアなきたてる声があまり愉快ゆかいでなかった。第二、広い動物園にいっぱいになってるケモノのにおいがたまらなかった。それがひどくからだを疲れつか させた。らくだなどことにひどかった。ぼくがみんなといっしょによく出かけたのは主として山猫やまねこを見ようためだった。
 山猫やまねこめは全身まっ黒の毛に包まれて金いろの目をしていた。かれのしっぽはからだよりも長く、イザというときにはこん棒のようになるにちがいない一種特別のふくらみを見せていた。ぼくの知るかぎりかれは、おりの奥行きおくゆ の半分より前へは一度も出てこなかった。いつもおくの方にすわって、けっして人になれることがなかった。ぼくはかれに「ごろつき」の名を与えあた た。かれはぼくに、ごろつき、ニヒリスト、かっぱらい、海賊かいぞく等のことばを思い出させた。
 くまはおりの金棒につかまって臆面おくめんもなく芸当をして見せていた。とらは金いろのしま目をきらめかしておりのなかを行き来していた。それは落ちぶれた貴族のようにものあわれであったが、同時に落ちぶれた貴族のように浅ましい媚びこ を感じさせた。獅子ししときては話にもならなかった。かれはすっかりくらふとって、むかしのこともすっかり忘れはててしまい、ここでいつかかれをつかまえた人間どもから比較的ひかくてきよく待遇たいぐうされてることにいい気になってしまい、その「あてがいぶち」に満足しきっていた。鈍感どんかんになってしまったかれは、ここの動物園のなかでさえ自分を王様と考えてるように見えた。それはぶたにも劣るおと ものだった。
 しかし山猫やまねこめにそんなことはなかった。
 かれはまっ黒の顔をしてその金いろの目をピカピカ光らせていた。おりの暗いおくの方でそれはりんのように燃えていた。かれはけっして人前で歩いて見せたりはしなかった。こんなところへ押し込めお こ 
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になっていてもいつもかれの国のことを考えていた。かるがると飛び、飛び越しと こ 、全力でかみ、思う存分血を流すかれの国でそれができないくらいなら、そんなところでたとえそれをすることから肉の一片ひときれを手に入れることができるとしても、そんなことのまねをする必要はないと考えていた。とら獅子しし大蛇だいじゃなぞがこんなばかものになってしまったとすれば、やつらがそんなに堕落だらくしてしまったというその一事のためにもがんばらなければならないと考えていた。かれは本能的に捨て身にかかっていた。それでかれのおりは一種のうすっ気味悪さで見る人に襲いかかっおそ    た。それで人びとはかれのおりの前にあまり長く立ちどまらず、なるべく黙殺もくさつする方針をとり、果ては知らず識らず黙殺もくさつして、とうとうそのことに平気になってしまっていた。

(中野重治『山猫やまねこその他』)
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