a 読解マラソン集 9番 じつは地球に nu3
 じつは地球にふんだんにある空気は、地球にもともとあったものではないのです。また雨や川や海という大量の水もありませんでした。これらがどうして地球にあるようになったのかは、しばらく前まではなぞでした。
 一つの説は、宇宙うちゅう空間にあるガスが地球の引力に捕まっつか  て地球の空気になったというものでした。空気のような軽いものにも引力ははたらきます。薄いうす ながら宇宙うちゅう空間にガスはあるので、これはいちばんありそうな説でした。しかし宇宙うちゅう空間のガスの成分を調べると地球の空気とはまったくちがうもので、これではいまの空気の説明はつきません。
 宇宙うちゅう空間からのものではなかったら、地球の空気はどこからきたのでしょうか。それは地球のなかから出てきたものにちがいありません。
 火山が原因げんいんだという説もありました。いま現在げんざい地球のなかから出てきているガスとしては、火山からのガスがあります。火山からはガスも水蒸気すいじょうきも大量に出てきています。成分からいえば、火山ガスは空気とています。だから地球の空気も水もすべて火山から出てきたにちがいないという説があったのです。
 しかし、この説には難点なんてんがありました。それはガスが出てきた時間の長さでした。もし火山から地球のすべての空気や水が出てきたとしたら、火山は何十億年もの長いあいだかかって少しずつ地球の空気と水をつくっていったはずなのです。なぜなら地球上で火山がある場所はごくかぎられていますし、火山の数もそれほど多くはありません。だから地球上のすべての空気と水が火山から出てくることは、あまりに大量すぎて短いあいだには不可能ふかのうだったのです。
 地球で見つかった約四十億年も前の岩を調べてみると、もともとあった岩が粉々に砕かくだ れて海の底に積み重なって、さらにそれが熱や圧力あつりょくで変化した変成岩という岩でした。四十億年以上も昔に海があったのです。それゆえ少しずつ火山からガスや水が出てきたのでは説明がつかなくなってしまうのです。
 火山が起源きげんだという説はこうして消え、結局、地球が生まれてから二、三億年以内というごくはじめのころから大量のガスと水蒸気すいじょうき
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とをもっていたにちがいないということになりました。しかしどのように空気が生まれたのかは、まだはっきりわかっているわけではありません。地球がつくられていったときに星くずがはげしく衝突しょうとつして、ガスや水蒸気すいじょうきをはきだしたり、地球がいったん溶けと ていた時代には、地球をつくった材料だった石(いんせき)のなかに少しずつふくまれていたガスや水蒸気すいじょうきがはきだされたものだと考えられています。
 このときにできたのが原始大気といわれるもので、そのころの地球は厚いあつ 雲におおわれていたのです。原始大気には窒素ちっそ水蒸気すいじょうきはふくまれていましたが、いまの空気とちがって酸素さんそはほとんどなく、また二酸化炭素にさんかたんそがいまの何千倍もふくまれていました。まだ生物が住める環境かんきょうではなかったのです。
 やがて地球は少しずつ冷えていき、原始大気のなかにある水蒸気すいじょうきははげしい雨になって地表に降りそそいふ    で地球の上にはじめて海をつくったのです。そして原始大気の中の二酸化炭素にさんかたんそは、海水中に大量に溶けと ていくことによって減りへ つづけました。海水に溶けと 二酸化炭素にさんかたんそは、やがて石灰岩せっかいがんなどの岩石のなかに取りこまれて海水や大気のなかからは減っへ ていきました。中国の内陸に不思議な形をした岩が林立している桂林けいりんというところがありますが、この岩も大昔につくられた石灰岩せっかいがんです。その後雨の侵食しんしょくを受けて溶けと ていって、いまの不思議な姿すがたになったのです。つまりここでは、岩のなかの二酸化炭素にさんかたんそがふたたび水のなかに少しずつ戻っもど てきていることになります。
 ところで、いま地球にある空気のうち、酸素さんそだけは地球のなかから出てきたわけではありません。地球の激動期げきどうきが終わって地球の表面の温度が下がってからは地球に生命が生まれ、やがて進化して植物が生まれました。これは三十数億年前のことです。その植物が太陽の光と二酸化炭素にさんかたんそから光合成で酸素さんそをつくったのです。

(島村英紀「地球がわかる50話」)
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a 読解マラソン集 10番 古代の世界では、 nu3
 古代の世界では、花をつけない裸子植物らししょくぶつ繁茂はんも(はんも)したといわれています。次に、花をつける被子植物ひししょくぶつ現れあらわ 、それが広がって、今、被子植物ひししょくぶつ中心の世界になってきています。花をつけることによって動物とのかかわり合いができ、その種類の植物の繁栄はんえいがあったというとらえ方がされています。
 なぜ、動物たちは花に集まるのでしょうか。いうまでもなく、花粉を運ぶためではありません。それは結果であって、目的ではないのです。
 動物たちが花に集まるのは、自分たちの生活のためです。昆虫こんちゅうは、自らのおなかを満たすために、みつ吸いす 、花粉を食べに花に向かいます。また幼虫ようちゅうを育てるため、みつや花粉を集めます。花に行ったら、たまたま体に花粉がついて、その体でまた別の花に飛び移りうつ ます。
 結果的に、動物たちは花粉を運んであげる代わりにみつと花粉を食べさせてもらい、花は花粉やみつ提供ていきょうする代わりに花粉を運んでもらっていることになりますが、両者にギブアンドテイク、駆け引きか ひ の気持ちはもちろんありません。
 AとBの植物があり、ある時、Aの中にみつをわずかでも作る植物ができたとします。昆虫こんちゅうみつのあるAのほうへ寄りよ 始めます。昆虫こんちゅうが来てくれれば、花粉を運んでもらえます。他の自分の仲間の花に花粉がつき、子孫も増えふ ます。一方、みつが作れないBには、昆虫こんちゅうはあまり集まりません。花粉が運ばれないと子孫はできません。やがてBはこの世からすたれ、みつの出るAの植物が生き残ることになります。
 このように、進化の過程かていで、動物とかかわるための有利な条件じょうけんを持つ植物が繁栄はんえいしてきました。
 では、動物たちがエサにする花のみつや花粉には、どのような栄養があるのでしょうか。
 花のみつ糖分とうぶんをたくさん含んふく でいます。糖分とうぶんの主なものはショとう
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ですが、果糖かとうブドウ糖   とう、少量のアミノ酸   さん、有機さんも入っています。いずれも昆虫こんちゅうにとってはエネルギーげんになります。
 昆虫こんちゅうたちの目当てはみつだけではありません。花粉も重要な食料なのです。花にとっては、花粉を食べられると、それだけ運んでもらえる花粉が少なくなるので不都合にも思えますが、食べられても大丈夫だいじょうぶなくらい、花は多くの花粉を作っています。
 花粉には、栄養がたくさん詰まっつ  ています。たんぱく質    しつ、炭水化物、脂肪しぼう、無機成分などの栄養素えいようそ富んと でいます。炭水化物としてはでんぷん、ショとうブドウ糖   とう果糖かとうなどを含んふく でいます。また、いろいろなアミノ酸   さん含まふく れています。
 前にお話ししましたように花粉はいわゆる生殖せいしょく細胞さいぼうで、めしべに付着してから花粉管を自力で伸ばしの  ていくのですから、それだけの栄養分を蓄えたくわ ているのもうなずけます。〇・一ミリメートルにも満たない大きさの花粉が、十センチメートルにも達する花粉管を伸ばすの  ことができるのですから、とてつもない生長力です。それを可能かのうにする養分を持っている花粉は、それ自体栄養の高い食糧しょくりょうということができます。
 カブトムシやコガネムシ、ハナムグリはよく花粉を食べます。ミツバチやマルハナバチは、花粉をみつでだんごじょうに固めて、あしにつけて巣に運びます。そして、幼虫ようちゅうに食べさせます。昆虫こんちゅうたちにとって、花粉は貴重きちょうなたんぱくげんであり、主食なのです。


武田たけだ幸作「アジサイはなぜ七色に変わるのか?」)
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a 読解マラソン集 11番 しかし、花が nu3
 しかし、花がいくら甘いあま みつをたくさん持っていても、昆虫こんちゅう寄っよ てきて吸っす てもらわない限りかぎ 、その魅力みりょくを伝えることはできません。まず花の存在そんざい認識にんしきしてもらう必要があるのです。
 それには、花の色や形、香りかお で、昆虫こんちゅう引き寄せるひ よ  必要があります。花にとって外見は、昆虫こんちゅうや鳥を引き寄せるひ よ  ための最も重要な要素ようそなのです。
 「あばたもエクボ」ということばは、動物にもあてはまり、彼らかれ の植物の好みもさまざまです。だからこそ、これだけ多種多様の植物が生存せいぞんしているといえるでしょう。赤い花が好きな動物もいれば、黄色い花が好きな動物もいます。大きな花が好きな動物もいれば、小さな花が好きな動物もいます。
 香りかお についても、人間がいい香りかお だと感じるものだけが好まれているわけではありません。かぐわしい香りかお 臭いくさ 香りかお 、その両方を好む動物がいるからこそ、多くの植物が生き残っていけるのです。
 ガの仲間は、夕方から夜間にかけて活動するので、夕方から咲くさ 花に集まります。夜咲くさ 花の場合、暗くて花の色はあまり役立たないので、その分、いい香りかお を発して昆虫こんちゅう呼ぶよ という特徴とくちょうがあります。
 香りかお は、気温が高いほど気化します。夜は昼に比べくら て気温が低くなるので、夕方から夜にかけて咲くさ 花は、昼間に咲くさ 花以上に強い香りかお をもつ必要があるのです。オオマツヨイグサ、ヨルガオ、カラスウリ、スイカズラなど、夜咲くさ 花たちは、いずれも甘くあま 強い香りかお を持っています。
 また、夜咲くさ 花の多くは、白や黄色っぽい色をしています。これは、うす明かりの中でも識別しきべつでき、夜目にもよく映るうつ からです。昼間ならよく目立つ青色や赤色は夕闇ゆうやみにまぎれると、ぼんやりとして色が浮き上がっう あ  てきません。実際じっさい、夜に咲くさ 青色や赤色の花がないのは、こうしたデメリットがあって、昆虫こんちゅうたちに注目されず、たと
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えそういう花を咲かせるさ   植物が現れあらわ たとしても、存命ぞんめいしえなかったのではないでしょうか。
 いい香りかお とは対照的に腐っくさ たような匂いにお 、いわゆる腐敗ふはいしゅう漂わすただよ  花もありますが、そういう匂いにお を好んでくる昆虫こんちゅうもいます。(中略ちゅうりゃく
 人間の感じるいい香りかお だけが、昆虫こんちゅう引き寄せるひ よ  とは限らかぎ ないのです。このことからも花の香りかお は、それぞれ昆虫こんちゅうに花の存在そんざいを知らせる信号であって、決してヒトのためではないことがわかります。
 花の中には、ほとんど香りかお のしないものもありますが、こうした種類は、香りかお 以外の色や形などの魅力みりょくで、動物たちを呼び寄せよ よ ています。鳥は鮮やかあざ  な赤を好むといいましたが、鳥は匂いにお には鈍感どんかんで、鳥によって花粉を運んでもらっている花は、ほとんど香りかお のないものが多いのです。
 動物が花を選ぶ基準きじゅんには、彼らかれ 嗜好しこうの他に、植物との相性あいしょうもあげられます。
 たとえば、ある花は、ある昆虫こんちゅうにしかうまくみつ吸っす てもらえないような作りをしています。その昆虫こんちゅうは、別の花へ行っても上手にみつ吸うす ことができませんし、他の昆虫こんちゅうがその花のみつ吸いす に来ても、みつのところまで口が届かとど ないようになっています。
 このように、ある特定のもの同士、非常ひじょう密接みっせつなつながりを持っているケースは、その昆虫こんちゅうにとっても、花にとっても、互いたが だけが頼りたよ になります。
 植物は、花粉を仲間の花に送り届けるおく とど  ため、動物は花みつや花粉を効率こうりつよく集めるため、植物と動物は、実に見事な関係を作り上げ、共存きょうぞん共栄してきたといえます。

武田たけだ幸作「アジサイはなぜ七色に変わるのか?」)
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a 読解マラソン集 12番 いちばん運動会らしいのは、 nu3
 いちばん運動会らしいのは、やはり、かけっこ。このごろは五十メートル競走、八十メートル競走と呼ばよ れる。六人が一組になって走る。一着から三着までが、それぞれの旗のところへ並ぶなら 。こういうのは五十年前にわれわれもやったのと同じだからなつかしさもひとしおである。
 来賓らいひん席はテントの中にある。かけっこのコースは反対側になるから、スタートからゴールまでが一望の中におさまる。ピストルがなると、小さな足が目もとまらぬ速さで前後する。目がチクチクする。どういう応援おうえんをしたらよいのかわからないから、手もちぶさたにながめているより手がない。
 そのうちに、おもしろいことに気がついて、急に力を入れて見るようになる。というのは、スタートとゴールで、順位が大きく変わるということだ。
 スタートで出おくれたこどもが、三、四十メートルのところから頭角をあらわし、六、七十メートルではトップに立ち、そのままゴールへ入る。そういう組がいくつもいくつも出てくる。はじめは偶然ぐうぜんかと思っていたが、どうもそうではなさそうである。たいていの組で大なり小なりそういう傾向けいこうがみとめられる。スタートからずっとトップで通すというのは例外である。
 途中とちゅう伸びの てきた子がよい成績せいせきをあげる。もし、スタート地点から十メートルくらいのところで優劣ゆうれつをきめれば、ゴールでトップになる子はおそらくおくれた方に入ってしまうに違いちが ない。早いところで、ゴールの順位を占ううらな ことがいかに危険きけんであるか、これらのかけっこは、これでもか、これでもかと見せていた。こどもたちにはかけっこの教訓を汲みく とることはできまいが、先生たるものは見逃すみのが 手はない。
 かたわらにおられる温厚おんこうな校長先生に
「かけっこだけではなく、勉強にも、これとたことがおこっているのではありませんか」と言ったら、校長先生も深くうなずかれた。
 こどもはどこで力を出すかわからない。スタートの近くで、ああだ、こうだと言ってみてもしかたがない。
 小学校のかけっこはせいぜい百メートル競走である。それでも出
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おくれた子が途中とちゅうからぐんぐん出てくる。ゴールへトップで入った子がいちばん早いのは、百メートルまでのことであるのも忘れわす てはならない。ゴールが二百メートルにのびれば、あるいは、ちがう子が出てきてトップに立つかもしらぬ。さらに四百メートル、千五百メートルならまた別のこどもが出てくる。
 人生は七十年余りあま 走りつづける超大ちょうだいマラソンである。学校教育はそのはじめのうちの二十年くらいにしかかかわらない。そこで、この生徒は優秀ゆうしゅう、とか、劣等れっとうだとかきめつけてしまうのは、百メートル競走なのに、スタートから三十メートルくらいのところの順位でものを言っていることになる。
 その運動会のかけっこを見ていても、本当のレースは半分くらいを走ったところから始まるのがわかる。学校の先生は、この点について、用心の上にも用心をしたい。めいめいのペースというものがある。百メートルではビリでも五千メートルならトップに立つということはある。学校ではいっこうにパッとしなかったのが、世の中へ出て、二十年、三十年すると、目ざましい快走かいそうを見せているという例はいくらでもある。
 目先はいけない。重ねて言うが、教育は長い目を要する。


(外山滋比古しげひこ「空気の教育」)
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