a 読解マラソン集 1番 ご近所へ引っ越して nu3
 ご近所へ引っ越しひ こ てこられた奥さんおく  がご挨拶あいさつにお見えになった。
「……この辺の様子がわかりませんので、なにかとお願いいたします。家族は五人なんですの。中学生のむすめと小学校、幼稚園ようちえんの男の子がおりますので、おやかましいことがあるかもしれませんが……ゴミはお宅 たくの横へ出させていただくうえ、ご迷惑めいわくでしょうが、どうぞよろしく……」
 三十五、六だろうか。明るい笑顔で、しっとりした優しいやさ  言葉が、なんともさわやかであった。
 その日一日、わたしは晴れ晴れしていた。若いわか 奥さんおく  から、こんな行き届いい とど たご挨拶あいさつをきいたのは久しぶりひさ   だった。広い東京で、なにかのごえんがあって、お互い たが 近くに住んでいるのに、チラとがあったりしても、間が悪そうに顔をそむけて、ほとんどものを言わない人が多く、下町育ちのわたしは最近なんとなく侘しいわび  思いをしていたからである。挨拶あいさつ潤滑油じゅんかつゆである。(お早よう)(今晩こんばんは)とひと事をかけあうことが、お互い たが の気持ちのきしみをとかしてくれる。(お暑いですね)(お寒うございます)など、ゆきずりのなんということもない言葉が世知辛せちがらい毎日の暮らしく  の中では、やさしいいたわりのように聞こえたりする。
おれは口べただから……」
 古くからのわたしの知り合いで、ひどくもの言わずの人がいる。働きもので正直で、親切だという人柄ひとがらは、長いつきあいでよく知ってはいるのだが、そのムッツリした無愛想さに、つい、こちらのほうが気をつかう。機械相手の職業しょくぎょうだから、なんとかやっているけれど、初対面の人たちからは、よく誤解ごかいされていた。
 ある日、めずらしく重い口を開いて、五さいになったむすめをどういうふうに育てたらいいだろうか、と相談にきた。四十近くになってやっとさずかったその女の子を、目に入れても痛くいた ないほど可愛かわいがっていた。
「そうね……とにかく他人さまにご挨拶あいさつが出来るように、今からしつけることね。小さいときからそういうふうにしこまないと、大人
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になって人前でものが言えなくなるのよ、照れくさくてね。心の中で何を思っていても口に出さなければ相手に伝わらないものね。子供こどもは親のうしろ姿   すがたを見て育つ、というでしょ。挨拶あいさつも出来ないむすめは人にすかれないから、気をつけてあげないとね。」
 かれはおどろいたようにわたしからをそらし、顔を赤らめて考えこんでいたが、何かを納得なっとくしたように帰って行った。
 一カ月ほどして、その奥さんおく  が見えた。
「……おかしいんですよ、うちの人ったら、このごろ朝おきると、わたしむすめにお早ようって言うんですよ。このあいだのばんなんか、このおでん、うまいな……なんて、こっちはなんだか、調子が狂っくる ちゃって……でも嬉しくうれ  なっちゃいました。」
 おとなしい、その奥さんおく  はコロコロと喜んでいた。
 (大事なむすめが人に好かれなかったら……どうしよう)
 あれからこの人は、一生懸命いっしょうけんめい、努力しているらしい。


沢村さわむら貞子さだこ「ご挨拶あいさつのすすめ」)
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a 読解マラソン集 2番 立て板に水のように、 nu3
 立て板に水のように、よどみなく挨拶あいさつをする人がいる。言葉もきれいだし、中身もソツがない。けれど――その中に心がこめられていなければ、相手はしらけてしまう。頭の良さをひけらかした、口先だけの世渡りよわた はこちらのむねを打たないし、潤滑油じゅんかつゆにはならない。礼儀れいぎ正しく、キチンと型にはまりすぎた挨拶あいさつも、ときとしていや味になることがある。
 毎日、うちへ手伝いに来てくれるむすめさんとわたしは、いつでも、どこでも、何をしていても声をかけあうことにしている。朝、彼女かのじょが仕事着に着替えきが ているとき、わたしがその前の廊下ろうかを通る。その足音でこのむすめさんは、ふすまをちょっとあけて、
「お早ようございます」
 と首だけ出してニッコリする。これがお互いに たが  (さあ、今日もこれから働きましょう)という合図になる。座っすわ お辞儀 じぎをすることもない。わたしたち庶民しょみん暮らしく  は、とにかく忙しいいそが  
 少々のお行儀ぎょうぎの悪さは堪忍かんにんしてもらうことにしている。
 わたしが、つきあう若いわか 人たちは、それぞれに自分流の挨拶あいさつが、ピタリと身についていて、気持ちがいい。けれど、――年寄りとしよ よくとでも言うのだろうか。わたしはもう一つだけ、この人たちに望んでいることがある。昨日の挨拶あいさつとでも言ったらいいのかしら。つまり、一つのことを終わらせるための挨拶あいさつである。
 わたし若いわか 人たちの相談にのり、いっしょに悩みなや 、あれこれ助言することが多い。ときにはその家族へ到来とうらいものをわけたり、手料理のうでをふるって、もてなすこともある。その場ではもちろん、かれ彼女かのじょもとても素直すなおに喜んでくれる。
 だが……チラッと、心にすき間風が吹くふ のは、その後、この人たちに逢っあ たときである。
 顔をつき合わせていても、まるで忘れわす たもののように何にも言わない人が多い。
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 たぶん、昨日のことは昨日のこととして、心の中から消えているのだろう。
「昨日のブドウ、おいしかった?」
 などと、いくら親しい間柄あいだがらでも、そんなおん着せがましいことなど言えるわけはない。
「このあいだ、ご心配をかけたこと、おかげさまであれから先方とうまく話がつきました」
「昨日いただいたお菓子 かし、母の大好物だったので大よろこびしていました。ご馳走 ちそうさまでした」
 とか、たったそれだけの言葉でお互い たが の心がふれあい、それが親しさを増しま 、人間関係を深めることになる、と、わたしは思う。
 夫婦ふうふ、親子の間でも、こうした日常にちじょう挨拶あいさつはあったほうがいいし、それが暮らしく  の中のけじめにもなる、と思うのだけれど。


沢村さわむら貞子さだこ「ご挨拶あいさつのすすめ」)
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a 読解マラソン集 3番 ぼくは、とりのこされたように nu3
 ぼくは、とりのこされたように一人、おく座敷ざしきにすわっていた。おばあちゃんがおかんに入り、ふとんがかたづけられてしまっても、その部屋にはなんとなく、まだおばあちゃんの気配が残っているようで、ぼくは、せつなく、そしてちょっぴりこわいような気分だった。
 カバンの中から、持ってきたマンガをだして読んでいても、あまり身が入らない。耳をすますと、表座敷おもてざしきのかすかなざわめきがきこえて、いよいよぼくだけが一人ぼっちだという気になってくる。
 どれほどしたころだったろう。座敷ざしきの前の長い廊下ろうかを、ヒタヒタと歩いてくる小さな足音がきこえた。
 昌一しょういちがきたのだろうと思って、ぼくはいそいで、座敷ざしきのふすまをひきあけた。
 だが、そこにはだれもいないのだ。うす暗い電球が三つ天井てんじょうからぶらさがる、長い廊下ろうかはシンとして、たまらなくさびしかった。
「なんだ、そら耳かあ。」
 ぼくは、わざと大きな声でいって、乱暴らんぼうにふすまをしめた。
 そして、座敷ざしきの中をふりむいた瞬間しゅんかん、アッと息をのんだきり、うごけなくなってしまった。
 いつのまに入りこんだのか、小さな男の子が一人、ちょこんと仏壇ぶつだんの前にすわっていた。
 ぼくは、頭の毛が逆立つさかだ ような気がして、背中せなかがゾクゾクと寒くなった。それでも、頭の中では必死に考えていた。
裏庭うらにわから入ってきたのかな……。」
 裏庭うらにわに向いた障子しょうじ戸はあいかわらず半分開いたままだった。ちょうどそのとき、ものすごいような春の風が庭にあふれたかと思うと、さくらの花びらが暗いやみの中で、グルグルと渦まくうず  ように踊るおど のが見えた。
 小さな男の子は、あたりまえのような顔をして、座敷ざしきの中にすましてすわっている。たぶん、まだ小学校にもあがっていない、ぼくより五つ、六つも年下の子のようだった。
 いがぐり頭の下の大きな目で、じっとぼくを見あげてだまっている。白い半そでの開襟かいきんシャツに、紺色こんいろのごわごわした半ズボンをは
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いて、正座せいざしたひざの上に、両方の手をきちんとそろえているのだ。
 自分のほうがずっと年上だと気づいて、ぼくの気持ちはいくらかおちついてきた。きっと、だれかおとなについてお通夜にやってきた子供こどもが、たいくつになって、歩きまわっているうちに、裏庭うらにわから座敷ざしきにあがりこんでしまったのだろう。迷子まいごになって、こまっているのかもしれない。
坊やぼう 。お母さんは?」
 ぼくはやっと、そうたずねた。
 そのとたん、その子がにやりとわらった。おちつきはらって、人をばかにしたような笑いだった。
「おい。」
 その子がいった。
「オレが、ついててやる。だから、心配はいらんで。」
「え?」
 ぼくは、ぽかんとしてききかえした。こいつは、なにをいってるんだろう。おばあちゃんをなくしたぼくをなぐさめるつもりなんだろうか。びっくりしているぼくに向かって、その子はしゃべりつづけた。
「おまえな、もうじき、ここに住むようになるぞ。でも、心配すな。オレがついとるから。」
 みょうにおとなびた口ぶりでそれだけいうと、その子は、もう一度大きく口をゆがめてわらった。
「きょうは、それだけいいにきたんや。」
 そういって、ツイと立ちあがったその子が、ふすまをあけて廊下ろうかに出ていくのを、ぼくはあっけにとられてながめていた。ふすまは、ぼくの目の前でぴたりととじられ、また廊下ろうかを、ヒタヒタと足音が遠ざかっていく。


富安とみやす陽子「ぼっこ」)
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a 読解マラソン集 4番 はじかれたように、 nu3
 はじかれたように、ぼくはふすまに手をかけた。一気にひきあけると、廊下ろうかにとびだした。
 でも、やっぱりそこには、だれもいないのだ。それなのに、だれもいない廊下ろうかを、小さな足音だけが、ゆっくりと遠ざかっていく。
 ぼくの体の中に、大きな恐怖きょうふがふくれあがってきた。その恐怖きょうふが、悲鳴になって口からあふれでそうになったとき、表座敷おもてざしきに通じる廊下ろうかの角を曲がって、ひょいと、いとこの昌一しょういち姿すがたをあらわした。
「よお。しげちゃん。」
 もし、昌一しょういちのそういう声をきかなかったら、まちがいなくぼくは叫んさけ でいただろう。だって、中学生の昌一しょういちの頭は坊主ぼうず刈りが で、おまけにその日昌一しょういちは、中学校の制服せいふくの白い開襟かいきんシャツと黒い学生ズボンをはいていたものだから、ぼくにはまるで、さっきの男の子が急に大きくなって、またそこにあらわれたような気がしたのだ。
「よお。」
 立ちすくむぼくに向かってもう一度声をかけながら、昌一しょういちが近づいてきた。いつも無愛想な顔にせいいっぱい愛想のいい、照れたような笑いを浮かべう  ている。
しょう……ちゃん。」
 ぼくは、かすれたような声で、いとこの名を呼んよ だ。
「い……今、だれかと、すれちがわなかった? 小さい……坊主ぼうず頭の男の子と……。」
 昌一しょういちは、ぎょっとしたようにうしろをふりむき、それから、きょろきょろとあたりをみまわし、ちょっとかたをすくめてみせた。
「いいや。だれとも……。なんや? それ。」
 ぼくの全身に、どっと冷たいあせがふきだした。あの子は、この暗い廊下ろうかから、あとかたもなく消えうせてしまったのだ。
 それが、ぼくがぼっこにであった最初だった。
 ぼくは今でも、あの夜のことを思いだす。裏庭うらにわやみの中で降るふ ように花を散らしていたさくらを。長い廊下ろうか天井てんじょうで、頼りたよ なくゆれて
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いた電灯を。ぼくと昌一しょういちの間を埋めう ていた、あのなつかしいおばあちゃんの家のにおいを……。
 でも、そのときにはぼくはまだ、自分が本当にこの家で暮らすく  ことになるなんて思ってもいなかった。いつかまた、ぼっことであう日がくるとは考えもしなかった。
 それなのに、あのぼんやりとした春の夜、ぼくのまわりではもう、新しいなにかがうごきだそうとしていたのだ。


富安とみやす陽子「ぼっこ」)
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