若い頃にはよく注意されたものである。「ちゃんと現実を見なさい、現実を」と。その現実なるものがよくわからなかったから、現実とはどういうものか、いつも頭の隅で考えていた。大人になれば、あれこれ現実というものに触れるはずだ。そうなれば、少しは「現実がわかる」ようになるだろう、と。
ところがいつまでたっても、その「現実」なるものがわからない。とうとう自分で勝手に定義することになった。現実とは「その人の行動に影響を与えるもの」である。それ以外にない。そう思ったら、長年の重荷が下りてしまった。
だから現実は人によって違う。唯一客観的現実なんてものは、皮肉なことに、典型的な抽象である。だって、だれもそれを知らないからである。私が演壇の上で講演をしているとする。聴衆の目に映る私の姿は、すべて異なっている。なぜなら私を見る角度は、全員が異なっているからである。それならテレビカメラは、どの角度から私を捉えたら、「客観的」映像となるのか。二人の人が同一の視点から、同じものを見るなんてことは、それこそ「客観的に不可能」なのである。
(中略)
一人一人の世界が感覚的に異なるからこそ、個人や個性の意味が生じる。
それでなきゃあ、個人なんかいらない。それを「些細な違い」と暗黙に決め付けるから、若者が人生の意味を見つけられないのである。これといってさしたる才能もない自分が生きる意味なんて、どこにあるというのか。世界中を見渡せば、自分の人生なんて六十億分の一に過ぎない。過去に生きた人まで含めたら、いったいどこまで些細になるだろうか。
そう思うから、今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚とは、個性が「自分のなかにある」という思い込みである。そもそも違いとは他人が感覚で捉えるもので、自分のなかにあ
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