a 読解マラソン集 1番 若い頃にはよく nnzi3
 若いころにはよく注意されたものである。「ちゃんと現実を見なさい、現実を」と。その現実なるものがよくわからなかったから、現実とはどういうものか、いつも頭のすみで考えていた。大人になれば、あれこれ現実というものに触れるふ  はずだ。そうなれば、少しは「現実がわかる」ようになるだろう、と。
 ところがいつまでたっても、その「現実」なるものがわからない。とうとう自分で勝手に定義することになった。現実とは「その人の行動に影響えいきょう与えるあた  もの」である。それ以外にない。そう思ったら、長年の重荷が下りてしまった。
 だから現実は人によって違うちが 唯一ゆいいつ客観的現実なんてものは、皮肉なことに、典型的な抽象ちゅうしょうである。だって、だれもそれを知らないからである。私が演壇えんだんの上で講演をしているとする。聴衆ちょうしゅうの目に映る私の姿は、すべて異なっている。なぜなら私を見る角度は、全員が異なっているからである。それならテレビカメラは、どの角度から私を捉えとら たら、「客観的」映像となるのか。二人の人が同一の視点から、同じものを見るなんてことは、それこそ「客観的に不可能」なのである。
(中略)
 一人一人の世界が感覚的に異なるからこそ、個人や個性の意味が生じる。
 それでなきゃあ、個人なんかいらない。それを「些細ささい違いちが 」と暗黙あんもくに決め付けるから、若者が人生の意味を見つけられないのである。これといってさしたる才能もない自分が生きる意味なんて、どこにあるというのか。世界中を見渡せみわた ば、自分の人生なんて六十億分の一に過ぎない。過去に生きた人まで含めふく たら、いったいどこまで些細ささいになるだろうか。
 そう思うから、今度は個性、個性と逆にいう。それを強調するほうの錯覚さっかくとは、個性が「自分のなかにある」という思い込みおも こ である。そもそも違いちが とは他人が感覚で捉えるとら  もので、自分のなかにあ
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るものではない。「お前は変なヤツだなあ」といわれて、「エッ、どこが」と怪訝けげんな顔をしているのが個性であり、「私の個性はこれです」などと主張するものではない。近頃ちかごろは入学や入社のときに、そんなことを書かせることもあるらしいが、話がそれではひっくり返っている。そんな会社や学校はどうせロクなところではなかろう。相手の個性を発見する目が貴重なのであって、個性自体が貴重なのではない。状況じょうきょうによって、社会が必要とする個性は違っちが てくるからである。
 そもそも「自分で意識している個性」なんてものがあったら、ぎこちない人生になるであろう。おれの個性はこうだから、こうしなくっちゃ。そんなことを思いかねない。冗談じょうだんじゃない、素直にしていて、そこにおのずから人と違うちが ところがある、それを個性というのである。
 素直に自分の気持ちに従わず、「こうしなくては」と思うのが世間では普通ふつうで、それは社会的役割というものがあるからである。天皇陛下はこうしなくてはならないということがたくさんあるはずで、それは社会的役割である。それを勝手に変えられたら周囲が困る。だから「こうしなくては」と本人も思うので、それはホンネとは違っちが て当然である。
 いまの大人は、社会的役割を個性つまり自分と混同していないか。社長は個性でも本人でもなく、社会的役割である。定年になればそれがわかるであろうが、現代の問題は、たとえ年配者でも「定年になるまで、それがわからない」ところにあると私は思っている。私は会社のソトの人間だから、社長も平も区別がつかない。そんなものは、私にとっては抽象ちゅうしょうに過ぎない。それを「現実」だと思っているのは、そう思っているだけのことである。

(養老孟司たけし『ぼちぼち結論』より)
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a 読解マラソン集 2番 近代合理主義の精神は nnzi3
 近代合理主義の精神は、思考の過程、あるいはものを考える過程で、さまざまな夾雑きょうざつ物、余計な要素を取り除き、いくつかの単純な原理にしたがって論理を進めようとする思考法をとる。その過程で仕掛けしか られる判断の基準も、できうるかぎり単純であることが望まれる。そして、その考えられる単純な原理こそが、ふたつのものからそのいずれかを選択せんたくするという判断基準であった。
 すなわち、真と、善と悪、美としゅう、正と否など二者択一にしゃたくいつの論理こそ、近代合理主義がむねとする判断の方法にほかならない。真なる前提から始まって、真なる判断を繰り返しく かえ ていけば、真理に到達とうたつすると固く信じられたのである。デカルトが、数学的方法に思考方法のあるべき姿を認めたのも、伝統的な数学がこの真偽しんぎ二者択一にしゃたくいつの方法に絶対的に依っよ ていたからだ。
(中略)
 しかし、真偽しんぎの弁別を繰り返しく かえ ていって世界全体の判断に達するという演繹えんえき的な論理は、世界全体を判断の傘下さんかに収めようとするのだから、当然のことに、判断の普遍ふへん妥当だとう性を要求することになる。つまり、ある部分では当てはまるが、べつの部分になると当てはまらない理論は、斉一せいいつ的な世界像を求める近代の科学的合理主義のなかでは市民権を得ることはできないのである。たとえば、科学実践じっせんの現場でも、理論にそぐわない実験結果や現象が現れたときに、それらを無視し捨象しゃしょうして理論の斉一せいいつ性を守るということが日常茶飯におこなわれるのである。しかし、そうした例外に属する現象が無視しえなくなれば、それを取り込むと こ ことのできない理論そのものを変える必要がでてくるわけで、こうして理論の転換てんかんがおこなわれるようになる。これが、「科学革命」あるいは「パラダイム・シフト」と呼ばれる現象のひとつである。
 こうした現象は、しかし、世界に対する理論の普遍ふへん妥当だとう性という信念ないし確信にも似た意識に由来するものだということがわかる。あらゆる理論は、数学の原理がそうであるように、
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いついかなるところでも当てはまらなくてはならないと固く信じられてきたのである。そうしたなかで、理論に妥当だとうしない例外的な現象は、偶然ぐうぜん的なもの、あるいは蓋然的がいぜんてきなものとして貶めおとし られてきたのである。そして、不確定性原理の出現に見られるように、現象をもれなく網羅もうらし説明する理論の普遍ふへん妥当だとう性そのものが揺らぎゆ  出してくると、方法としても、もはや確率統計的な方法をとらざるをえなくなってきたのである。つまり、現象の世界に対し人間の側がなしえるのは、一定の法則を世界に押しつけるお    ことではなく、現象のあるがままの姿を記述することと考えられるようになったわけだ。
 理論や法則の普遍ふへん妥当だとう性という近代科学の絶対主義的傾向けいこうは、相対性理論や量子力学など二十世紀の初頭に相次いで現れる新たな潮流によって、おおいに揺さぶりゆ   をかけられた。これらは、学問や理論の世界のなかだけで起こったことのように思われているが、そうではない。われわれの日常生活にも、少なからず影響えいきょう与えあた ているのだ。影響えいきょう与えあた ているというよりは、むしろ、同じ大きな流れが、理論的世界にも、また日常生活にも現れているというべきなのだろう。
 とにかく、「すべての……は……である」といった論理学の全しょう判断のようなものに見られる、普遍ふへん性への意識をもった思考法は、個の意識が昂揚こうようし、多様性が横溢おういつするようになった社会的意識や日常生活のレベルにおいては、もはや妥当だとう性を失いつつあると考えるべきだろう。

(山本雅男『ヨーロッパ「近代」の終焉しゅうえん』より)
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a 読解マラソン集 3番 時が経過する nnzi3
 時が経過する、時間が早い、などと語るとき、つねに「時間」が主語の位置に立つ。しかしそうして時間を主題化することは、時間のあり方そのものを変えてしまうのではないか。言語による主題化的反省が哲学てつがくの方法であるとすると、時間の問題は永遠にその手から逃れのが さる仕組みになっているのではないか。というのも、時間は言挙ことあげされない仕方でしか経験されない、という面倒めんどうな性格をもつように思われるからである。「時間とは何かをだれも私に尋ねたず ないとき、私は知っている」というアウグスチヌス『告白』の有名な逆説も、そのことを物語っているのではないだろうか。
 時間を時間そのものにとどめおくためには、直接に時間を問うという仕方ではなく、時間がそれに即しそく て現象するところの何か、それ自体は時間ではないが、時間と不可分な何ものか、を取り上げるという迂回うかい戦術しかないように思われる。その種のキーワードとしてすぐに思い浮かぶう  のは、「記憶きおく」であり「風景」である。たとえば記憶きおくは、アウグスチヌスが論じたように、時についての記憶きおくであり、記憶きおく自体が時のうちにある。
 では、風景はどうか。それは、時間よりも空間を表しているのではないか。たしかにそうだが、反面、風景の風景たるゆえんは、それが時の経過と一体であるという点にある。そもそも時の経過は、何をもって測られるのか。風景との関係によってである。
 額に収まった絵や写真が典型だが、風景は空間的・視覚的構造をもつ。それは時間の動きを止め、瞬間しゅんかんにおいて写し取られた世界の見え姿である。時間と空間を対立させる近代的なものの見方に立てば、風景は空間的に表現されるものである。しかし、知性による分析ぶんせき的な見方を離れはな 漠然とばくぜん 眺めなが た場合には――じっさい、そういうふうに眺めなが てこそ風景なのだが、案外それが難しいのかもしれない――、風景はもはや瞬間しゅんかん的な像ではなくなり、額縁がくぶちの外にはみ出しながら、生き生きとした動きを取り戻すと もど だろう。その動きは、物語と一つになった時間的な動きではないだろうか。
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 私が哲学てつがく的風景論の構想を得たきっかけの一つは、風景というものが実は物語なのではないか、という着想であった。人は日常的な所作の中で、いろんな物事にかかわりあって生きているが、それをだれも風景であるとは言わない。しかしそれは、すでに身体のレベルで生きられている風景だと考えるべきではないか。それは、一人一人のもとでは動きのただ中にあって、まだ形をもった映像にはなっていない。しかしそうした個人の体験が、人々によって語られ、集団の共有する物語へと移行した時点で、風景と呼ばれるにふさわしい形をそなえるようになる。そういう「物語としての風景」に、私は「原風景」という言葉を当てはめることにした。原風景を中心にすえて考えれば、風景が物語である以上、それは空間と時間が一体化した構造である。かりに物語は時間的、風景は空間的だとしても、両者のアマルガムである原風景は、同時に時間的にして空間的なのである。

木岡伸夫の文章による)
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a 読解マラソン集 4番 言葉の裏返しを考える上で nnzi3
 言葉の裏返しを考える上でいつも思い出すのは五味太郎たろうの『あそぼうよ』というごく幼い子向きの絵本である。
 登場するのはことりとおじさん風のきりんだけ。ことりが「あそぼうよ」というと、きりんが「あそばない」と答える。毎ページ、このくりかえし。しかし、絵をみるとこのきりんおじさんはなかなかふざけんぼで、首をくるくるまわしたり、かくれんぼしたり、あげくのはてはことりを背中に乗せて泳いだり、サービス満点の遊び相手なのだ。しかし口にする言葉は徹頭徹尾てっとうてつび「あそばない」。最後にことりが「あした また あそぼうよ」とうれしそうに飛び去るときも、きりんおじさんはとっぽい顔で「あした また あそばない」とこたえる。
 この絵本、まじめな保育園幼稚園ようちえんの先生方には評判はよろしくなかったらしい。どこかの園長先生から「せめて最後だけはあそんでほしかった」という抗議こうぎの声が寄せられたという話を聞いて笑ってしまった。が、このやり取りの面白さを大人が理解して楽しく読めば、子どもたちはてきめんに喜ぶ。子どもたちはくり返しをすぐ覚え、きりんおじさんになって、わたしが「あそぼうよ」と呼びかけると、みんなで声をそろえて「あそばなーい」と叫びさけ 、くすくす笑うのである。意味の上で反対のことを言っても相手と通じ合うというコミュニケーション体験は、この相手ならばこそ、という濃厚のうこうな関係を互いにたが  意識させる。だから、くすぐったい。子どもたちはきりんおじさんになって、言葉の文字通りの意味を超えこ て相手に触れるふ  のである。そう、ここでは言葉は相手に触れるふ  道具になっている。そのためには文字通りの意味が過激であるほうが触れるふ  という感覚を強くする。言われた方は、はっと胸を突かつ れ、瞬間しゅんかん、立ち止って、相手の意図を知って笑う。こんな触れ合いふ あ が成り立つためにはなんといってもお互い たが のゆるぎない信頼しんらい関係が前提になるではないか。
「ウソ」「マジ」もこれと同じだと思う。不信の念を過激に表せば表すほど、言葉の意味を超えこ た次元での互いたが 信頼しんらい関係は強固に確認される。言葉によるスキンシップといってもいいかもしれない。
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電車のなかなどで数人の若い人の会話を聞いていると、「ウソッ」「マジッ」がやたらと耳を打つ。どうやら会話の内容には重みはなさそうで、場をもたせるのが大切らしい。ごにょごにょと話があると、間髪かんぱつをいれず「ウソッ」、「マジイー」と来る。謡曲ようきょくつづみのようにそれが「カーン」と響きひび 、会話を支えている。「ウソ」「マジ」は心のきずなを確かめ合い、安心して次に進む会話の青信号のようだ。「ほんと」よりもずっと相手の心のど真ん中を突いつ て親しさを盛り上げている。若い人たちの間でまたたく間に広がっていったのもうなずける。しかし、あいづちの言葉などは使う頻度ひんどが高いから、使っているうちに洗いざらしになって、当然、色あせてくる。ショウ迫力はくりょくも失せてくる。中高生たちの会話に耳を傾けかたむ ていると、「ウソ」も「マジ」も、もうそんな鮮度せんどは失って、ごく自然に、普通ふつうに使われている。昨日もじゅくに来ているおとなしい地味なタイプの中学生の女の子がふたり、仲良くなって静かに会話をかわしていたが、「ウソ」や「マジ」がささやき声で行き交っていた。たった二十数年でこんなふうに言葉の命の変化を見極められるなんて面白い。万が一「マジ」が生き残ったら、五十年後、ふたりの老人が日向ぼっこをしながら、互いにたが  「マジッすか」と静かに言い交わし、語り合う場面があるかもしれない。
 おやおや、どこかから高校生たちの声がする。「ありえな〜い!」

(長谷川摂子の文章による)
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