a 読解マラソン集 9番 ウェーバーは nnze3
 ウェーバーは、十九世紀ロシアの文豪ぶんごう、トルストイに非常に注目していて、合理化の問題を考えるときにトルストイにたびたび言及げんきゅうしています。
 そのトルストイの『人生論』の中にこんなエピソードが紹介しょうかいされています。
 あるところに水車小屋で粉ひきをしている男がいました。かれは自然の恵みめぐ の中で朝から晩まで一生懸命いっしょうけんめい働いていたのですが、あるとき水車のメカニズムに興味を持ちます。そして、水車が引きこまれてきた川の水によって動いていると理解すると、今度は川の研究に熱中してしまい、気がついてみれば、本来の仕事である粉をひくことを忘れてしまっていた――というものです。
 トルストイのテーゼは徹底的てっていてきに「反科学」です。科学はわれわれが何をなすべきかということについて何も教えてくれないし、教えてくれないばかりか、人間の行為こういがもともと持っていた大切な意味をどんどん奪っうば ていくと考えました。
 漱石そうせき彼らかれ とまったく同じことを言っています。
 「野蛮やばん時代で人のお世話には全くならず、自分で身に纏うまと ものを捜し出しさが だ 、自分で井戸いど掘っほ て水を飲み、また自分で木の実か何かを拾って食って、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢がまんをして居れば、……生活上の知識を一切自分に備えたる点にて完全な人間と云わい なければなりますまい」(講演『道楽と職業』)
 だからと言って、漱石そうせきもウェーバーも、進んでいく時代の流れには抗えあらが ないと考えていました。ウェーバーの言葉を借りれば、「認識の木の実を食べた者は、もう後には戻れもど ない」のです。
 このような中で、私たちはどのような知性のあり方を信じ、あるいは選びとっていったらいいのでしょうか。
 人類学者のレヴィ=ストロースが言う「ブリコラージュ」的な知の可能性を探ってみることです。ブリコラージュとは「器用仕事」とも訳されますが、目前にあるありあわせのもので、必要な何かを生み出す作業のことです。私はそれを拡大解釈かいしゃくして、中世で言うクラフト的な熟練、あるいは身体感覚を通した知のあり方にまで
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押しお 広げてはどうかと考えています。
 科学万能の流れの中で、迷信や宗教などは駆逐くちくされていきましたが、それらは完全に消えたわけではなく、ニーチェ的に言うと「背面世界」となってこの世の片隅かたすみにちりばめられて残りました。その中に「土発的」な知(自然の移ろいの中に生きて、そこから発するような知)の伝統がささやかに息づいていました。
 それらは一時絶滅ぜつめつ寸前までいったのですが、いままた少しずつ見直されているような気がしています。
 じつは、このことを考えるたびに、私は自分の母のことを思い出すのです。母は、言わば前近代的な宗教の伝統や習慣を守って生きていた人でした。四季の行事、歳時記さいじき的なこと、人の生き死に、成長、衰退すいたいへの考え方など、そのありようはまるで旧暦きゅうれきの世界のようでしたが、驚くおどろ べきことに、それは循環じゅんかん繰り返しく かえ ている自然の摂理せつりとぴったり一致いっちしていました。ですから、人間が本当に知るべきことは何なのかを考えるとき、そこにもヒントがあるような気がしています。

 (姜尚中かんさんじゅん悩むなや 力』による)
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a 読解マラソン集 10番 「何もない空間」を nnze3
 「何もない空間」を、意味に満たされた、懐かしいなつ   場所へと転換てんかんするためには、何が求められるか。それは角度を変えれば、みずからが土地の主役となって、風景をとりもどす戦いでもある。いくつかの必要条件がある。たとえば、記憶きおく掘り起こしほ お  、物語の復権、あらたなる名づけ、といったものだ。飛躍ひやくを承知でいっておけば、世界遺産にたいする、ひとつの抵抗ていこうの試みとして、そこに地域遺産が浮上ふじょうしてくるはずである。
 ここで、わたしはいささか唐突とうとつに、宮沢みやざわ賢治けんじという作家を思い出す。賢治けんじが創ってみせたイーハトヴ世界とは何であったのか。イーハトヴとはあるいは、「何もない空間」としての、より生々しくは、冷害と飢えう にあえぐ、貧しく暗い、「大根をかじる少年」や「むすめたちの身売り」に彩らいろど れた岩手県を、まぼろしの理想郷へと、劇的にひっくりかえすための魔法まほう呪文じゅもんであったのかもしれない。
 賢治けんじはたぶん、空間の場所化のために、きわめて自覚的なイーハトヴ戦略を選び取っている。第一には、記憶きおく掘り起こしほ お  であり、老人たちから聞き書きをおこない、昔からの暮らしと生業、伝承などを取材している。第二には、土地の名づけをおこなって、たとえばイギリス海岸、なめとこ山など、風景にあらたな意味づけをあたえる試みを重ねている。そして、第三には、物語の創造であり、数も知れぬ、土地につながる物語を草稿そうこうとしてではあれ残した。イーハトヴという名付けと、そこに生まれた物語の群れを思えばいい。賢治けんじがおこなった山野の彷徨ほうこうは、「詩的な場所」を探すための旅であったのかもしれない。
 賢治けんじの人生は、あきらかに挫折ざせつと失敗の連続であり、それは結核けっかくによって早くに閉ざされた。いま、賢治けんじの童話とイーハトヴ惹かひ れて、毎年、数百万人の観光客が岩手を訪れる。すくなくとも、死後の賢治けんじはその土地に、莫大ばくだいな経済効果をもたらし、多くの人びとが恩恵おんけいをこうむっている。「何もない空間」としての岩手を、東北を、まるごとイーハトヴという名の「詩的な場所」に仕立て直す、賢治けんじ壮大そうだいな実験は、成功したのかもしれない、そんな感慨かんがいに打た
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れるのである。
 グローバル化の時代である。アメリカという「帝国ていこく」を基準とした、均質化の暴力が、世界をかぎりなく金太郎きんたろうアメ化してゆく。それはある側面では、避けさ がたい流れであるのかもしれない、しかし、その負の側面が大きくせり出しつつある。グローバル化なるものが、さまざまな民族・国家・地域がもっている個性や、内発的な力を削ぎそ 落とす方向へと働くことは、否定すべくもない現実である。だからこそ、ほんとうの幸福とは何か、という時代錯誤さくごな問いにたちかえる必要がある。逆説的に、自分(国家・民族・地域)とは何か、という問いが浮上ふじょうしてくるのも避けさ がたい。グローバル化の時代は、その裏返しのように、地域の時代のはじまりをもたらすにちがいない。そうして、地域のアイデンティティの模索もさくがはじまる。土地の記憶きおく掘り起こしほ お  が必要となる。個性的な顔をもった地域を、いかにデザインするか、演出するか、それがある種の普遍ふへん性を帯びた問いへと成り上がるのである。
 (中略)
 それぞれの地域の歴史・文化・風土の読み直しをもとに、地域的なアイデンティティの模索もさくをおこなうなかに、しだいに「地域遺産」が姿を現わしてくるだろう。それは神のごとき絶対の他者が、外から認定するものではない。地域に生きる人々が、みずからの幸福のために求め、みずからの意志で選び取るものである。みずからの「かけがえのない風景」を大切に思う心こそが、異質な他者を許し、異質な文化や民族や宗教をあるがままに認め、ともに生きる寛容かんようの精神を育むのではないか。多神教の風土が秘める力を信じたい。

 (赤坂憲雄のりお「地域遺産とは何か」による)
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a 読解マラソン集 11番 最後に、現代日本における nnze3
 最後に、現代日本における「宗教性」の行方について、簡単な予想図を描いえが てみよう。その予想図を描くえが に当たって、少し遠回りになるが、「宗教社会学」という学問の誕生当初のことを考えてみたい。
 社会学の鼻祖たるマックス・ウェーバーとエミール・デュルケームが、共に宗教社会学に多大な力を注いだのはよく知られているが、それは何故だろうか。言うまでもなく、近代化とはウェーバーからすれば「呪術じゅじゅつの園」から脱却だっきゃくする過程のはずだが、よく見るとどうもそうではない。そしてかれは、現在の西欧せいおうを中心とする資本主義社会の成立に、宗教、殊にこと 禁欲的なプロテスタンティズムの「痕跡こんせき」が見られることを大胆だいたんに解き明かし、『プロテスタンティズムの倫理りんりと資本主義の精神』を著した。この著でウェーバーは、宗教の持つ潜在せんざい的な「社会変革力」に注目した、と評せるだろう。一方、デュルケームの生きたフランスにしても、フランス革命からの激しい政治的変動を経つつも、なにやら社会の紐帯ちゅうたいとしての宗教の役割は消滅しょうめつしていないように見えただろう。そのような時代状況じょうきょうのもと、デュルケームは宗教が持つ「社会統合力」、社会的紐帯ちゅうたいとしての役割に注目し、『自殺論』や『宗教生活の原初形態』を著した。
 ウェーバーもデュルケームも、社会学という近代に誕生した学知の推進者であり、そのような「近代の子」だったが故に、却ってかえ  近代社会に潜むひそ 「宗教性」を無視できなかったのであろう。彼らかれ の主要業績に「宗教社会学」が鎮座ちんざしているのはある意味必然であった。まさに近代社会にとって「宗教」は、「変革」と「統合」の二つの間を揺れ動くゆ うご 「何か」であり、社会秩序ちつじょ維持いじしたい側にとっても、それを改革したい側にとっても、宗教は一方の特徴とくちょうを強調され「ノイズ」化されたのである。
 このような「宗教」のありかたを、「まつろわぬもの(服従しないもの)」という用語で表現してみたいと思う。本稿ほんこうでは先程述べたように、現在まさに新たな「まつろわぬもの」として、医療いりょう現場において様々な「抵抗ていこう(=宗教性)」が生じていることを明らかに
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してきた。これはウェーバーが強調した宗教の「変革力」とまではいかないまでも、少なくともある流れに対して反省を促しうなが 状況じょうきょうを変えるきっかけになるものであるとは評せよう。
 (中略)
 このような「まつろわぬものの声」を聞き続けること、自らの「宗教性」をノイズとして処理せずにある意味「飼い慣らす」こと。このような実践じっせんがこれからの我々の「スピリチュアリティ」の進展及びおよ 維持いじの最低条件ではないだろうか。現在の我々が頭を悩まなや せている「宗教」にまつわる諸問題――例えば「原理主義」の擡頭たいとうやカルト問題――は、これらの声を無視し続けた結果、その「声」に復讐ふくしゅうされていることを象徴しょうちょうしているのではないだろうか。
 そして、「宗教」を理論的に考察する者も、以下のことを念頭に置かねばならないだろう。すなわち、ロマン主義的に「宗教」の変革力を称揚しょうようし過ぎず、かといってシニカルにその秩序ちつじょの保持への寄与きよをあげつらうのでもなく、その往還おうかん寄り添うよ そ ようなポジションを保持することである。つまり宗教研究者は現代の「宗教性」を観察する時、その変革力に注目しようが、その統合力に注目しようが、ウェーバーとデュルケームの両者に同時に仕える一種の「訓詁くんこ学徒」たらざるを得なくなるだろう。そしてそのような態度こそ、最も「宗教性」に対して誠実な態度になり得るであろう。

 (川瀬かわせ「「まつろわぬもの」としての宗教」による)
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a 読解マラソン集 12番 思考は語りとは別だという nnze3
 思考は語りとは別だという考えは、言語をもっぱら伝達の手段と見なす言語観によっても補強されよう。「きれいな夕焼けだね」と人に語るとき、まずわたしのなかに、きれいな夕焼けだという思いがあり、それを相手に伝達するために、そのような言葉を発したのだと考えられる。言語がもっぱら自分の思考を相手に伝達するための手段だとすれば、思考は語りとは別であり、語りに先だって形成されるということになろう。
 しかし、考えることは語ることと本当に別なのだろうか。語ることに先だって思考が形成され、それをたんに日常言語で表現するにすぎないのだろうか。言葉を用いて考えるとき、まさに語ることとともに、思考が形成されているようにみえる。「今日は暑いな」と語るとき、そのときはじめて今日は暑いなという思考が形成されたのであって、語ることに先だってあらかじめそのような思考が形成されていたようには思えない。もし語ることに先だって思考が形成されていたとすれば、その思考は無意識の思考ということになるだろう。わたしが今日は暑いなと意識的に考えたのは、「今日は暑いな」と語ったときである。したがって、それに先だって、今日は暑いなという思考があったとすれば、それは無意識的な思考にほかならない。
 このような無意識的な思考が存在するかどうかという問題については、ここでは紙幅しふくの都合上、扱わあつか ない。そのような無意識的な思考が存在するとすれば、それは語りとは別だといえるかもしれない。しかし、意識的な思考については、どうであろうか。わたしが今日は暑いなと意識的に考えるのは、まさに「今日は暑いな」と語るときである。この場合ですら、思考は語りとは別なのであろうか。そうだとすれば、「今日は暑いな」と語ることとは別に、そしてそれと同時に、今日は暑いなという意識的な思考が形成されていることになる。しかし、「今日は暑いな」と語るとき、わたしの意識にのぼるのは、「キョウワアツイナ」という音声(声に出したものであれ、頭の中のものであれ)だけである。それとは別に、今日は暑いなという思考が意識に現れるわけではない。したがって、思考が語りと別だとすれば、ここでも思考は無意識的だということにならざるをえない。つまり、意識的な語りの背後に、無意識の思考が存在するということにならざるをえないのである。
 結局、意識的な思考を認めようとすれば、言葉を用いて意識的に考えるとき、思考は語りにほかならないと考えるほかないであろう。「今日は暑いな」と語るとき、そう語ることが今日は暑いなと考えることであり、それとは別にそのような思考があるわけではないのである。「きれいな夕焼けだね」と人に語るときは、たしかに
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そう語るまえに、きれいな夕焼けだという思いが形成されていよう。しかし、その思いが意識的だとすれば、それはわたしの頭のなかで「きれいな夕焼けだ」と語ること(つまり内語)によって形成されたものにほかならないだろう。そうだとすれば、この場合も、きれいな夕焼けだという思いは「きれいな夕焼けだ」という内語にほかならないのである。

 (信原幸弘ゆきひろ「言語による思考の臨界」による。)
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問題

nnze-03-4 問題1
問1 読解マラソン集9番「ウェーバーは」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■トルストイは、生活上の知識と学問的な知識は別のものだと考えていた。
1 ○    2 × 

解答1

nnze-03-4 問題2
問2 読解マラソン集9番「ウェーバーは」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■人は、季節の行事を大事にすることによって、生活上の知識を身につけることができる。
1 ○    2 × 

解答2

nnze-03-4 問題3
問3 読解マラソン集10番「『何もない空間』を」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
賢治けんじは、自分のふるさとを観光地として成り立たせるために土地の風景に新たな意味づけを与えあた た。
1 ○    2 × 

解答3

nnze-03-4 問題4
問4 読解マラソン集10番「『何もない空間』を」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■地域遺産とは、公的な機関が認定するものではなく、そこに住む人々が選ぶものである。
1 ○    2 × 

解答4

nnze-03-4 問題5
問5 読解マラソン集11番「最後に、現代日本における」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■ウェーバーもデュルケムも、ともに宗教の持つ反社会性に注目していた。
1 ○    2 × 

解答5

nnze-03-4 問題6
問6 読解マラソン集11番「最後に、現代日本における」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■宗教の持つ変革力を軽視することによって、原理主義の台頭を防ぐことができる。
1 ○    2 × 

解答6

nnze-03-4 問題7
問7 読解マラソン集12番「思考は語りとは別だという」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■語る相手が目の前にいないときでも、思考は生まれる。
1 ○    2 × 

解答7

nnze-03-4 問題8
問8 読解マラソン集12番「思考は語りとは別だという」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■語る前に、その語ることが相手にとってどう受け取られるかを判断するはっきりした意識がある。
1 ○    2 ×

解答8