a 読解マラソン集 5番 しかし人間というのは nnze3
 しかし人間というのは気まぐれなもので、人間の遊びは、決して玩具がんぐによって百パーセント規定されるものではないのである。これは大事なことだと思うので、とくに強調しておきたいが、玩具がんぐのきまりきった使い方を、むしろ裏切るような遊びを人間は好んで発明する。そもそも遊びとは、そういうことではないかと私は思うのである。たとえば、汽車や自動車の玩具がんぐがあったからといって、私たちはそれを必ずしも汽車や自動車として用いるとはかぎらない。もし戦争ごっこをやりたいと思えば、その汽車や自動車を敵の陣地じんちとして利用するかもしれないし、お医者さんごっこをやりたいと思えば、それを医療いりょう器具として利用するかもしれないのである。玩具がんぐがいかに巧妙こうみょうに現実を模倣もほうして、子供たちに阿諛あゆ追従しようとも、子供たちはそんなことをとも思わず、平然としてこれを無視するのだ。
 すべり台は、必ずしもすべり台として利用されはしない。私の家にも、かつて屋内用の折りたたみ式の小さなすべり台があったものであるが、私はこれをすべり台として用いた記憶きおくがほとんどない。あんなことは、子供でもすぐ飽きあ てしまうのである。私の気に入りの遊び方は、すべり台のすべる部分と梯子はしごの部分とをばらばらに分解して、すべる部分を椅子いす腕木うでぎの下に通し、それとT字形に交わるように梯子はしごを設置して、飛行機をつくることだった。飛行機ごっこをすることだった。つまり、すべる部分がつばさであり、梯子はしごの部分が胴体どうたいなのである。梯子はしごには横木がいくつもあるから、そこに腰かけれこし   ば数人の子供が飛行機に乗れるのである。このアイディアは大いに気に入って、私はすべり台を私の飛行機と呼んでいたほどだった。ボードレールにならっていえば、「座敷ざしきの中の飛行機はびくとも動かない。にもかかわらず、飛行機は架空かくうの空間を矢のように速く疾駆しっくする」というわけだ。
 子供たちはしばしば、玩具がんぐの現実模倣もほう性によって最初から予定されている玩具がんぐの使い方とは、まるで違うちが 玩具がんぐの使い方をする。もう一つ、私自身の経験を語ることをお許しいただきたい。私は三輪車
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

をひっくりかえして、ペダルをぐるぐる手でまわして、氷屋ごっこをやって遊んだことを覚えている。いまは電気で回転するらしいが、かつては氷屋では、車を手でまわして氷を掻いか たのである。
 ここで、この私のエッセーの基本的な主題というべきものを、ずばりといっておこう。すなわち、玩具がんぐにとって大事なのは、その玩具がんぐの現実模倣もほう性ではなく、むしろそのシンボル価値なのである。この点については、いくら強調しても強調しすぎることにはなるまい。玩具がんぐは、その名目上の使い方とは別に、無限の使い方を暗示するものでなければならぬだろう。一つの遊び方を決定するものではなく、さまざまな遊び方をそそのかすものでなければならぬだろう。すべり台にも、三輪車にも、その名目上の使い方とは別に、はからずも私が発見したような、新しい使い方の可能性が隠さかく れていたのだった。つまり、これらの玩具がんぐには、それなりのシンボル価値があったということになるだろう。
 私の思うのに、玩具がんぐの現実模倣もほう性とシンボル価値とは、ともすると反比例するのではあるまいか。玩具がんぐが複雑巧緻こうちに現実を模倣もほうするようになればなるほど、そのシンボル価値はどんどん下落するのではあるまいか。あまりにも現実をそっくりそのままに模倣もほうした玩具がんぐは、その模倣もほうされた現実以外の現実を想像させることが不可能になるだろうからだ。その名目上の使い方以外の使い方を、私たちにそそのかすことがないだろうからだ。そういう玩具がんぐは、私にはつまらない玩具がんぐのように思われる。

 (澁澤しぶさわ龍彦たつひこ玩具がんぐのシンボル価値」より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 読解マラソン集 6番 のび太の孫の孫のセワシ君が nnze3
 のび太の孫の孫のセワシ君が、未来の世界からタイムマシンでやってくるところから、このお話は始まっている。ドラえもんとは何か。それは、のび太の残した借金が多すぎて、百年たっても返しきれないセワシ君が、どじなのび太の運命を変えようとして、現代に送り込んおく こ だロボットである。だから、ドラえもんがなすべき仕事は、当然、のび太を援助えんじょして、その悪い運命を改善することである。
 しかし、考えてみれば、ドラえもんのおかげでのび太の運命が改善されてしまうと、セワシ君がのび太によって受けた被害ひがいもなくなってしまい、かれがドラえもんを送り込んおく こ だ理由そのものが消えてしまう。そのとき、のび太の借金のせいで貧乏びんぼうだったセワシ君は、いったいどこへ消えてしまうのだろう。そして、ドラえもんがいまのび太の家にいるその原因そのものが消えてしまってもなお、ドラえもんはそこに存在していられるのだろうか。
 そう考えると、ドラえもんとはきわめて不思議な存在であることがわかる。かれは、いま自分がそこに存在している原因と、その存在理由そのものを、消し去るために存在しているのだから。自分の存在理由を消し去ることがその存在理由である存在! かれが少しでも内省力のあるロボットなら、ある日そのことに気づいて、「ぼくっていったい何のために存在しているのだろう」という実存の不安に襲わおそ れるはずである(実際にはそんなようすはまったく見られない。のび太ほどの思索しさく力もない、能天気なやつなのである)。
 いや、そうではなく、この話には論理的な矛盾むじゅんが内在しているのかもしれない。ドラえもんとは、そもそも不可能な存在なのかもしれない。『ドラえもん』の世界は二つの矛盾むじゅんした事態の成立を主張している。ドラえもんの援助えんじょを受けないのび太と、ドラえもんの援助えんじょを受けているのび太。借金で首がまわらないセワシ君。等々。この矛盾むじゅんをどう考えたらよいだろうか。
 (中略)
 それを変える? そうだ、とセワシ君は言うであろう。ぼくはこの境遇きょうぐうを変えたいんだよ。ぼくは、自分が幸福になりたいから、この不幸の原因を取り除いているんだよ。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 しかし、借金で首がまわらないセワシ君の境遇きょうぐうは、もう実現してしまっているのだ。ここで、第四の可能性が考えられる。セワシ君が大借金をしている世界と、セワシ君が借金などしていない世界とは、二つの別の世界なのだ、と考える可能性である。しかし、もしそうだとすると、セワシ君もまた二人いることになるから、貧乏びんぼうだったもとのセワシ君自身の境遇きょうぐうはちっとも改善されないことになる。ドラえもんの活躍かつやくのおかげで、どこかの世界に裕福ゆうふくなもう一人のセワシ君が存在するようになっても、自分自身の運命はぜんぜん改善されないのだ!

 (永井ながい均『マンガは哲学てつがくする』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 読解マラソン集 7番 たしかに「解放」された nnze3
 たしかに「解放」された旧植民地の人びとにとって「自由」は新しかった、しかもまったく「新し」かったことだろう。というのも、彼らかれ にはかつて一度も「自由」の経験などなかったのだから。その地に「ヨーロッパ」が訪れ、この「文明の中心」にくさり繋がつな れる以前には、彼らかれ には彼らかれ なりの自在さがあったとしても、「自由」など必要なかったことだろう。彼らかれ はいわば自生していたのであり、「独立」を主張する必要も「解放」される必要もなかったはずだ。植民地支配によってこれらの地域は、輝かしいかがや   発展を謳歌おうかする西洋近代の黒いエクス・マキーナとして、その「進歩と繁栄はんえい」に繋縛けいばくされ搾取さくしゅされ、まさにそのために「独立」や「解放」を必要とするようになったのだ。とはいえ彼らかれ は独立によってけっして「解放」されたわけではない。なぜなら「独立」とは、すでに不可逆的に進行している西洋的歴史のなかで一主体としての承認を求めることであり、彼らかれ が「解放」される空間は、すでに西洋化した世界空間なのだから。そこに「主体」として参入するために、彼らかれ は結局あらためて「西洋システム」という学校に入り、それこそ未知の「自由」を学ばなければならなかったのだ。そのことが現在の世界のいわば既決きけつ性というものを端的たんてきに示している。
 ヨーロッパは世界化し、世界はヨーロッパ化した。というより、この世界はヨーロッパによって<世界>として形成された。そしてヨーロッパは自己の普遍ふへん性の主張を、形成された<世界>の内に実現することになった。ただ、この普遍ふへん性の実現が全体としての<世界>の形成として成就したのは、この世界が地球という球体の表面にあるという単純な物理的条件に規定されている、ということには注意しておいてよい。でなければ、普遍ふへん性の主張が全体化として実現されるということはありえない。どんなにヨーロッパが膨張ぼうちょうしても、それが無限の平面上のことだったら、その普遍ふへん性の主張も有限な領域に甘んじるあま   ひとつの普遍ふへん性にすぎず、膨張ぼうちょうの前線の向こうにはつねに未知で手つかずのけん域が広がっているからだ。その外部が、拡張するもの自身をつねに個別性へと送り返す。ただ地球が丸いということが、前線の解消と全体化を可能にするのだ。ヨーロ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ッパはそのようにして全体となった。
 だがすべてがヨーロッパ化されてしまったとしたら? ヨーロッパが拡張を続けている間は、つまり同化する外部をもつ間は、ヨーロッパは有限な、したがって固有性をもつものでありえた。ただその境界がなくなり、すべてがヨーロッパ化されて全体がヨーロッパ的になってしまうと、ヨーロッパはもはやその固有性を主張しえなくなる。あらゆる差異を超えるこ  共通こう、全体の全体性たる所以をなすものは、この全体の内でいかなる固有性ももたない所与しょよの条件である。いまヨーロッパはそのような世界の全体性の自明の条件になってしまった。だからこそ、世界のどこにいても「世紀末」を語って何の違和感いわかんもないのである。「西暦せいれき」は依然としていぜん   この世界の世界性形成の刻印だとしても、もはや個別ヨーロッパへの帰属という意味を失ってしまっている。そして実はそれが現在の状況じょうきょう象徴しょうちょう的な反映なのである。だからいま「歴史の終り」が語られるとしても何の不思議もない。たしかに歴史は終ったとも言える。だがその「終った歴史」とは、歴史一般いっぱんではなく西洋を主体とする世界化の歴史なのである。

 (西谷修『世界史の臨界』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 読解マラソン集 8番 生産性向上を目指してきた nnze3
 生産性向上を目指してきた近代社会は、機械化と時間管理の徹底てってい化によって単位時間当たりの生産性を高め、一日、一週間、一月、一年といった各周期の労働時間の短縮を行なってきた。一九八八年、労働基準法の改正により、日本でもようやく週四〇時間を目指して労働時間の短縮を図る動きが国の側から開始された。いまだに実質的に週四〇時間労働が実現しないとはいえ、自由時間の増大に対応するための社会システムのあり方が模索もさくされている。そこで目標とされるのは年間で一八〇〇労働時間の社会であり、睡眠すいみん時間や通勤時間を除いても年間の自由時間は約四〇〇〇時間となる。さらに、圧倒的あっとうてきに多い自由時間は、人生全体のなかで大きな比重を占めし 、人びとは自由時間の過ごし方を中心に人生の設計を図らなければならない。
 しかしながら、近代社会の理念の下では、けっしてこの自由時間は個人の自由に完全に委ねられるわけではない。それは、自由裁量の時間でありながら、労働や他の義務的活動によって生じた疲労ひろうを回復し、気晴らしになり、しかも自己の発展と文化の発展につながるような活動で埋めるう  ことを求められる。享楽きょうらく主義や自己破壊はかいにつながるような時間の過ごし方は、近代の理念に反するのである。その意味で、レジャーは、新しい時代の社会規範きはんにしたがって水路づけられることになる。
 他方で、自由時間の過ごし方は、時間をあくまで定量的に把握はあくする近代の時間観念に依拠いきょしている。労働時間が資源として扱わあつか れ経済的価値を帯びるにつれ、それを切り詰めるき つ  ことによって獲得かくとくされた自由時間にもその経済的価値意識が反映されてくることは、必然の成り行きでもある。すなわち、自由時間を有効に無駄むだなく過ごそうという意識が、自由時間内の活動自体に浸透しんとうするのであり、近代の時間意識は、自由時間においても変わらない。複数の人びとが共同で行なうレジャー活動は、多くのスポーツや趣味しゅみのクラブや個人の日常の各周期のスケジュールのなかで、厳格に共時化され、順序づけられ、進度調整が図られる。
 しかし、時間を合理的に使おうとする割には、自由裁量性に目を奪わうば れたり期待をかけすぎて、われわれはすべての活動が時間を消費することを忘れがちである。たとえば、テレビの番組をビデオに
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

収録して自分の好きなときに見るという発想は、時間消費の自由裁量性を高める工夫であるように見える。しかしこれは、今は読めないがいつか読むつもりでたくさんの本を買い込むか こ 悪癖あくへきを想起させる。現実には、それは限られた自由時間にきわめて時間消費量の多い活動を詰め込みつ こ 、結局睡眠すいみん時間を切り詰めるき つ  結果になりがちである。この傾向けいこうは、消費社会の論理によってさらに加速される。

 (長田1攻一「現代社会の時間」『岩波講座現代社会学 時間と空間の社会学』岩波書店、一九九六年による。)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
問題

nnze-02-4 問題1
問1 読解マラソン集5番「しかし人間というのは」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 現実を巧妙に模倣した玩具は、子供の想像力を枯渇させる。
B 筆者にとって、子供のころのすべり台をすべり台として使うのは面白いことではなかった。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答1

nnze-02-4 問題2
問2 読解マラソン集5番「しかし人間というのは」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 玩具の価値は、その玩具で遊ぶ子供がどう使うかにかかっている。
B 玩具が現実そっくりになればなるほど、その玩具による遊びの幅が減る。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答2

nnze-02-4 問題3
問3 読解マラソン集6番「のび太君の孫のセワシ君が」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A のび太の孫の孫のセワシ君は、未来が変わると過去も変わるということを知っていた。
B ドラえもんは、のび太の運命を改善するために未来から送り込まれたロボットである。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答3

nnze-02-4 問題4
問4 読解マラソン集6番「のび太君の孫のセワシ君が」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 筆者の言う論理的矛盾とは、既に過ぎ去った過去をさかのぼるという矛盾である。
B 借金をしているセワシ君と、借金をしていないセワシ君が別の世界で存在するということは論理的に矛盾しない。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答4

nnze-02-4 問題5
問5 読解マラソン集7番「たしかに『解放』された」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A ヨーロッパに支配される前の旧植民地の人々は、独立した国家を形成していた。
B 植民地から解放されること自体が、西洋のシステムを承認することだった。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答5

nnze-02-4 問題6
問6 読解マラソン集7番「たしかに『解放』された」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 世界がヨーロッパ化されたあと、ヨーロッパは特殊なものではなくなった。
B 世界がヨーロッパ化した現在、ヨーロッパの歴史の終わりは、歴史一般の終わりでもある。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答6

nnze-02-4 問題7
問7 読解マラソン集8番「生産性向上を目指してきた」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 近代社会における個人の自由時間は、有意義な自由時間であることが要求されている。
B 多くの人が自由時間も無駄なく過ごそうと考えている。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答7

nnze-02-4 問題8
問8 読解マラソン集8番「生産性向上を目指してきた」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 労働における時間意識は、レジャーにおける時間意識にも反映している。
B ビデオの登場によって、人間の自由時間は増大した。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答8