a 読解マラソン集 1番 ラテン語で nnze3
 ラテン語でdivide et imperaというのがある。英語に訳すると、divide and ruleの義だという。すなわち「分けて制する」とでも邦訳ほうやくすべきか。なんでも政治か軍事上の言葉らしい。相手になるものの勢力を分割して、その間に闘争とうそうを起こさしめ、それで弱まるところを打って、屈服くっぷくさせるのである。ところが、この語は不思議に西洋思想や文化の特性を剴切がいせつに表現している。
 分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、いんと陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学てつがくも科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴とくちょうである。
 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち、力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。高い山が自分の面前に突っつ 立っている、そうすると、その山に登りたいとの気が動く。いろいろと工夫して、その絶頂をきわめる。そうすると、山を征服せいふくしたという。鳥のように大空を駆けか まわりたいと考える。さんざんの計画を立てた後、とうとう鳥以上の飛行能力を発揮するようになり、大西洋などは一日で往復するようになった。大空を征服せいふくしたと、その成功を祝う。近ごろはまた月の世界までへも飛ぶことを工夫している。何年かの後には、それも可能になろう。月もせい服せられる日があるに相違そういない。この征服せいふく欲が力、すなわち各種のインペリアリズム(侵略しんりゃく主義)の実現となる。自由の一面にはこの性格が見られる。
 二元性を基底にもつ西洋思想には、もとより長所もあれば短所もある。個個特殊とくしゅの具体的事物を一般いっぱん化し、概念がいねん化し、抽象ちゅうしょう化する、これが長所である。これを日常生活の上に利用すると、すなわち工業化すると、大量生産となる。大量生産はすべてを普遍ふへん化し、平均にする。生産費が安くなり、そのうえ労力が省ける。しかし、この長所によって、その短所が補足せられるかは疑問である。すべ
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普遍ふへん化し、標準化するということは、個個の特性を滅却めっきゃくし、創造欲を統制する意味になる。それから「ドゥー・イット・ユアセルフ(自分でおやりなさい)」式の未完成家具や小道具類ができて、それがかえって、今まで省けた労力を消耗しょうもうすることになる。ある意味で創作力の発揮になるものが、きわめて小範囲はんいを出ない。つまりは機械の奴隷どれいとなるにすぎない。思想面でも一般いっぱん化・論理化・原則化・抽象ちゅうしょう化などいうことも、個性の特殊とくしゅ性、すなわち各自の創作欲を抑制よくせいすることになる。だれもかも一定の型にはまりこんでしまう。どんぐりの背くらべは、古往今来、どこの国民の間にも見られるところだが、知性一般いっぱん化の結果は、凡人ぼんじんのデモクラシーにほかならぬ。
 東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米おうべい文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の心理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うつちか ことになった。近ごろの学者たちは、これを嘲笑ちょうしょうせんとする傾向けいこうを示すが、それは知性の外面的光彩こうさいのまばゆきまでなるに眩惑げんわくせられた結果である。畢竟ひっきょうずるに、眼光紙背にてっせぬからだ。

 (鈴木大拙「東洋文化の根底にあるもの」)
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a 読解マラソン集 2番 われわれは今日 nnze3
 われわれは今日書物の氾濫はんらんしている社会に生きている。書物に対して何の不思議も感じはしない。それは当り前の存在なのである。しかしそれが出はじめたころには、人びとはプラトンと同じように、それをうさんくさい存在として、疑惑ぎわくの眼をもって眺めなが ていたのではないかと思う。そしてそこに批評されている点も大いに当るところがあるとも考えられる。わたしたちは著者の講演などを直接聞くことによって、その著書に言われていることを、何とはなしに全体的にわかったと思うことがある。つまり直接に理解することができたことを、読書によって思い出すことができるわけであって、それは読書だけでは経験できなかったことだとも考えられる。また実際的な書物、例えば料理法とか礼儀れいぎ作法の書物、あるいは工業技術や経営の実務に関する書物、更にさら 一般いっぱん的に理科関係の書物には、プラトンの指摘してきしたような書物の二次的、副次的な役割というものがひろく認められるように思われる。実験室や研究室の仕事が主たるべきものであって、それの記録はただ後日メモとして用いるためであり、雑誌なども他人の行った実験や観察の記録を見るためのものであると言わなければならない。だから、自分で実験なり、観察なり、あるいはモデルづくりをしているのでなければ、素人にはまったく寄りつくところもない、閉ざされた書物になってしまう。もしまったくの素人が、そういう記録を読んで、自分だけの空想によって何かわかったようなことを言っても、そのようなにせ知識人は、専門家から冷笑され、黙殺もくさつされるだけだろう。書物は既にすで 知っている人にしか役に立たないという、プラトンのパラドクスめいた主張は一つの真理であると言わなければならない。
 しかしながら、ギリシア神話で言えばプロメテウスの贈物おくりものである文字の発明を、このようにただ否定的にだけ考えてしまうのは、やはり一面の真理に止まると言わなければならないだろう。現在はラジオやテレビの発明と発達によって、また再度むかしのギリシア人が親しんでいたようなレトリックの復活が見られることになった。演技用の微笑びしょうまで用意して、健康によいかどうか疑わしいお菓子 かしの宣伝をする男が、苦い薬をのむことをすすめる医者の下手な演説を圧倒あっとうして、大衆の指導者となる時代が来たのである。デマゴギーというのは、ギリシア人のことばなのであるが、意味は大衆迎合げいごうの演説ということである。
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 今日のいわゆる開発途上国かいはつとじょうこく社会に見られる独裁者革命は、ほとんどが文字を知らない人たちばかりの国において、ラジオや拡声器を通じての、デーメーゴリアー(大衆迎合げいごうの演説)を最大の武器としている。大衆民主主義社会における独裁者の出現という、すでにプラトンが予見していたパラドクスは、「はなしことば」の第一次的な応力の利用に大きく依存いぞんしていると言うことができるだろう。ヒットラーはそのお手本みたいなものである。このようなレトリックに対して、われわれはディアレクティック(問答法)というものを対立させたのであるが、また別の観点からすれば、文字と書物がこれに対立すると言うこともできるだろう。演説はその場かぎりのものであって、われわれも感情の弱味をおさえられると、普段ふだんの判断力も狂っくる てしまって、とんでもないことを信じこまされることがある。だから、後でまた気が変るということも起る。それを防ぐために、覚書きというものがつくられたりする。文字は一時のものではなくて、一種の恒久こうきゅう性をもっている。それは何度もくりかえして読むことができる。一時の感激ではなくて、冷静な判断の余裕よゆうをあたえてくれる。

 (田中美知太郎みちたろう『学問論』)
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a 読解マラソン集 3番 「善」と「悪」とには nnze3
 「善」と「悪」とにはいくつもの基準がある。その基準のひとつに変化スピードがあるといってもよい。たとえば二千年くらいをかけて、日本から稲作いなさく一掃いっそうされたとしよう。このケースではおそらく問題はおこらない。なぜなら二千年という長い時間のなかで、新しい日本の食文化が生まれ、農村でも稲作いなさくに代わる農業体系やそれに適応した村がつくられているだろうからである。ところが五、六年で稲作いなさく一掃いっそうしたらどうなるだろうか。この場合は私たちの食生活も、外食産業や流通、小売業も、大混乱に陥るおちい であろうし、農山村では破滅はめつ的な事態が発生するかもしれない。
 たとえ同じ内容のことが実現されたとしても、変化を受け入れ、対応していけるだけの時間量を保障した変化とそうでないものとでは、決定的な違いちが が発生していくのである。そしてこのことは、地域を考えるときの重要な要素でもあると私は思っている。
 かつて、多くの人々が、自分たちは地域とともに暮らしていると感じていたころ、その地域はゆるやかな変化とともに展開していた。祖父母が生きたように父母が暮らし、父母が生きたように子どもたちが暮らす。そんな一面が農山村でも都市でも展開していた。もちろんどんな時代にも変化は生じていただろう。だがその変化は、自然や人間が対応できないほどには速くなく、その結果、変化によってこわされていくものより、時間のなかで蓄積ちくせきされていくもののほうが多かった。だからこそそれぞれの地域に、その地域の自然の利用の仕方や、その地域の方言、食文化、祭りや行事のかたち、地域の人々が大事にした作法や文化が生まれていった。そして人々は、この地域に「自分たちが存在する場所」をみいだした。
 ところが現在では、地域は衰弱すいじゃくしている。都市では、人間たちが住んでいる空間はあっても、地域が存在しないというような状況じょうきょうも生まれている、地域をつくりだしていこうとする試みが繰り返しく かえ おこなわれているにもかかわらず、である。
 それは現代の社会が、地域が生まれていく時間量を保障しえないかたちで、変化を進行させてしまうからである。街の景観も、そこに住んでいる人々も、生活のかたちや労働のあり方も、ものすごいスピードで変わっていく。これでは地域らしさが形成されていく時間量が確保できないのである。
 とすると次のような結論が生まれることになる。私たちは「地域
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的な空間」の激しい変化を受け入れながら、そこに地域らしい地域をつくろうとすれば、自己矛盾むじゅん陥っおちい てしまう。少なくとも残された自然の姿、そこに住む人々、基本的な景観、生活や労働、地域文化のかたちといったものが、ゆっくりとしか変わらない社会をつくらないかぎり、安らぎを感じるような地域は生まれてこない、ということになる。

 (内山節『風土と哲学てつがく−日本民衆思想の基底へ−第八十二回』信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶん、二〇〇八年七月十九日。)
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a 読解マラソン集 4番 一方、生き残る方言には nnze3
 一方、生き残る方言には、二種類のものがある。ひとつは、それが方言だと気づかれないで使われる方言である。例えば、東北地方では「捨てる」ことをナゲルと言う。「テレビをナゲル」は、テレビを放り投げるわけではなく、廃棄はいきするという意味である。このように、意味はずれるものの形が同じことばは、共通語と錯覚さっかくされるために残りやすい傾向けいこうがある。しかし、それらは方言だと気づかれたが最後、共通語へ切り替えき か られていく運命にある。
 生き残る方言のもうひとつは、方言だとわかってはいるが、使わないではいられないといったものである。それらは、文末詞や、感情語彙ごい、程度副詞、挨拶あいさつことばなどの中に多い。例えば、仙台せんだいの文末詞なら「行くっチャ」の「チャ」がよく使われる。これは共通語に直せば「行くさ、行くとも」であり、「当然だろ、何でそんなこと聞くんだ」といったニュアンスを表す。また、「行くべ、行くべ」は、「行こう、行こう」という意味で、相手を誘うさそ ときによく使う。こういった「チャ」や「ベ」は今でも元気である。
 感情語彙ごいでは、「メンコイ」や「イズイ」が生き残っている。「イズイ」は体表面のなんとも言えぬ不快感を表すもので、襟元えりもとに毛が入って「イズクてたまらない」とか、セーターを洗ったら縮んでしまって「イズクてしょうがない」、といったふうに使われる。こういう方言は、今でも老若を問わず根強い人気があって、かなり使われている。気づきにくい方言と違いちが 、これらこそ地元の人々の支持を得た、正真正銘しょうしんしょうめい生き残る方言といえる。
 これらの「真正」生き残る方言に共通するのは、いずれも相手の感情に訴えうった かける性質を持つという点である。右で見た文末詞や感情語彙ごいはもちろん、程度副詞(関西のメチャ、名古屋のデラなど)や挨拶あいさつことば(東北のオバンデス)も、同様に理解してよいだろう。これらの感情的要素は相手の心に響くひび ものだけに、会話の雰囲気ふんいきを気取らない、打ち解けたものにする効果が抜群ばつぐんである。すなわち、こうした方言を使うことで、「私はあなたと心を割って、親しく話したいんだ」とか、「肩肘かたひじ張らないで、リラックスして話しましょうよ」といった意思表示を行うことができる。共通語の使用が相手との間にかべを築くのに対し、これらの方言は逆にそのよう
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垣根かきね取り払いと はら お互い たが の心的距離きょりを縮める役目を果たす。現代人は無意識のうちに、こうした方言の機能を会話のストラテジーとして利用しているように見える。
 「方言」と一口に言っても、もはやそれはシステムではなくスタイルに変質してしまった。それならば、方言スタイルという確固とした文体が存在するのかといえば、若者たちの方言の実態は、共通語が主体でそこに右に見たような要素をわずかに加えた程度のものにすぎない。会話の雰囲気ふんいき作りのために共通語に散りばめられる要素になってしまった方言を、私は、服飾ふくしょくになぞらえて「アクセサリーとしての方言」と呼ぶ。アクセサリーはあえて付ける必要のないもので、それを付けることには積極的な意味がある。同じように、若い人たちは共通語だけで十分コミュニケーションが成り立つのに、あえて方言を使おうとしている。それは、親しい仲間同士の会話を楽しむ潤滑油じゅんかつゆとして、方言の価値を認めているからにほかならない。
 ところで、アクセサリー化したといっても、仙台せんだいあたりの若者が使う方言はあくまでも地元の方言である。ところが、最近では、東京の若者たちが、全国各地の方言を取り込んと こ 携帯けいたいメールを楽しんでいるという。正直、方言がここまでくるとは思わなかった。考えてみればこうした無国籍こくせき的な方言の使い方は、アクセサリー化した方言の究極の姿であると言えるだろう。だが、土地から遊離ゆうりした方言は果たして方言と言えるのか。「母なることば=方言」というイメージにとらわれていると、蕎麦そばの薬味のような方言を方言と認めるには抵抗ていこうがある。「方言」とは何であるのか、自明のように思われたことが、今、あらためて問われているのである。

 (小林たかし「現代方言の正体」による)
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問題

nnze-01-4 問題1
問1 読解マラソン集1番「ラテン語で」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 二元的世界とは、個の世界と多の世界が対立した世界である。
B 人間は、山を征服することはできるが、自分自身を征服することはできない。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答1

nnze-01-4 問題2
問2 読解マラソン集1番「ラテン語で」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 「ドゥー・イット・ユアセルフ」も、結局与えられた狭い枠内での創作に過ぎない。
B 東洋人は、分割的知性の短所を抑え長所を生かしてきた。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答2

nnze-01-4 問題3
問3 読解マラソン集2番「われわれは今日」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A プラトンのころの古代の人々は、書物というものはあまり信頼していなかった。
B 書物は既に知っている人にしか役に立たないというプラトンのパラドクスは現代の書物にもあてはまる。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答3

nnze-01-4 問題4
問4 読解マラソン集2番「われわれは今日」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 文字の発明を肯定的に生かすことによって、レトリックを復活させることができる。
B 文字化されていない言葉は感情に訴えかけることができるから判断力を奪うことがある。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答4

nnze-01-4 問題5
問5 読解マラソン集3番「『善』と『悪』とには」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 速すぎる変化が「悪」であるように、遅すぎる変化も「善」とは言えない。
B 人間が対応していけるぐらいの時間量を持つ変化は「悪」ではない。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答5

nnze-01-4 問題6
問6 読解マラソン集3番「『善』と『悪』とには」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 変化の量よりも蓄積されるものの量の方が大きいから文化が生まれる。
B 自分が変化しないのに地域を変化させようとするのは一種の自己矛盾である。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答6

nnze-01-4 問題7
問7 読解マラソン集4番「一方、生き残る方言には」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 「捨てる」という意味で「ナゲル」という東北地方の方言は独特なのでこれからも生き続ける。
B 標準語では表せないニュアンスを持つ方言は、標準語中では生き残ることができない。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答7

nnze-01-4 問題8
問8 読解マラソン集4番「一方、生き残る方言には」を読んで次の問題に答えましょう。
 ○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 共通語に比べると方言は心の垣根を取り払う効果がある。
B アクセサリー化した方言は、その方言の土地を離れて東京でも使われるようになってきている。
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答8