子どもというものは、なにやら得体の知れぬようなところがある。そのなすことのひとつひとつに、どのような意味があるのか、おとなは解釈した意味をつけて理解しようとはするのだが、彼らの世界がはたしてその解釈された意味で理解できるものかどうか、はなはだ覚束ない。
それでも、そこに子どもの世界がある。それはおとなになってしまった目から、もはや見ることのかなわぬものかもしれぬ。そしてやがて、子どもはおとなになって、解釈され理解される姿になってしまう。
学校へ行くようになると、解釈され理解されることがらを学ぶようになる。それは避けられないことだ。
しかし、たいていのおとなが、学校で記憶した知識、学校で獲得した技能を、学校を卒業するとともに忘れている。これも考えようによっては奇妙なことである。学校では、暗記や訓練が強制され、その結果を点検されるのだが、そのほとんどは忘れられ失われてしまう。まるで、失うために学校に行ったみたいだ。
それでは、学校は無意味であったか。失われたあとに残るものがあったはずである。それはおそらく、彼の心のなかの世界が、深く耕されたことであろう。一時的に獲得した知識や技能より以上に、その彼の心の世界こそが、彼にとっての本物かもしれない。
こうした知識の体系を科学と呼び、技能の体系を技術と名づけるなら、人間の文化が科学と技術なしに成立しないことは確実である。しかしながら、実際にそうした科学や技術の体系に身をよせて暮らしていてさえ、これらの知識や技能はむなしい、そんな気のすることがある。
科学者や技術者は、しばしば自分の知識や技術をこえねばならぬ局面に出あうものだ。自分の知識や技術を捨てて、自分の心のなかの世界だけにたよるしかない、そうした場面が訪れる。創造はそこにしかない。
念のために言うと、ここで知識や技能が無価値であったわけではない。理屈の上では、知識は書物に書きとめておけばよく、技能は方法として与えられるだけですむ。しかし人間は、すべての知識が頭の外部にあり、すべての方法が体の外部にあったのでは、それを心にとけこますことができない。一時的であろうとも、知識を頭に
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