a 読解マラソン集 9番 そもそも本能を定義することは nngu3
 そもそも本能を定義することはきわめてむずかしいが、とにかく本能というのは行動と切り離せき はな ない概念がいねんである。人間をも含めふく て動物の行動のごく基本的なモデルとして、ローレンツの古典的なモデルがある。ここに一個の水槽すいそうがあり、上からたえず水が流れこんで水槽すいそう内にたまる、このたまった水がいわゆる衝動しょうどうにあたる。水層の下部には蛇口じゃぐちが一個あり、それにせんがついている。適当な刺激しげきによって、このせんがひっぱられてぬけると、蛇口じゃぐちから水が噴きふ だす。この水の噴出ふんしゅつが行動を示すものとするのである。
 水が噴出ふんしゅつするかどうか、つまり行動がおこるかどうかは、衝動しょうどうの大きさ(水槽すいそう内の水圧)と刺激しげきの強さによってきまる。しかし、どんな型の行動がおこるかは、蛇口じゃぐちの形によってきまる。同じ衝動しょうどうにもとづく同じ種類の行動でも、その型は動物の種類によってちがう。つまり、動物の種類によって蛇口じゃぐちの型がちがうのである。多くの動物では、蛇口じゃぐちは生まれつき完成されており、その型は遺伝的に決まってしまっていて、同じ種類の動物は、同じ条件のもとではほとんど同じように行動する。学習する必要はほとんどなく、たとえその必要が多少あったとしても、蛇口じゃぐちをすこしけずって変型する程度のもので、型の本質的な変更へんこうには至らない。このように、種によって一定の、遺伝的に型のきまった蛇口じゃぐちにしたがった行動がおこる場合を本能というのが、動物行動学での共通見解であるようにおもわれる。
 このような観点に立って人間をみたら、どうなるであろうか。書店にいくと、育児百科のような本や別冊付録がたくさんある。もし、人間に育児行動のための蛇口じゃぐちが遺伝的に備わっているのなら、こんな手引書はいらないだろう。子供を産んだ女性は、何一つ教わらなくとも、本来もっている遺伝的蛇口じゃぐちにしたがってすらすらと育児ができるはずだからだ。しかし現実にはそうでない。人間には、動物行動学でいうような育児本能はないのだと考えたほうがよい。あるのは育児衝動しょうどうだけなのである。(中略)
人間について日常安易にいわれている「本能」は、すべて衝動しょうどう
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いいかえられるべき性質のものである。このことはフロイトの文脈からみても明らかなのであるが、本能という言葉の魅力みりょく依然いぜんおとろえているようにはみえない。
 実際には人間の行動は、遺伝的制約からかなり自由であり、その蛇口じゃぐちの多くは社会や文化の影響えいきょうのもとに作られるものと考えられる。その点を見のがして安易に本能という言葉を使っていくと、いつのまにか、この言葉のもつ雰囲気ふんいきにひきずられて、社会の制約から解き放たれた人間本来の姿という幽霊ゆうれいをつくりあげることになろう。本来的なものはむしろ衝動しょうどうであり、しかも現実にそれを満たす方法すなわち行動の型のほとんどが社会と文化の中でしか形成されえないものである以上、「社会のくびきから本能を解放する」ことは単なる幻想げんそうにとどまる。
 けれど、人間の行動もじつは動物的なレベルからそれほどだっしきっているわけではない。たしかに人間には遺伝的に決まった一定の行動がごくすくない。しかし社会のコミュニケーションという点では、これではいちじるしく不便である。そこで社会的に、とくに支配者の暗示のもとに一定の行動型が設定され、それがしきたり、制度、あるいはいわゆる良識として確立される。すると人間の行動型が遺伝的制約から自由であるという、まさにそのことのために、多くの人々にはいつのまにかこの型の蛇口じゃぐちがはめられてしまう。
 もちろん思想や発想の形式にも相応する蛇口じゃぐち(良識なるものの大部分はこれであろう)がはめられる。思考と行動の蛇口じゃぐちは相補って、しばしばどちらもきわめて固定的なものとなりがちである。そして人々がこの蛇口じゃぐちを通して行動していることを意識しないという点でも、そこには動物における本能とたいへんよく似た性格があらわれてくる。つまり文明は本能を抑圧よくあつするのではなく、本来存在していなかった本能に代わる、代理本能ともいうべきものを作り出すのである。その結果いささか逆説めいてくるが、人間は文明によって動物から脱するだっ  のではなく、むしろ逆に動物のレベルにひきおろされるのである。もしそこから脱却だっきゃくしたいとのぞむなら、ありもしない本能の解放をめざすのではなく、この代理本能とその産物をたえず否定してゆかねばならないであろう。
(日高敏隆としたか『人間についての寓話ぐうわ』による)
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a 読解マラソン集 10番 ゲーテがその色彩論を nngu3
 ゲーテがその色彩しきさい論を活発に展開したのは、ニュートンの物理学的な光学に立った色彩しきさい理論をどうしても認め難いと思ったからであった。かれは述べている。ニュートンの光学にもとづく色彩しきさい理論は、この一世紀以来世の中に君臨してきているが、それは屈折くっせつ光線というきわめて限られた事象を基礎きそにして築かれているにすぎない。そのために、光と色について、それ以外の重要な現象はほとんど無視されることになってしまった。
 それに対して自分は――とゲーテは続ける――、光と、光に対立するやみとが両々相まって初めて色彩しきさいを生み出すのだと言いたい。ニュートンの犯した誤りは、かれが行なった実験そのもののうちに見出される。プリズムを通した白色光が色彩しきさいを生み出すためには実は「境界」が必要なことをニュートンは見落としたからである、と。このゲーテの批判そのものは、ニュートンの実験を自分に引き寄せて解釈かいしゃくしただけの空振りからぶ に終わった。
 だが、空振りからぶ によってゲーテの考え方は、まったく無意味に終わったわけではない。かれはニュートンの光学理論が見落としていた色彩しきさいのもう一つの側面をとらえていたからである。ゲーテが見たのは人間経験としての色彩しきさい現象であり、その代表的なものは「補色作用」である。かれの挙げている例でいえば、白壁しらかべに黄色の紙片を貼りは 付けてじっと見つめていると、それは紫色むらさきいろに見えてくる。また、夕焼けに照らされてブロッケン山の雪が赤みがかった黄色い光を放つとき、その雪のかげの部分は青紫色むらさきいろ呈するてい  のである。
 そのような補色作用をもっと端的たんてきに示す実験装置としては、次のようなものがある。すなわち、ここに、交差する白色光と赤色光の二つの光源を用意する。そして、それらの光の交差した前に片手をかざして、壁面へきめんに映ったかげを見てみると、そのかげの一つは「赤色」に、もう一つはその補色の「青緑色」に見えるのである。
 この場合、なぜそこに、まるで気配さえもない青緑などという色が出てくるのであろうか。このような事実は、色は一定に波長から構成されているというニュートン的な考え方からは、どうやっても説明することができない。たとえ、波長についての計測装置を使っ
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ていくらそのかげの部分の光の構成を調べてみても、青や緑と呼ばれる波長は少しもそこに検出されないからである。興味深いのは、W・ハイゼンベルクのような現代物理学の革新者が、かれ自身の見地から、近代科学の知を超えこ たゲーテ的な色彩しきさい論を高く評価していたことである。
 コンピュータの性能としての表現可能な色数は、いうまでもなくニュートンの光学理論の発展に基づいて技術的に可能になったものである。しかし現在、人間経験としての色を表わそうとするときには、それを、ゲーテ的な色彩しきさいの考え方によって補わねばならないだろう。実際の色の感知というのは最終的には人間の色彩しきさい経験であって、単に客観的な現象ではないからである。
(中略)
 コンピュータによって一六七〇万の色が発色できるようになったということは、一見それだけ色が高度に客観化されたようにみえるが、果たしてそうだろうか。かつて、ぼう大家電メーカーの研究所の上級研究員の人から、興味深い話を聞いたことがある。それは、日本から世界中の諸国にテレビの受像機を輸出する際に、どのように色彩しきさいの調整を行なうかというと、その国の大多数の人々の皮膚ひふの色がもっとも美しく見えるように、調整して送り出すのだということであった。だから、欧米おうべいなどのテレビでは、日本人の顔がひどく黄色っぽく見えることになるのである。
 色というのは人間の知にとって「最後の秘境」であるとの私の確信はいよいよ強まっている。

(中村雄二郎ゆうじろう「色という最後の秘境」一九九六年による)
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a 読解マラソン集 11番 一般に人間には nngu3
 一般いっぱんに人間には対象のなかに自分と同質の生命を感じとる能力があって、この共感によって対象の生命と一体化することを感情移入という。そして犬や花であれ無生物の人形であれ、とくに自分より小さいものに感情を移入したときに、その対象を可愛いと感じるらしい。そういう感情移入が起こるのは対象の形や性質にもよるが、それ以上に人間の心の側の積極的な能力によっている。現に実際には生命のない人形を可愛いと思うのは、明らかに特定の文化に育てられた心の作用の結果だろう。
 ところで、この心の作用はもともとは「可愛さ」とは関係がなく、もっと広く物神崇拝すうはいという伝統的な精神の文化のなかで働いていた。巨大きょだいな岩石に畏敬いけいを覚えたり、日常の食物や道具を「もったいない」と感じるのは、そういう文化の現れであろう。いうまでもなく石も一つぶの米も可愛いものではなく、むしろ人が頭を垂れるべき対象であった。それをいえば人形も古代では可愛さの対象ではなく、恐れおそ たり願をかけたりするまじないの道具であった。なまじ人間の形をしているからややこしいが、人形は人間以上に大きい生命の象徴しょうちょうであって、いわば物神崇拝すうはいの精神を凝縮ぎょうしゅくして具象化した対象だったようである。
 これにたいして一ぴきの子犬に可愛らしさを感じるのは、これまではもっと直接的な生命の共感によるものと考えられてきた。大きさの点でも子犬は人間を超えこ た生命の象徴しょうちょうではなく、逆に人間より弱く小さな生命の持ち主である。それを愛するのは物神崇拝すうはいとは別の文化の現れであり、動物愛護と呼ばれる精神の発動だと考えられてきた。いったい動物愛護の感情がいつ生まれたか定かではないが、おそらく十七世紀ごろの近代的な自然観の誕生と何らかの関係があるだろう。ともかくそれは一つぶの米をもったいないと思う感情とは異なり、むしろ人間の子供を可愛がる感情に似ていると見なされてきた。そしてたぶん人形が人に可愛がられる対象に変わったのも、こうした文化の歴史的な変化と並行していたはずである。
 だが人形が初めて可愛い存在に変わったとき、それはおそらく人間の想像力の多大な発揮を必要とするものだっただろう。形も単純だったし、もちろん自分の力で動くものではなかった。犬やねこのような愛玩あいがん動物とは違っちが て、向こうから人間の感情移入の働きを誘発ゆうはつする存在ではなかった。これには直接的な生命の共感が難しいだけ
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に、人間はより多く努力して実在しない生命を読みとる必要があった。いいかえれば人形を可愛いと感じるためには、人は物神崇拝すうはいの文化を失いながら、物神崇拝すうはいのために求められるような強い想像力を要求されていたはずである。やがて何百年もの歳月さいげつをかけて、人間は少しずつ人形を可愛がる感情を育て、同時に可愛らしさをそそる人形の形状を生みだしてきた。しかしそれでも、近代文化は人形と愛玩あいがん動物のあいだに厳然たる区別を置く一方、どんな単純な人形にも生命を感じとる感受性を残してきたのである。
 こう考えると「アイボ」の出現はこの長い区別を攪乱かくらんし、物神崇拝すうはいと動物愛護の文化の終わりの始まりになるのかもしれない。まるで生きた動物のように反応する機械にたいして、人間にはそこに生命を読みとる強い想像力はいらない。可愛らしさは対象のほうからかってにやってきて、人間の受け身の心を直接にとらえてくれる。これを続けて行けば感情移入の能力は萎縮いしゅくして、やがて動かない人形は可愛いものではなくなるかもしれない。同時に愛玩あいがん動物の可愛らしさも生物の特権的な特徴とくちょうではなくなり、少なくとも感情の次元で動物と機械との区別が弱くなることが考えられるのである。
 すでに科学の世界では物神崇拝すうはい的な生命観は完全に否定され、生物と無生物の距離きょりさえ大きく縮まろうとしている。法律の世界でも動物と物体の区別は捨てられ、飼い犬を殺しても器物損壊そんかいとしてしか罰せばっ られない。そこへまったく思いがけない方向から、いま感情文化の世界にも同じ流れの変化が迫っせま ているのかもしれないのである。

山崎やまざき正和「物神崇拝すうはいと動物愛護ののちに」による)
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a 読解マラソン集 12番 モーツァルトという nngu3
 モーツァルトという人類史上まれにみる美を生み出した、近代西洋の機能和声音楽とは、人間にとって何なのか、それを考えるために、私は若いとき、医者になるのはやめて音楽学を勉強しようと思ったことがある。音楽美学のように哲学てつがく的・抽象ちゅうしょう的な概念がいねんを問題にするよりも、音を聴くき という具体的な感覚体験のほうからそれを考えようとしていたのは、私が医学部生だったからだろうか。
 機能和声音楽では、ソシレの属和音の次にドミソの主和音が来ると、音楽が一段落したという終結感が生み出される。属和音にファを加えてソシレファの属七和音にしてやると、この終結感はもっと明確なものになる。これは、シの音が半音上がってドに向かおうとし、ファの音が半音下がってミに向かおうとする、この二つの音のもつ強い方向性のためである。ある音がそれ自身にとどまろうとせず、自らを離脱りだつして別の音を求めようとする、ほとんど生理的といってよい法則的傾向けいこう、これが機能和声の基礎きそになっている。
 平均律でどの半音も等間隔とうかんかくで並んでいるピアノのような楽器だと、それぞれの音は完全に均質化されていて、だからこそ転調というような技法も可能になるのだが、そこにひとつの調性が与えあた られたとたん、音階上のそれぞれの音に、他の音と異質な個性が生まれる。鍵盤けんばん上のすべての音は、音の高さ以外はまったく均質であるはずなのに、いったん調性が与えあた られると、どの音もそれぞれ異なった未来指向性を示すようになる。
 この個性、たとえばシのド指向性は、人間の感覚にとって抗いあらが がたいもののようである。だからピアノと違っちが て平均律に固定されていない弦楽器げんがっきの奏者だと、シの音を弾くひ 場合、この指向性に無意識にひきずられることになり、シをあらかじめドの方向に寄せて、つまり平均律より少し高く、純正調に近い音で弾こひ うとする傾向けいこうが出てくる。モーツァルトはヴァイオリンソナタを書くとき、ヴァイオリンのシとピアノのシがなるべく重ならないように注意していたらしい。音が濁らにご ないようにという配慮はいりょからである。
 調性が与えあた られると音が個性をもつようになる。調性が与えあた られるというのは、それを決める音がすでにいくつか聞こえたということである。つまり、音楽にその経歴が与えあた られたということであ
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る。音楽が鳴りはじめると、あらゆる音は自らの経歴を、過去の想起(アナムネシス)を含むふく ことになる。過去に鳴ったすべての音の積分として鳴っているといってもよい。そしてこのアナムネシスが、現在の音の未来指向性(プロレプシス)を生み出す。シがドに、ファがミに進もうとするのは、調性のアナムネシスそのものが紡ぎつむ 出す微分びぶん的な方向のプロレプシスである。属和音から主和音への進行が終わると、プロレプシスはそこで一段落となり、さらなる行動への要求が消えて、安定感と終結感が得られる。
 生命的行動のアナムネシス・プロレプシス構造というのは、ヴァイツゼカーの理論を語るときに欠かすことのできないかぎ概念がいねんである。人間に限らず、あらゆる生きものの主体的な行動は、物体の物理的な運動と違っちが て、「そこから」と「そこへ」の性格をもっている。それはつねに記憶きおくに裏づけられた未来の先取だとヴァイツゼカーはいう。アナムネシス的な経歴に支えられたプロレプシス的な未来の先取りが、そしてそれのみが、主体の主体性を可能にしている。だから主体というものは、つねに現在の最先端さいせんたんでプロレプシス的に未来を生きている面と、それまでの過去の全部をアナムネシス的に生きている面との、境界的性格をもつことになる。(中略)
 人間の感覚は、このプロレプシスの意識とアナムネシスの意識とのはざまに「時間」を感じとる。時間という実在があらかじめ与えあた られていて、われわれがそれを消費しながら生きているのではない。生きるということは、行動の各瞬間しゅんかんが過去を継承けいしょうしながら未来を先取することによって、その界面に時間という現実を生み出し続けることにほかならない。

(木村びん「音楽と時間」より)
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