a 読解マラソン集 1番 第二に、通常の人間の nngi3
 第二に、通常の人間の生理的条件が同じだとして、つまり共通の感官に束縛そくばくされているとして、その共通性のゆえに、すべての事実は、すべての人間にとって共通であろうか。明らかに、そうではない。健全な視覚を備えた二人の人間がいたとして、その眼前にプロジェクターを通して一枚のスライドが写されている。そのスライドには、美しい紋様もんようが現われている。一方の人間はヴェテランの医師であり、かれは、その紋様もんようを、恐ろしいおそ   ペストきんと見ている。もう一方の人間は、顕微鏡けんびきょうや染色技術にはまったくうとい人物で、スクリーン上の紋様もんようを、ちょう現代派の絵画の一種と見ている。この二人の視覚、網膜もうまく上の昂奮こうふんの状態はあるいはほとんど完全に同じであるかもしれない。しかし、この二人にとって、眼前の「事実」は、明らかに違っちが ている。
(中略)
 こうして、「事実」は、それを受け取る人間の置かれた「内的状態」すなわち「知識」と、「外的状態」すなわち「コンテクスト」とに依存いぞんする。このことは、観察ということが、単に、ある人間の網膜もうまくにある刺激しげき与えあた られて昂奮こうふんが起こった、ということを意味するものとして捉えとら られるべきではなく、端的たんてきにその人間の総体としてしか捉えとら られない、ということをはっきり示している。
 第三には、言語のもつ束縛そくばくがある。「事実」は、観察されただけでは、まだ私的体験である。それは、何らかの伝達手段を使って言表されなければならない。その最も精妙せいみょうな手段が言語であることは言をたない。しかしその伝達手段は、逆に「事実」そのものに鋳型いがた与えあた 、規制し、束縛そくばくすることも認めねばなるまい。
 よく知られている事実だが、語彙ごいの少ないことで著名なイヌイットには、雪の状態に関して、われわれよりはるかに多くの表現があって、われわれには区別がつかないような微妙びみょうな差異を言い表わすことができる。そうしたことばをもったイヌイットとわれわれの間
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に起こる、雪についての「事実」の相違そういは、おのずから明らかであろう。
 このように考えてくると、「事実」というものは、幾重にもいくえ  、さまざまな枠組みわくぐ によって束縛そくばくされていることがわかるであろう。
 多少結論めいた言い方をすれば、「事実」とは「事実」の世界への可能性として存在する「自然」から、人間が、さまざまな枠組みわくぐ 、型、鋳型いがたをあてがうことによって選びとり、可能的多様体を現実的単様体へと収させることによって造り出されるものである。「事実」とは、そうしたやり方で選びとられたものであり、選びとるための枠組みわくぐ 鋳型いがたに従って、変化するのである。
 この結論は別段目新しいものではなく、デュナミスとエネルゲイアを区別したアリストテレスの昔から、繰り返しく かえ 繰り返しく かえ 、いろいろな形で語られてきた哲学てつがく的態度である。それをあらためてここで確認した理由は、自然科学が「客観的」で、それ以外には「自然との関わり合い方」があり得ない、という反論に対する再反論の根拠こんきょをそこに見出したかったからにほかならない。
 つまり、近代自然科学というのは、上に述べた意味で、一つの枠組みわくぐ 、一つの鋳型いがたであって、われわれは、そうした枠組みわくぐ 鋳型いがたを使って、可能的多様体としての自然から、一つの「事実」の世界を選びとり、構築し、それを「現実」の世界として、その上に「自然科学的世界像」を打ち建てているのである。

(村上陽一郎よういちろう西欧せいおう近代科学(新版)』による)
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a 読解マラソン集 2番 最近、本の真贋、テクストの nngi3
 最近、本の真贋しんがん、テクストの真実と虚偽きょぎの問題について、考えることがある。
 これは一つには、還暦かんれきも近づいてきて、人生が思いのほか早く過ぎ去ることに遅まきながらおそ     気づき始め、それに比べて読むべきテクストの数が依然いぜん、あまりに多いことを託ちかこ だしたからにほかならない。
 試みに数えてみる。あと、何冊の本が読めるのだろうか、と。仮に平均寿命じゅみょうまで、目も頭も気力もそれほど衰えおとろ ないで読み続けられたとしても、読書という名に値する読み方で読める本の数は、千冊くらいに過ぎないのではないだろうか。確かに専門の分野で研究史を概観がいかん纏めるまと  ときは、一日に数冊のペースで大意を取る速読をしたり、勤めている大学で卒論・修論・博論の審査しんさの時期にも集中的に大量に読む。また、トイレにおいてある本を、毎日少しずつ読み進む悪習もある。しかしそれらは読書と呼べるだろうか。それらを除外して、味わいながら行間に入り込んはい こ で読む本の数を指折ってみると、一週間で一冊、つまり一年で五十冊、二十年でたった千冊といった数字が浮かんう  でくる。『聖書』も一冊、『純粋じゅんすい理性批判』も一冊というふうに数えてならすならば、この数字は必ずしも控えめひか  に過ぎるとも思えないのである。この伝でいくと、学に志す十有五さいから耳順う六十さいまでに読める本の数も、二千冊を少し超えるこ  程度に過ぎない。よく「万巻の書を読破した碩学せきがく」といった言い方をするけれど、ものを考えない人ほどたくさん本を読むというショーペンハウアーの逆説も考えあわせると、ほとんど無意味な数字のように思える。
 読める量がこのように限られている限り、読む一冊一冊の質を高めるほかはないだろう。すなわち、なるべく効率的にホンモノと出会いたい。それで本の真贋しんがんといったことが問題になってくる。
(中略)
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 そこで振り出しふ だ 戻るもど ことになる。真贋しんがんをどうやって見分けるか。向田邦子くにこの小編に、信頼しんらいできる美術商からホンモノとニセモノを見分けるコツを聞き出している文章がある。それによれば、答えは一言、「あたたかさ」があるか否か。すなわち、ホンモノには美そのものへの愛がある。だから温かい。ニセモノにはそれがないので冷たい、ということであろう。確かにニセモノは、それで一儲けもう しようという金への愛はあるかもしれないけれど、美そのものへの愛を本質的に欠いているだろう。その温度差が、真贋しんがんを見分ける基準となる。これは言い得てみょう真贋しんがん判別法であって、そのまま本の真贋しんがんにもある程度当てはまるように思われる。
 哲学てつがくとはフィロソフィア・知への愛であり、哲学てつがくに限らずホンモノのテクストは知への愛、何らかの価値への熱い思いをもっているはずであり、その意味で本質的に温かい。それに比べ、業績作り、金儲けかねもう 頼またの れ仕事、勉強覚え書き、研究で溜まった  たものの排泄はいせつ作用、等々のためだけに書かれた本は、どこか冷たいだろう。そういう視点からホンモノを見分け、そしてそのホンモノを、我々自身、知への愛をもって、すなわち温かさをもって、熱をもって、読み解いていく。それ以外に、真贋しんがんということはないのかも知れない。思えば一つの著書の中で、そのような熱のある箇所かしょは限られているかも知れず、またニセモノにもどこかに熱い部分が隠れかく ている場合もあるやも知れず、結局、真贋しんがん虚実きょじつ入り交じってのせめぎ合いの中で、こちらの温かさに応じてホンモノが現出してくるというていのものかも知れない。骨董こっとう屋に「信用がつくに従い、かれ茶碗ちゃわんが美しくな」るものであり、結局「鑑賞かんしょうも一種の創作だ」という小林の言は、この間の事情を言い当てたものにほかならないだろう。

(関根清三「本の真贋しんがん」による)
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a 読解マラソン集 3番 日本には室町時代から nngi3
 日本には室町時代からずっと受継がうけつ れ、代々磨きみが ぬかれてきた職人のわざ、芸、技術と、それを担ってきた職人たちの作法があった。職種は大工、建具、屋根、左官、畳屋たたみや、経師屋と異なっていても、彼らかれ は家を建てるという一つの目的のもとに集った職業集団であり、技を競いあう建築のプロであった。職人の誇りほこ 彼らかれ を支えていた。人が見ていようがいまいがプロとしての誇りほこ を満足させる仕事をすることが、彼らかれ の心意気であったのだ。日本にはそういう完成しきった職人というプロの型があった。
 が、それも一九六〇年代に商品としての家屋が出現して以来、急速にこわれつつある。昔は大工たちが作る家屋は百年、二百年と代々の人間が住めることを前提にしてきたものだったが、商品としての家屋は見てくれのよさを第一に置き、永続を念頭におかず、せいぜい一代三十年(実際には二十年くらいでダメになる)もてばよいとして作られたものだ。レディーメイドの工場製品であるから、プロの技術を必要とせず、素人や半端はんぱ職人がマニュアルどおりに組立てていけば完成する。この商品としての家屋が主流となったために、五百年もつづいた日本の職人芸はいまや滅亡めつぼう寸前のところまで追いこまれているのである。注文主は無名の大工に頼んたの で伝統的家屋を作るより、有名な大会社の恰好かっこうのいい既成きせい品を信用し好むようになったからだ。
 当然ながらそこには完成した職人の技術はなく、それとともに職人の心意気も作法も失われた。人間の行動の上の型が失われたのと同じように、仕事の型も、仕事をする工作人の作法もなくなってしまった。
 型として厳然とあった職人の技術と作法とが失われた背景には、ここでも日本の高度経済成長時代の影響えいきょうがあったことがわかる。家屋の大量生産による商品化と、工場による生産、建築技法のマニュアル化といった現象が、五百年来つづいたこの国の建築技術とそれを担う職人とを衰退すいたいさせた。型の文化は破壊はかいされ、職人のマナーも失われた。つまりここでも社会の生産構造の変化が古き伝統文化
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壊しこわ 、それに代る新しい作法を作るにいたらなかった事実が、目に見える形で起っていたのである。いまあの昔ながらの職人気質がこの国のどこに生きているだろう。
 現代社会のいろんな面でそういうふうに、経済構造の大変化のために人間の生き方の型がこわされてしまった。古い価値観が破壊はかいされ、それに代る新しい柱がたてられぬままぐらついているのが現代だと言うしかない。
 『ハムレット』第一幕第五場の終りに、ハムレットの科白として、
 The time is out of joint.
 (小田島雄志ゆうし訳「今の世のなか関節がはずれている。」、木下順二訳「今は世の中の関節が外れている。」)
 とある。現代は世界中どこでもこの言葉のようになってしまっているようだが、中でもとくにわが日本は戦後五十年のあいだに今までのこの国人くにびとの生き方を支えてきた関節がすべてはずれたまま、新しい関節の構造は作られずに、がたがたぐらぐらしたままになっているかの如くごと だ。それが一方では政治家や官僚かんりょうや経済人やの汚職おしょく腐敗ふはいといった倫理りんり退廃たいはいとしてあらわれ、一方では社会全体における倫理りんり観と作法の喪失そうしつとなってあらわれているのであろう。そしていわゆるバブル景気が破裂はれつして経済全体がしぼんでしまった現在ようやく人の目につきだし、こわされたものに代る新しい社会構造と、その中での人間の生きる型とが求められだしたということなのであろう。必要なのは新しい価値体系であり、新しい倫理りんり観である。倫理りんりという関節をもう一度組み立て直さなければ、日本というからだ全体が再生することは不可能だという状態に、いまわれわれは置かれている。家は柱がなければ立たぬように、人間を人間たらしめるのは倫理りんりなのだから。

(中野孝次の文章による)
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a 読解マラソン集 4番 日本人は記録魔だ、と nngi3
 日本人は記録だ、と言う人がある。何でも、やたらにメモをとる、記録しておく。何のためということはない。おもしろそうなことも、おもしろくなさそうなことも、無差別に記録してしまう。事実がそこにあるからであろう。こういう記録的なところが、かえって日本に歴史らしい歴史の発達をおくらせることになった。歴史には史観という倫理りんりが必要で、がらくたの骨董こっとう屋のような人間は歴史家になることができない。
 思想の「体系」もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々ともくもく 記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いつらぬ 不朽ふきゅうのものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却ぼうきゃくのなかへ棄てす さる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。
 日本人は無常という仏教観が好きだが、頭の中にも、無常の風が吹いふ ていて、しっかりした体系の構築を妨げさまた ている。しかし、へたに建物が立っていない空地だから、新しいものを建てるのに便利である、とも言えるのである。
 日本語はどうも、俳句や短篇たんぺん珠玉しゅぎょくのような随筆ずいひつに見られる点的思考に適している。逆に、大思想を支えるような線的思考の持久力には欠けている。しかし、持続力はときによくない先入主となって、精神の自由な躍動やくどうをじゃますることがないとは言えない。「ひらめき」をもつのには、日本語はなかなか好都合なのである。
 このごろ、やたらに、対話だとかコミュニケイションだとかが騒がさわ れているが、元来、日本人は多言、雄弁ゆうべんをきらい、沈黙ちんもくの言語を深いものと感じるセンスをもっている。巧言令色こうげんれいしょくスクナシ仁。そして、問答無用。
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 ほかの人間と議論して、正と反との葛藤かっとうの中から合という中正を見つけていこうという弁証法のような考え方とは、日本人はもともと無縁むえんである。日本にレトリック(修辞学)や弁論術が発達しなかったのは当然であろう。対話によって思考を展開するのではなくて、独白、あるいは詠嘆えいたんによって、最終的な形の思考を、投げ出すように表現するのが日本的発想である。
 言いかえると、日本人は言語を使用しながら、ともすれば、伝達拒否きょひの姿勢をとりやすい。他人のちょっとした言葉にも傷つく繊細せんさいさをもっていることもあって、自分のからにこもって内攻ないこうする。発散しない表現のエネルギーは鬱積うっせきして「腹ふくるるわざ」になるが、いよいよもって抑えおさ られなくなると、爆発ばくはつするのである。
 宗教における悟道ごどう啓示けいじというのもこの範疇はんちゅうに入れて考えてよい。喫茶店きっさてんで友人とコーヒーをすすりながら悟りさと をひらく、というようなことは考えにくい。やはり、面壁めんぺき九年の修行の方がオーソドックスというものである。日本語は、どうも出家的創造性に適していると言うことが出来そうである。論理に行きづまった西欧せいおうの知識人が、ぜんに絶大な魅力みりょくを見出しているのも故なしとは言えないように思われる。
 出家的創造は、対話的発想による論理のように持続はしないが、高圧にまで圧縮されたエネルギーが爆発ばくはつするときの力には、天地の様相を一変させるものすごさがあることも忘れてはならない。
 日本語が、いわゆる論理的でないと言われる、まさにその点に、日本語の創造的性格が存するということは、われわれを勇気づけるに足る逆説である。

(外山滋比古しげひこ「日本語と創造性」による)
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