第二に、通常の人間の生理的条件が同じだとして、つまり共通の感官に束縛されているとして、その共通性のゆえに、すべての事実は、すべての人間にとって共通であろうか。明らかに、そうではない。健全な視覚を備えた二人の人間がいたとして、その眼前にプロジェクターを通して一枚のスライドが写されている。そのスライドには、美しい紋様が現われている。一方の人間はヴェテランの医師であり、彼は、その紋様を、恐ろしいペスト菌と見ている。もう一方の人間は、顕微鏡や染色技術にはまったくうとい人物で、スクリーン上の紋様を、超現代派の絵画の一種と見ている。この二人の視覚、網膜上の昂奮の状態はあるいはほとんど完全に同じであるかもしれない。しかし、この二人にとって、眼前の「事実」は、明らかに違っている。
(中略)
こうして、「事実」は、それを受け取る人間の置かれた「内的状態」すなわち「知識」と、「外的状態」すなわち「コンテクスト」とに依存する。このことは、観察ということが、単に、ある人間の網膜にある刺激が与えられて昂奮が起こった、ということを意味するものとして捉えられるべきではなく、端的にその人間の総体としてしか捉えられない、ということをはっきり示している。
第三には、言語のもつ束縛がある。「事実」は、観察されただけでは、まだ私的体験である。それは、何らかの伝達手段を使って言表されなければならない。その最も精妙な手段が言語であることは言を俟たない。しかしその伝達手段は、逆に「事実」そのものに鋳型を与え、規制し、束縛することも認めねばなるまい。
よく知られている事実だが、語彙の少ないことで著名なイヌイットには、雪の状態に関して、われわれよりはるかに多くの表現があって、われわれには区別がつかないような微妙な差異を言い表わすことができる。そうしたことばをもったイヌイットとわれわれの間
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