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読解マラソン集 5番 社会において nnge3
社会において最も重要なのは、複数の人間を拘束する決め事をつくり出すことである。それにはいろいろなやり方がある。アメリカ人なら、その状況にあてはめるべき客観的ルールをそれぞれ主張して、どちらが正しいかを争うだろう。アメリカに限らず、近代西欧社会はルールに基づいて権利を主張する方法をとる。また中国人なら、最初に互いの利害を徹底的に主張したうえで妥協点を探すだろう。
日本のやり方はそのどちらでもない。日本では決め事は、対立する利害を相互に自発的にゆずり合い、段階的に妥協点を発見していく形でつくり出される。「あなたの気持ちはわかる、だから私の気持ちもわかってくれ」「ここはゆずるからあそこはゆずってくれ、お互いに痛みはわかち合おう」。対立する立場にある二人が一歩一歩近づき、最終的な妥協に至る。日常の会話で、会社の会議で、そして政治の場面で、人々はこうしたゲームをくり広げてきた。
西欧や中国のやり方と比較した場合、この方法は関係者の自発性をそこなわず、すみやかに意思統一できる点でたしかにすぐれている。だが同時に、ひとつ大きな構造的弱点をもかかえている。こちらがゆずったのに相手がゆずらなければ、ゆずったほうの丸損である。それでは妥協しようという気にはならない。こちらが譲歩すれば相手も譲歩するという保証があって、初めてこの決め事プロセスは一般的に成立しうるのである。
実際、日本人と中国人が交渉する場面ではこうした齟齬が起きやすい。日本人のほうは相手の譲歩を期待してまず譲歩する。ところが、中国人の側から見れば、それは日本人側の立場の弱さを示す。だから、自分の利害をいっそう強く主張する。ところが、それは日本人にとっては、相手の好意につけこむという最も許しがたい振る舞いなのだ。そこで当然交渉はご破算になる。けれども、じつは話はここで終わらない。中国人にとっては、最初はゆずっておきながら突然強く出るのは、それこそ騙し討ちなのだ。
こんな場面にぶつかったとき、日本人はこう叫ぶだろう。――「なんで人の気持ちがわからないんだ!」。まさにそのとおりで、じつは「気持ちのわかりあい」というのは、日本社会の社会的決め
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事をめぐるコミュニケーションにおいて、相互の譲歩を保証する「装置」なのである。相手の気持ちを察し、それを迎え入れるような形へこちらの気持ちも動く。相手の感情をこちらの感情のなかに取り込む。この種の感情の伝染性を日本人は大量にもっており、それによって相互の譲歩が保証されている。
つまり「気持ちのわかりあい」は日本固有の社会的な決め方、社会的コミュニケーションの様式と密接に結びついているのだ。そうした点で、日本は「間人主義の社会」だといわれる。「間人主義」というのは西欧の「個人主義」に対応する概念で、(一)相互依存主義――社会生活では親身な相互扶助が不可欠であり、依存し合うのが人間本来の姿である。(二)相互信頼主義――相互依存関係の上では、自己の行動に対し相手も自己の意図を察してうまく応じてくれるはずだという相互信頼が必要である。(三)対人関係の本質視――いったん成立した関係はそれ自体価値あるもので、その持続が無条件に望まれる、といった人間関係の特徴をさす。
(佐藤俊樹『〇〇年代の格差ゲーム』より)
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読解マラソン集 6番 天文学者が宇宙の彼方を nnge3
天文学者が宇宙の彼方を観測しているときに、宇宙のそこで生じている出来事に、脳は何ら関係していない。しかし、その出来事を天文学者が観測しなければ、つまりそこで天文学者の脳が関与しなければ、そんな出来事はヒトにとって、存在しないも同然と言ってよいだろう。宇宙論では、ある物理定数を測定と計算の結果確定すると、そうして定数を決定した宇宙と、決定する以前の宇宙とは、異なったものになるという考えすらある。むろん、定数を決定するのはヒトの脳である。
ヒトが人である所以は、シンボル活動にある。言語、芸術、科学、宗教、等々。これらはすべて、脳の機能である。われわれはお金を使い、衣服や帽子、アクセサリーを身につけ、車にお守りを吊し、ゴルフ道具を担ぎ、碁やマージャンで暇を潰す。これらはすべて「具体化したシンボル」であるが、これもまた、すべて脳のシンボル機能に発する。
われわれの社会では言語が交換され、物財、つまり物やお金が交換される。それが可能であるのは脳の機能による。脳の視覚系は、光すなわちある波長範囲の電磁波を捕え、それを信号化して送る。聴覚系は、音波すなわち空気の振動を捕え、それを信号化して送る。始めは電磁波と音波という、およそ無関係なものが、脳内の信号系ではなぜか等価交換され、言語が生じる。つまり、われわれは言語を聞くことも、読むことも同じようにできるのである。脳がそうした性質を持つことから、われわれがなぜお金を使うことができるかが、なんとなく理解できる。お金は脳の信号によく似たものだからである。お金を媒介にして、本来はまったく無関係なもの同士の交換が生じる。それが不思議でないのは(じつはきわめて不思議だが)、何よりもまず、脳の中にお金の流通に類似した、つまりそれと相似な過程がもともと存在するからであろう。自分の内部にあるものが外に出ても、それは仕方がないというものである。
ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を唯脳論と呼ぼう。ヒトが人である所以は、大脳皮質が発達するからである。後に述べるように、そこからヒトのシンボル機能が発生する。ヒトの脳と動物の脳が異なることは、誰でも知っている。ゴリラの脳とヒトの脳を机の上に複数個並
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べて見れば、素人でもただちに両者を識別するであろう。しかし、それはそれだけのことだとも言えるのである。つまり、ヒトの脳もゴリラの脳も、見ようによってはさして違わない。唯脳論は、ヒトとゴリラの類似と差異とを説明しようとする。
それだけではない。唯脳論は、ヒトの中にある差異を説明しようとする。ヒトは考え方の違いをめぐって大喧嘩をする。それが利害関係であるなら、まだ救いようがある。利害を調整すればいい。しかし、基本的な考え方の違いというのも、よくあることである。これは利害がかかわらないだけに、逆に調整が困難である。いわゆる「神学論争」というやつだが、その調整は唯脳論に頼るしかあるまい。
(養老孟司『唯脳論』による)
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読解マラソン集 7番 近代文明は nnge3
近代文明は、構造の発想に加えて効率と合理性を重んじる機能の発想を社会運営の中枢原理として取り込み、環境制御による成果志向的な社会運営法を確立した。近代は構造よりも機能を優先することで、中世文明の脱構築をはたしたのである。より正確に表現すれば、機能の発想が構造の発想を包摂するかたちで、文明のメタモルフォーゼ(変態)が起きたことだ。成果を上げるために人や物を制御する。目的を達成するために、効率的な手段を講じる。このような発想転換をした末に生まれたのが近代文明だった。機能の発想は、成果を確保するためには構造(ルール)は次つぎと変更してよい、構造を維持することよりも環境変化に適応することのほうが重要である、とする価値を生む。実際、近代社会では法や規範などの規則は絶えず変化しており、変化することが近代の本質であるといえる程、変化が奨励されてきた。
機能的な成果主義は、規則にしたがうだけであったり、それに拘泥するだけでは、競争に取り残され敗者の憂き目をみる、という倫理基準をもたらす。成果を上げて進歩、発展することが評価基準となる。このため自己を取り巻く環境への一般的適応能力を高めること、成果を高めるための技能や知識を習得することが至上価値とみなされる。また、成果を確保するために、目標に対する手段を緻密に考量し、細心の注意を払って事のなりゆきを見守り、絶えずアクションを修正することが求められる。さらに、人びとに対して強圧的になると、志気が低下して成果の確保が困難になるので、志気を損なわぬよう各人を管理する必要が生じる。こうして、機能の文明は支配に代わって管理の発想をもたらした。機能の文明とは管理が優先する文明のことである。
これに対し、来たるべきポストモダンを特徴づけるのが意味の文明である。その特徴は、機能の発想を超え、いまだ構造化していない領域での営みを重視することにある。そこは制御による成果の確保が中心となるのではなく、また規則によるパターン維持が中心になるのでもない。差異の分節による意味創発が既存の伝統を揺るがし、文化としての意味の追求が中心となる領域である。
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(中略)
意味の文明の兆候は、物質的欠乏から解放されて、人びとの主たる関心が所有から存在へ、物質から記号へ、欠乏から差異へと移行するなかにあらわれている。差異としての記号がもてはやされ、商品を物=差異=記号=意味の方程式によって脱物質化する消費社会の風潮は、現段階では差異の戯れとしての意味志向にとどまるとはいえ、効率性と合理性が支配する経済の攪乱要因となっている。また現在、生産様式とそこでの人間関係が優位する機能の文明に対し、消費における意味作用がゆらぎを引き起こすようになっている。生産が優位した社会から消費社会への移行は、機能優先の発想に風穴をあけることになるだろう。
(今田高俊『意味の文明学序説』より)
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読解マラソン集 8番 英語にキャノンCanonという nnge3
英語にキャノンCanonという単語がある。もとはギリシャ語で、尺度、基準の意味だった。それがキリスト教の正統的戒律、聖書の正典の意味になり、さらに文学・文化の標準ないし標準的作品を意味する言葉となっている。
アメリカでは近ごろ、このキャノンの見直しが話題になっている。社会現象としてはこれまで正義とされてきたものが不正とされ、野蛮とされていたものが逆に崇高と見なされるたぐいのことが多い。西部劇映画における騎兵隊と先住民(インディアン)の描き方など、その典型的な例となるだろう。そういう傾向を反映して、歴史の書き換えの要求は広範になされているらしい。文学でも同様である。古典とされていた作品がわきに押しやられ、従来無視されていた作品がキャノンの座に押し上げられる。そういう文学史の本や教科書が相次いで現われ、大学などにおける文学・文化教育にも大幅な変革を迫っている。
これに呼応して、日本におけるアメリカ研究も根本的に変わらなければならない、という声が学会などでよく聞かれるようになった。だがまた、そんなに急に変われるものか、といった不安の声もよく耳にする。
キャノンの見直しは、本当は別に新しいことではない。かりに日本文学で『万葉集』や芭蕉は不動の地位を占めてきたとしても、『古今集』や『新古今集』、西鶴や蕪村の地位は、しばしば揺らいできたのではなかろうか。一世を風靡した紅露逍鴎のうち、いまも衆目の認める「文豪」は森鴎外のみで、他は特別の愛好家以外にはなかなか読もうとしない。そしてこの四人の陰にかくれていた夏目漱石が、いまでは日本近代文学を代表する地位を占めているように思われる。
アメリカでも同様である。十九世紀に最高の詩人と仰がれていたロングフェローは、二十世紀に入ると神聖な座から引きずり降ろされてしまった。彼を含めて、文学界に君臨した「ケンブリッジ・ブラーミン」いまいずこだ。そして、粗野で猥雑とされていたホイットマンが、アメリカの代表的詩人と見なされるようになった。アメ
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リカで最初のノーベル文学賞受賞作家シンクレア・ルイスをはじめ、いまでは研究者にも読まれなくなってしまった文学者も数多い。
だが最近のアメリカでのキャノンの見直しは、個々の人物や事件の長い時間をかけた見直しとは違う。それはアメリカの社会や文化の全体的見直しと結びついているのだ。一九六〇年代からのアメリカの激変、つまり公民権運動、さまざまな少数派人種の台頭、あるいはフェミニズムの進展などがあり、かつての白人男性中心の文化は打倒の目標とされ、多文化主義が唱えられるようになった。ポストモダニズムなど、伝統的価値の権威を否定する批評理論も、この動きを助けているといってよい。
(中略)
このように見てくると、キャノン見直し運動は、現代のアメリカにおける価値観の動揺と文化の正統性をめぐる戦いであることが分かる。私たちがそれを理解し、その見直しの方向に注意を払う必要は、間違いなくある。それを日本に適用して役立てられる部分も多いように思う。
(亀井俊介『わがアメリカ文学誌』より)
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問題
nnge-02-4 問題1
問1 読解マラソン集5番「社会において」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 日本では決め事は、対立する利害を相互に譲り合うことで、一挙に妥協点を見出す形で行われる
B 日本流の決め方では、一方が譲ったのに相手が譲らなければ、譲った方が損をすることになる
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答1
nnge-02-4 問題2
問2 読解マラソン集5番「社会において」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 日本人が中国人相手に、相手の譲歩を期待して自分が先に譲歩すると、かえって不利になることがある
B 気持ちのわかりあいというのは、日本社会に固有なコミュニケーションの様式と結びついている
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答2
nnge-02-4 問題3
問3 読解マラソン集6番「天文学者が宇宙の彼方を」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 我々が、お守りやアクセサリーのようなシンボルを持つのは、物にもともとシンボル機能があるからである
B 視覚系は電磁波をとらえ、聴覚系は音波をとらえ、それが脳の中で等価交換されている
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答3
nnge-02-4 問題4
問4 読解マラソン集6番「天文学者が宇宙の彼方を」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A お金を媒介にすると、本来は無関係なあらゆるものの交換が可能になる
B 考え方の違いを調整することは、利害関係を調整することより難しい
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答4
nnge-02-4 問題5
問5 読解マラソン集7番「近代文明は」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 近代は、構造の発想を排除し、機能の発想を社会に広めた
B 機能の発想を重視するなら、ルールは変更してもかまわない
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答5
nnge-02-4 問題6
問6 読解マラソン集7番「近代文明は」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 機能の文明の中では、強制的に何かをさせようとするとかえって成果が出なくなる
B 機能の文明のあとに来る意味の文明は、形を変えた構造の文明でもある
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答6
nnge-02-4 問題7
問7 読解マラソン集8番「英語にキャノンCanonという」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A アメリカでは、西部劇でインディアンを野蛮に描く描き方が、そうでない描き方に変化している
B 文学における古典と呼ばれた作品の価値も、時代とともに変化する
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答7
nnge-02-4 問題8
問8 読解マラソン集8番「英語にキャノンCanonという」を読んで次の問題に答えましょう。
○と×との組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 初期のころ、夏目漱石は森鴎外よりも有名ではなかった
B 最近のアメリカにおけるキャノンの見直しにもかかわらず、アメリカの価値観は変化していない
1 A○ B○ 2 A○ B× 3 A× B○ 4 A× B×
解答8