a 読解マラソン集 1番 なぜ、通常、私たちは nnge3
 なぜ、通常、私たちは、「私が『私』といふとき、それは厳密に私に帰属するやうな『私』で」あると考えるのか、また「私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流かんりゅうする」(三島由紀夫『太陽と鉄』)と信じているのか。その理由は、私たちが、「自己のなかに必ず跡づけあと  られている他者との関係の動き」を、そうと気づくまでもなくすぐに縮小し、還元かんげんしてしまうからである。つまり、もう少し具体的に言えば、小林秀雄ひでお繰り返しく かえ 指摘してきしているように、「精神が考へたところを言葉が表現するのだといふ迷妄めいもう」をどうしても逃れのが られないからである。

何故人々がこの平凡へいぼんな事実を忘れるかといふと、日常生活に於いお ても、人々は精神の考へたところを言葉が表現するのだといふ迷妄めいもう如何にいか しても忘れられないからである。処が事実、人は考へるのは自分の精神なのか自分の言葉なのか知る由もないのである。考へるといふ事と書くといふ事は二つの事実を指してはゐないのだ。言葉といふ技術を飛びこして何かを考へるとは狂気きょうき沙汰さたである。(小林秀雄ひでお「アシルとかめの子?」)

 私たちはランボーの小説を読むとき、フロベールの小説を読むとき、そこにたしかに作品があるという気がする。そこに独特の音色を聴きき 取り、生き生きした筆致ひっち描かえが れた輪郭りんかくとか色彩しきさいを見わける。かけがえのないトーンや声調を見い出し、なにかしら新鮮しんせんな意味合いが独自な個的特性として刻印されているのを感得する。だからそういう作品(創作され、おくられた言葉)を生み出し、おくった作者がいるということも確実で、疑いようがないと思える。しかしそうした独自性や個的特性は、私たちがふつうそう考えているように、その個人(作者)に本来そなわっているような固有な同一性なのであろうか。自己のうちで必ず自己とは異なる他者との関係の動きを、他者へとおくり返す転送の運動の痕跡こんせきを縮小し、還元かんげんして、それ自体として充満じゅうまんし、自らに現前しているような独自性や個性なのであろうか。
 もし作者(個人)がそれらの言葉の構築(作品)を創造し、おく
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った絶対的な起源である――言葉を生み出し、おくる行為こういや運動の外側に抜け出しぬ だ 、上からそれを宰領さいりょうし、統轄とうかつする超越ちょうえつした創造主体である、いわばその「作品」に対して「神」のごとき存在である、と絶対的に決定できるならば、そうみなすことに根拠こんきょがあるかもしれない。しかし作者は自分の言葉を創出し、おくる行為こういや運動を開始する真の始源である――その行為こういや運動を上から統轄とうかつする完璧かんぺきな創造主体である、と絶対的に決定することはできないだろう。なぜなら作者は、既にすで 、そしてつねに、おくられている言葉の運動を通して、その運動のなかで、その運動としておくるからだ。まったく恣意しい的に定まった必然として動いている形相性(と一体化した意味内容)の相互そうご的諸関係の体系的作動のなかにいつも既にすで 巻き込まま こ れながら、つねにおくられつつ、おくる運動によって、つまりつねに他なるものとの諸関係の動きを通じて、そういう動きとしておくるからである。語るということ、書くということは、その実情に最も則して言うとすれば、そういう他なるものとの諸関係の動きに参入するということではないだろうか。そうするとどのような個人であれ、作者であれ、言葉を創出し、おくるのではなく、中継ちゅうけいしながら組み換えく か たり、ずらせたりしているのだと言ったほうが事実に近いのではあるまいか。
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a 読解マラソン集 2番 外国語には nnge3
 外国語には二者択一にしゃたくいつとか総てか無かというような思考法がある。二者択一にしゃたくいつは対立するものがあるとき、そのどちらかひとつを選択せんたくすることだが、それは同時に他が否定されることを意味する。両者のよいところを採る折衷せっちゅう主義もないわけではないが、両者を共存させる考えはめずらしい。これはキリスト教という一神教の影響えいきょうであるという説もあるが、絶対的対立が強調されている。総てか無かも一種の二者択一にしゃたくいつであるということができる。
 わが国では本来ならば併存へいそんできないはずのものが何ら矛盾むじゅんも感じられないで共存している。一般いっぱんの家庭で神棚かみだな仏壇ぶつだんとが同じ部屋にあって、朝夕それぞれの様式によって「拝む」ことをきわめて自然であると思っている。仏教を信仰しんこうすれば神は否定しなくてはならないという一元論ではなく、仏も神も認める。多元論、複元論である。
 一元論から見ると多元論が得体の知れないものに見えるのはやむを得ないことかもしれない。日本語は多元論的文化の中で発達してきたものであるから一元論的一貫いっかん性、対立の原理をはっきりさせない。「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」主義である。一元論からすれば矛盾むじゅんだということになる。
 しかし、多元論のメリットも忘れてはならないであろう。一元論は明晰めいせきではあるけれども同一平面の上における問題しか処理することができないのは、矛盾むじゅんする次元のものをすべて棄てす てしまっているからである。それに対して、多元論では立体的な論理を追求することができる。一元論の論理では芸術とか生命現象をとらえにくいが、多元論は感情の比較的ひかくてきこまかいヒダにまで入って行くことができる。
 一元論の論理が平面幾何きか学的であるとすれば、多元論の論理は生物学的であるといえよう。
 多元論においては首尾しゅび一貫いっかんということはむしろ退屈たいくつな単調さと感じられやすい。ドライブ・ウエイが一直線に伸びの ているとすれば運転者はかえって運転を誤りやすいといわれる。適当な曲線の変化があった方がよい。論理においてもまったく純粋じゅんすいなロジックはどう
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も人間らしさの乏しいとぼ  冷たいものを感じさせがちである。悲劇はあくまで深刻でなくてはならない。いやしくも観客が笑いこけるような場面があってはよろしくないとするのが純粋じゅんすいを貴ぶ一元論である。ところが、シェイクスピアのような天才は滑稽こっけいな場面を挿入そうにゅうすることによって、かえっていっそう悲劇感を高めるコツを知っていた。しるこをうまくするには砂糖だけでなく、ひとつまみの塩を入れるのと同工異曲である。どうもわれわれの感覚には純粋じゅんすいな論理だけでは満足しないところがある。それを考慮こうりょに入れているのが多元論的な論理というわけである。
 一見矛盾むじゅんするものを調和させる多元論にとって、不可欠の方法は「とり合わせ」である。同類のものや筋のとおったものを集めるのではない――それでは月並みで退屈たいくつになる――互いにたが  範疇はんちゅうを異にするものを結び合わせて意外のおもしろさを出す。それが「とり合わせ」である。ぼたんに唐獅子からじし、竹にとら、などはそのとり合わせの感覚によって生れた絵画的世界の例である。不調和を越えこ た調和を支える論理に着目したものである。日本語はこういう柔軟じゅうなんな論理を表現するのに適しているし、逆に言えば日本語の論理はそういうとらえどころのない性格のものにならざるを得ない。

外山滋比古の文章による)
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a 読解マラソン集 3番 近代小説は一般に nnge3
 近代小説は一般いっぱんに無制約な形式であるといわれている。無制約であるとは、限界まで希薄きはく化された様式性を意味する。私に帰属する固有の内面を、そのまま忠実に模写し外部に対象化するには、表現媒体ばいたいはできるだけ無制約的であることが望ましい。近代以前の日本語文には、様々な制約が課せられていた。明治期における「言文一致いっち」とは、たんに口語と文語の一致いっちを目指したものではない。国木田独歩の『武蔵野』以降の日本の近代小説であろうと、会話部分が忠実に「口語」を再現しているといえない点をあげるまでもなく、それは歴然とした事実だろう。今日でも事態は同様である。「対談」や「座談会」でも、会話のテープを忠実に起こした原稿げんこうと、公表される文章とのあいだには大きな相違そういがある。「対談」や「座談会」として公表される文章のほとんどは、日本の近代小説の会話体を規範きはんとして修正されているのだ。たんにテープを起こしたにすぎない文章は、読者の立場からいえばほとんど読むに耐えた ない。
 明治における「言文一致いっち」とは、文語と口語の一致いっちを目指すことを必ずしも意味していない。それは軍艦ぐんかんや軍隊を製造したり運営したりする主体(近代的な私)の内面をそれ自体として過不足なく外面化しうるための、可能な限り無制約的で無媒介ばいかい的な、換言かんげんすれば様式性に制約されない透明とうめいな表現形態を無から創造するために求められた運動にほかならない。「言文一致いっち」によって生誕した日本の近代小説のスタイルは、主語一人称いちにんしょう代名詞を「自分」に、文章末尾まつびを「デアリマス」に統一するよう決定された軍隊用語のそれとほとんど構造的に照応している。
 明治期において新文章をめぐる試行錯誤しこうさくごが、もっぱら近代小説の文体をめぐる問題として顕在けんざい化したことには必然的な理由がある。小説形式は他の伝統的な文芸ジャンルと比較ひかくして無制約的な、ぼつ様式的なジャンルである。だから小説は近代的な内面を外面に過不足なく移しかえる透明とうめいな表現形態として、近代における文学表現の王座の地位を確保しえた。
 しかし以上のような発生メカニズムの解明は、近代小説の自己
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了解りょうかいを裏切らざるをえない。近代的な私は、固有の内面を小説形式という無制約的で透明とうめいな表現形態において、作品に対象化=外面化する。だが、「言文一致いっち」が文字どおりの言文一致いっちを意味していないように、無制約的でぼつ様式的であると信じられた近代小説の言語には、暗黙あんもくの制約性や様式性が課せられているのだ。それは主体を規制するというよりも、主体なるものを事後的に産出するような超越ちょうえつ的なメカニズムにほかならない。近代小説の作者および読者は、この超越ちょうえつ的なメカニズムを制度であるとは認識しない。むしろ原理的に認識しえないというべきだろう。
 近代小説の言語と文体は近代以前に普遍ふへん的だった「作者のいない作品」の水準を超えこ て、作者=作品(内面=外面)という直結形態を可能ならしめたと自負している。けれども認識されない表現形態の物質性は、無意識的な制約として近代小説の作者および読者を密かに統御とうぎょし支配している。それは文体についてのみいえることではない。近代小説の発生史を克明こくめいに検証してみれば、近代的な意識には大気のように自明であると信じられているものが、長年の曲折の結果としてかろうじて確立されたシステムにすぎないことも了解りょうかいされるだろう。

笠井かさい潔氏の『探偵たんてい小説論序説』による)
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a 読解マラソン集 4番 「くるまざ」という言葉は nnge3
 「くるまざ」という言葉は、室町時代のころにはすでに日本語の中に定着していたらしい。一六〇三年(慶長けいちょう八)に日本イエズス会が長崎ながさきで刊行した有名な『日辞書』にはCurumazaniという語が採られていて、例文としてCurumazani nauoru(車座に直る)があり、「みなの人々が円形に座につく」という説明がついている。
 何の具体的な根拠こんきょもないことだが、私はこの「車座」という語が、いずれにしても乱世の時代になってから人々に愛用されるようになったのではないかと想像している。「車座に直る」のは女たちではあるまい。合戦を前にした武士団、自分たちの権益を犯されそうになって対策を練るためひそかに集まった豪商ごうしょうたち、権力者に無理難題をふっかけられて鳩首きゅうしゅ協議するために集合した村の代表者たち、そういう男どもの緊張きんちょうした顔が、この言葉の背後から立ちのぼってくるように思えてならない。
 しかしこの形のつどいは、いったん緊急きんきゅう事態が解決されれば、たちまち一転して、酒宴しゅえん歌舞かぶ放吟ほうぎんの場になるだろう。女たちもその時は車座に花を添えそ 、その主人公にさえなるだろう。やがて天下太平の世ともなれば、もっぱら後者の車座が全盛となる。
 いずれにしても、全員が内側を向くという形の座のとり方は、集団の心構えを統一し、同心の者としての結束と忠誠を誓いちか 合い、敵対する者たちに対する排他はいた的情熱を高める上では、最も効果的な陣形じんけいだった。高校野球でもバレーボールでも、危機に臨んだ監督かんとくたちはみなこれを応用する。何しろ車座に座るというのは、互いにたが  顔と顔を向け合い、相手の一挙手一投足まで直接見つめていられる唯一ゆいいつの座り方なのである。祝いの席であるなら、一同心を同じくする快い興奮、さかずきを交わし合う歓びよろこ に、おのずと歌も踊りおど も出てくるのは当然だった。

(中略)

 私は財政とか経済とかの方面についてまったく暗い人間なので、まことに単純なことしか言えないが、アメリカと日本の間で極度に
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緊張きんちょうが高まっている貿易摩擦まさつや経済摩擦まさつの根源には、単なる経済問題よりもずっと深い生活原理の食い違いく ちが が横たわっていることは明らかで、これを打開するにはたぶん何世代もかかるのではないか、さもなければ再び重大な衝突しょうとつが激発することもありうるのではないか、という危惧きぐさえ感じることがある。
 この摩擦まさつは、「開放社会」と「車座社会」との対立、というふうにも単純化して言えるだろうが、アメリカの(そしてヨーロッパの、アジアの、その他全世界の)土地や不動産や美術品その他を次から次へと買い漁り、値を釣りあげつ   ておきながら、自国の土地や不動産その他に関しては、高い障壁しょうへきを張りめぐらしてヨソ者の参入を可能な限り阻止そしする姿勢を貫こつらぬ うとする日本人というものは、自由貿易、開放主義の原理を奉ずるほう  人々から見れば、理解できないばかりか、異様な魂胆こんたんを内に秘めて世界征服せいふくの野望さえちらつかせて前進する邪悪じゃあくな民族とも見えかねないだろう。アメリカ政府や議会の中にそういう感情が高まってくる時には、各地の市民の中にその何倍もの強さにおいて、同種の感情をたかぶらせている人々がいると見なければならない。

大岡おおおか信『詩をよむかぎ』による。ただし一部原文を改めた)
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問題

nnge-01-4 問題1
問1 読解マラソン集1番の長文「なぜ、通常、私たちは」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 人間は、他人が考えたことをあたかも自分が考えたことであるかのように錯覚しやすい
B ランボーやフローベルの小説の中には、たしかにそれを生み出した確実な個人がいる
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答1

nnge-01-4 問題2
問2 読解マラソン集1番の長文「なぜ、通常、私たちは」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 作品は、作者によって生み出されているとは言い切れない
B 作品は、作者が読み手におくる運動と、読み手から反応がおくられる運動とから成り立っている
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答2

nnge-01-4 問題3
問3 読解マラソン集2番の長文「外国語には」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 二者択一でひとつを選択するのは、他方を否定することである
B 一元論の立場からは、「あれもこれも」という考えは矛盾になる
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答3

nnge-01-4 問題4
問4 読解マラソン集2番の長文「外国語には」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A シェークスピアのような天才でも、一元論の限界から逃れることはできなかった
B 日本語は、不調和を越えた調和を支えるのに適している
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答4

nnge-01-4 問題5
問5 読解マラソン集3番の長文「近代小説は一般に」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 近代小説は、様式に制約がないので、無制約な形式であるといわれている
B 言文一致体と軍隊用語の「自分ハ……デアリマス」という言い方の間には共通性がある
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答5

nnge-01-4 問題6
問6 読解マラソン集3番の長文「近代小説は一般に」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 近代小説は制約の少ないジャンルだったので、言文一致体の試行錯誤の場となった
B 近代小説の作者は、近代小説の持つ暗黙の制約性を深く自覚していた
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答6

nnge-01-4 問題7
問7 読解マラソン集4番の長文「『くるまざ』という言葉は」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 車座というものは、異なる世界に住むものも仲間にしてしまう親しさを持っている
B 緊急事態が解決されると車座はくずれ、女たちが花を添えるようになる
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答7

nnge-01-4 問題8
問8 読解マラソン集4番の長文「『くるまざ』という言葉は」を読んで、○と×の組み合わせが合っているものの数字を書きなさい。
A 日米の貿易摩擦は、車座社会と開放社会の文化の対立とも言える
B 貿易摩擦として表れた文化の摩擦は、政府の中だけでなく市民の中にもあるはずだ
1 A○ B○   2 A○ B×   3 A× B○   4 A× B×

解答8