a 読解マラソン集 1番 テーマパークのなかで nnga3
 テーマパークのなかでもっとも成功した例として引き合いに出されるのが、長崎ながさきのハウステンボスである。「ヨーロピアンテイスト」に遊ぶ楽しみを提供する空間として宣伝されるテーマパークである。しかし、この概念がいねん化された空間には、その概念がいねん化を拒否きょひする要素がある。建物の背景に見える長崎ながさき地方の山である。コンセプトはこの風景によって綻びほころ をみせる。この山の風景は、ヨーロッパという概念がいねんから取り残され、ヨーロピアンテイストという概念がいねんを極東という日本の現実につなぎとめる。つなぎとめることは実は、概念がいねんへの夢想を覚醒かくせいするという効果をもっている。コンセプトはこの風景によって綻びほころ を見せるのである。
 概念がいねん綻びほころ を見せるこの風景については、たとえば中世に築造された日本庭園での「借景」を考えてみると興味深い。自然を抽象ちゅうしょう化し、囲い込まこ れた寺院の空間につくられる庭園は、さまざまにデザインされる。たとえば、京都嵐山あらしやま天龍てんりゅう寺の庭園は夢窓疎石むそうそせきによると伝えられるものであるが、その背景に嵐山あらしやまを借景として取り入れている。この借景は、日本庭園のコンセプトにとってむしろ積極的な意義を与えあた ている。それはつくられた庭園ではあるが、この空間は結局は現実の空間のなかに位置づけられるということである。「借景」とは、たしかに庭園外の景物がその庭園空間の景物として位置づけられるという意味で、コンセプトのなかに取り込まと こ れる事態を意味している。しかし、逆に、概念がいねんとして構想された庭園空間がつねに現実的な世界のなかに位置づけられているといういわば「醒ますさ  」効果をももっている。そして借景の価値のひとつは、この「醒ますさ  」効果のうちにあるように思う。
 天龍てんりゅう寺の庭園をつくったといわれる夢窓疎石むそうそせきは、『夢中問答集』で、「世間の珍しいめずら  宝物を愛好するなかに、山水をもまた愛して、ちん木を選び求めて、集めて置くひともある。このようなひとは山水のやさしさを愛さず、たんに俗塵ぞくじんを愛するひとである」と述べている。またつぎのような重要なことばがある。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 夢窓疎石むそうそせきの思想では、庭園をつくるにも、山河大地草木瓦石がせきを自己の本分として心得て、山水を愛するべきだということになる。庭園は限定された空間であるが、それをつねに山河大地との関連でとらえることの重要性がここには語られている。コンセプトと外界との関係をとらえるのに、夢窓疎石むそうそせきのように考えるのと、テーマパークの思想とでは、ちょうど逆の発想になっていることが分かる。テーマパークの思想では、ヨーロッパ風景の向こうに見える日本の山は、概念がいねんのいわば綻びほころ である。これに対して、日本庭園では、借景となっている山は、概念がいねんと風景とを結ぶきわめて重要な、積極的な役割を担っている。
 テーマパークの思想は、空間に価値を与えるあた  という積極的な意味をもっているように見える。しかし、ここには意味を付与ふよすることが豊かな空間をつくることであるという重大な錯覚さっかく潜んひそ でいる。一定の概念がいねんがその空間のもっていた多様な解釈かいしゃくの可能性を廃棄はいきしてしまうのである。テーマパークでは空間の価値のコンセプトが、その空間の囲い込みかこ こ と大規模な土木工事を伴うともな という点で、空間そのもののもつ価値の多様性を損なう。しかも、この囲い込みかこ こ は、物理的な隔壁かくへきによって行われる。いわばハードなゾーニングである。このようなハードゾーニングとしてのテーマパークの経営が破綻はたんしたときのことを考えるとよい。それはコンセプトの破綻はたんであるが、管理できなくなった空間は囲いこまれたまま放置される。しかし、そこには、雑草が侵入しんにゅうしてくるであろう。自然にはゾーニングは存在しない。それはただ人間の概念的がいねんてき思考によって生み出されるのである。

桑子くわこ敏雄としお環境かんきょう哲学てつがく』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 読解マラソン集 2番 自己決定・自己責任というのは nnga3
 自己決定・自己責任というのははだかの自己として、孤立こりつ無援むえんで社会に立ち向かうということです。百パーセントのリスクを引き受ける代わりに、獲得かくとくされた利益もまただれとも共有せず、百パーセント独占どくせんすると宣言する主体が「しなやかで、たくましい個」として称揚しょうようされる、という構図です。
 このような「孤立こりつした人間」を「自立した人間」として自己形成のロールモデルに掲げるかか  ということが、だいたい八〇年代半ばくらいからフェミニズムとポスト・モダニズムに支援しえんされるかたちで日本社会全体でしだいに合意を得てゆきました。「自立」と「孤立こりつ」の間には実際には千里の逕庭けいていがあるのですが、そのことを指摘してきした人はほとんどいません。
 「孤立こりつしている人」にとって、他者はすべてかれまたは彼女かのじょの自由や自己実現の妨害ぼうがい者です。百パーセントの自由を享受きょうじゅするのが「孤立こりつした人間」の目標なわけですから、「他者が存在する」ということ自体がすでに主体の自由を制約することになります。主体は他者が占めし ている空間については、そこを可動域に算入できない。可動域について制約があるということは、主体の自由が損なわれているということですから、「孤立こりつした主体」にとって、理論的に最高の状態というのは、世界にかれの他には人間が一人もいない状態だということになります。そうでしょう。そこにいるのが「敵」であれば、もちろん主体の自由の妨害ぼうがい者ですし、「友人」であれば支援しえんや連帯の義務が生じるし、「奴隷どれい」であっても扶養ふようと管理という煩瑣はんさな仕事を伴うともな 。つまり、「百パーセントの自己決定・自己実現」というありえないものを求める人間は、論理の必然として、自分以外にだれが存在しても、それが自己実現の妨害ぼうがい者になるという不快な条件を生きなければならない。
 「自立している人間」というのは、そういうものではありません。「自立」というのは属人的な性格ではないからです。「オレは自立しているぞ」といくら力んでみても、それだけでは自立した人間にはなれません。その人の判断や言動が適切であることが経験的
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

に確証されたために、周りの人々から繰り返しく かえ 助言や支援しえんや連帯を求められるようになった人が「自立した人間」と呼ばれるというだけのことです。「自立」とは名乗りではなく、呼称こしょうです。周りの人から「あの人は自立した人だ」という承認を受けるということです。「自立」というのは集団的な経験を通じて事後的に獲得かくとくされる外部評価です。ですから、「自立した人間」は、「敵」であれ「友人」であれ、「保護すべきもの」であれ、多くの他者によって取り囲まれています。そのネットワークの中で絶えずおのれ自身を造型し、解体し、再改訂かいていし、ヴァージョン・アップするのが「自立した人間」です。
 しかし、実際に八〇年代以降日本社会で「自立した人間」と呼びならわされてきたのは「孤立こりつした人間」の方でした。
 人間の孤立こりつ化はさまざまな病態を取ります。「学びからの逃走とうそう」はその初期的なものの一つです。
 孤立こりつした自分がたった一人で学校というシステムと正面切って向かい合っている。自分自身の価値観を学校システムに対等のものとして対峙たいじさせる。「これを勉強することにどんな意味があるんですか?」という問いをつきつける。自分にとって「価値がある」と理解できないものについては、これを学ぶことを拒否きょひする。それが自己決定である。学ばないことから生じるリスクは自分で引き受ける、と。
 確かにそうなのです。彼らかれ はそのリスクを堂々と引き受けているわけです。四則計算ができない、アルファベットが読めない、漢字が読めない、自分に興味のある領域についてのトリヴィアルな知識はあるけれど、興味がないことは何も知らない。意味の「虫喰いく 」状態の世界を特に不快とも思わずに生きている。そうやって彼らかれ は階層下降のリスクをきっぱりと引き受けているわけです。

(内田樹『下流志向』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 読解マラソン集 3番 日本文化が外国語の文献の nnga3
 日本文化が外国語の文献ぶんけん翻訳ほんやくに負うところは、まことに大きい。私は今翻訳ほんやくの歴史を三期に分けて、そのことを考える。
 翻訳ほんやくの第一期は、中国の古典の読み下しの時期である。この独特の翻訳ほんやく法は、平安時代から行なわれて江戸えど時代に及んおよ だ。中国語の語順を変え、日本語の助詞と語尾ごび変化を加え、一部の単語は訳し「訓読み」、多くの単語はそのまま外来語として採用する「音読み」。どうしても多数の中国語の概念がいねんを輸入する必要があって、それに相当する日本語の語彙ごいがかぎられているという条件の下では、おそらくそのほかに解決の手段がなかった。
(中略)
 第二期は、明治以後およそ百年、西洋語からの翻訳ほんやくの時期である。そのとき、法体系から科学技術まで、西洋の概念がいねんの輸入は、「近代化」のための急務であった。そういう事情は、必ずしも日本の場合にかぎらないが、明治の日本の特徴とくちょうは、西洋から概念がいねんを輸入するのに、西洋語をそのまま外来語として用いず、ほとんどすべての語を翻訳ほんやくしたということである。中国語の読み下しを始めたときとはちがって、すでに日本語には豊富な語彙ごいがあり、しかも必要に応じて新語を作る力があった。
(中略)
 翻訳ほんやくの第三期は、今日から将来へかけてであり、そこでの問題には二面がある。日本語への翻訳ほんやくと日本語からの翻訳ほんやく。今までのところ、古典中国語または西洋語以外の言葉から日本語への翻訳ほんやくは、したがってかぎられていた。今後補うべきものは、技術的先進国以外の地域の文化への関心であり、したがってその文献ぶんけん翻訳ほんやくであろう。たとえば、アラビア語の地域にあるのは、石油だけではなく、今日まで外部に知られることの少なかった学問と文芸の宝庫である。日本語への翻訳ほんやくの対象は、西洋語文献ぶんけんの外に、はるかに拡大されなければならない。
 日本語からの翻訳ほんやくの読者は、もちろん、日本人ではない。しかし日本語からの翻訳ほんやくに、日本人が関心をもち得るし、またもつべき理由は、いくつかある。第一、日本人が日本人のことだけを心配して
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

いるのは、鎖国さこく心理にすぎない。いくらか他人の便宜べんぎも考えるのが、天地自然の理に適うだろう。日本語文献ぶんけんの――科学技術から日本人による日本批判までを含めふく てのそれの――国際的な言語への翻訳ほんやくは、多くの他国人のために役立つはずである。第二、日本国の対外関係が、経済的な面にかぎられたままで、長く安定するだろうとは想像し難い。政治的にはアメリカ追随ついずい、文化的には沈黙ちんもくということで、もうけるだけもうけられる時代は終りそうである。第三、日本人の表現・意見・知識などを知りたければ、日本語を覚えたらよかろう、という説は、事の一面を指摘してきするだけである。もし日本語を覚えようとする他国人の増加する条件があるとすれば、それ以上に日本語からの翻訳ほんやくを求める読者の増加する条件があるにちがいない。日本語は孤立こりつした言語である。言語学的に孤立こりつしているから、たとえば英語国民がフランス語を覚えるように日本語を覚えることはできない。歴史的社会的に孤立こりつしているから、かつての植民地帝国ていこくの言葉「英仏語」のように、アフリカやインドやオーストラリアで、日本語が話されることはない。日本語は日本人だけが話し、他国人にとっては習得の比較的ひかくてき困難な言葉の一つである。したがって日本語からの翻訳ほんやくの必要は大きく、翻訳ほんやくの仕事はまた日本側からの努力を必要とするのである。努力の内容は、翻訳ほんやくの技術的な面にも係わり、大いに経済的な面にも係わる。しかしそのいずれの面についても、その意志さえありば、原則として克服こくふくできない障害はないだろう。

加藤かとう周一『翻訳ほんやくのこと』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 読解マラソン集 4番 すなわち、人間の社会的欲望には nnga3
 すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣もほうして他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣もほうへの欲望と、他人との差異を際立たせて自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望との二つの形態があるのである。いずれも、一体どのような他人によってどのように認めてもらうかという点では大いに異なるが、他人に認めてもらいたいという社会的な欲望である点では変りがない。しかも、それらは往々にして同一の個人の中に共存している。
 当然、このような社会的欲望の二つの形態のちがいに応じて、モノに対する人々の欲求の形態も異なってくる。模倣もほうへの欲望は、人々に、他人が既にすで 所有しているモノを求めさせ、他人と同じように消費させるであろう。また、差異化への欲望は、人々に、他の多くの人が所有できないモノや他の多くの人が未だ所有していないモノを求めさせ、また他人と異なった仕方で消費させるであろう。実際、すべての人間社会は、それぞれ独自の方法で、この二つの形態の社会的欲望の存在、とくにそのうちの第二の形態である差異化への欲望に対処してきたはずである。たとえば、多くの共同体的社会においては、共同体の内部では差異化への欲望は抑圧よくあつされ、外部と接触せっしょくする機会である祭やポトラッチや戦争においてのみ一時的にそれを満たしていたであろう。また、階級社会においては、この差異化への欲望は支配者階級のみが全面的に満たしうるものであったろう。実は、社会的欲望の対処の仕方として今あげた二つの例は、それぞれ大雑把おおざっぱに言って、商業資本的な利潤りじゅんの創出方法と産業資本的な利潤りじゅんの創出方法とに形式的に対応しているのである。そして、外部も階級差も失いつつある現代の資本主義においても、利潤りじゅんの創出方法と社会的欲望への対処の仕方にやはり形式的な対応関係が見出しうることは、今までの議論から当然察しがつくにちがいない。
 現代の資本主義においては、だれもが差異化への欲望をもち、それを満たしたがっている。一体どのようにすればよいのか。もちろん、差異性という価値をもっている商品を買えばよい。だが、そのためには単に他人と異なった商品を買っても意味がない。他人が買っていなくて、しかも他人が価値あると認める商品を見つけ出さなければならないのである。もちろん市場には商品の種類は無数にあり、犬も歩けば棒にあたる。「いや、広告を通じて、棒の方が犬に向ってあたってくる。」そこで、だれかがどこかでそのような商品に行き当たり、差異化への欲望を満足したとしょう。これは、購買こうばい
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

における一種の革新である。しかし、その購買こうばいにおける革新の効果も決して永続するものではない。なぜならば、ある人がある商品を所有することによって差異化への社会的な欲望を満足しているということは、同時に、まだその商品を買っていない他の人々がそれに価値を認めたことでもあるからだ。それは当然これらの人々の心の中に模倣もほうへの社会的欲望をひきおこすであろう。それゆえ、購買こうばい力が許すならば、かれらもその商品を買い始めるにちがいない。その結果、その商品の社会的な価値はますます高まり、さらに多くの人の中に模倣もほうへの欲望をひきおこし、模倣もほうの群によって商品のブームが生れる。だが、このようなブームの中で、次第に差異性としての商品の価値は失われ、差異性への人々の欲望は再び不満足の状態に引きもどされる。それゆえ、また人々は差異性という価値をもつ新たな商品を探し求めていくことになる。そのような商品が再び見出されると、模倣もほうによるブームがおこり、このブームの中でその商品も差異性という価値を失っていく。そしてまた……。
 ここでも、差異性の発見と模倣もほうによる差異性の喪失そうしつという、シシフォスの神話に似た反復の過程が支配しているのである。それは結局、他人に認められたいという人間にとっては絶対的である社会的欲望が、モノのもつ差異性という相対的な価値を媒介ばいかいとしてしか満たされないという、人間の欲望のはらむ根源的なパラドクスの産物であり、その部分的で一時的でしかありえない解決の終わることなき反復なのである。

岩井いわい克人かつひとヴェニスの商人の資本論』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534