a 読解マラソン集 1番 窓際の席で ni3
 恭一きょういちはドアの外にたたずんで、去年、一人で新幹線しんかんせんに乗ったときのことを思い出していた。恭一きょういちにとって初めての経験けいけんだったが、じつはそのときも何度かトイレに通った。ジュースのせいでも水のせいでもなかった。
 トイレから出てきた久子ひさこは、生真面目な表情ひょうじょうかたをすぼめていた。兄に苦情くじょうを言われないようにと気づかっているようすだった。 
「手を洗えあら よな」
 恭一きょういちは妹の細いかた押すお ようにして、洗面せんめんコーナーへみちびいた。それから、
「おまえ、さっき泣いたろ」
と、いきなり言った。
 ホームまで送ってきた母が、まどの外で笑いながら手をふったときのことだ。まどガラスに顔を押しつけるお    ようにして、妹はかたをふるわせていた。それを、ふいに思い出したのだ。
「おまえ、手をふって泣いたんだろ」
 久子ひさこは手を洗いあら ながら、かたくなに黙りこくっだま    ていた。鏡に映っうつ ている顔が、また泣いているように見えた。
 しまった、と恭一きょういちは思った。なんでこんなに、いじわるしちゃうのかな。
「おい、ハンカチあるのか」
 急いでポケットを探っさぐ た。しかし、すでに久子ひさこは自分のハンカチを出していた。
 去年、一人で伯母おばさんの家へ行ったとき、東京に着くまでに、恭一きょういちは何度も涙ぐんなみだ  だ。ホームでの母との別れが悲しかった。このまま一生会えなくなるのではないか。そんなことを思うたびに、下くちびるがゆがんできたものだ。
 きっと久子ひさこも、あのときの自分と同じ気持ちになっているのだろう、と恭一きょういちは思った。
 座席ざせき戻っもど てからは、優しくやさ  話しかけた。
「おい、眠っねむ てもいいぞ。東京が近くなったら起こしてやるから」
「ううん、眠たくねむ  ないもん」
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 久子ひさこ車窓しゃそうの風景へ目を向けていた。こころなしか声がうるんでいる。
「ガムやろうか」
「ううん、いらない」
 つむじを曲げたらしく、久子ひさこはよそよそしい答え方をした。恭一きょういち雑誌ざっしをひらいたが、妹のことが気になって、なかなか漫画まんが のなかに入り込めはい こ なかった。
「このまえ、おれ一人で来たときな」
雑誌ざっしに目を落としたまま話しだした。
となりに、ふとったおばさんが坐っすわ ててさ。すごく大きないびきをかいて眠っねむ てたんだ」
 久子ひさこは耳を傾けかたむ ているようすだった。恭一きょういちは、いびきの真似まねをして鼻を鳴らした。
「あんまりうるさいんで、こうやってさ、うで突っついつ   てやったんだ」
 恭一きょういちひじを使って久子ひさこうで小突いこづ た。
「ツンツンって突くつ と、いびきがゴンゴンって鳴るんだ。ツンツンツンって突くつ と、ゴンゴンゴンだろ。面白くなっちゃってさ」
 久子ひさこが、くすくす笑いだし、うで小突かこづ れるたびに身体を揺すっゆ  た。恭一きょういちも笑いながら、ますます大げさに作り話をつづけた。
「おい、ジュース残ってんだろ」
 さんざん笑ってから、恭一きょういちが言った。
「ぜんぶ飲んでいいんだぜ」
「……だって」
とまどうように久子ひさこがつぶやいた。
「いいってば、トイレに行ってもいいから。何度だって、ついてってやるよ」
 漫画まんがを読むふりをしながら、恭一きょういちは言った。
 やがて列車がトンネルに入って、まどガラスに久子ひさこ嬉しうれ そうな横顔が映っうつ た。 (内海隆一郎りゅういちろう「だれもが子供こどもだったころ」)
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a 読解マラソン集 2番 兄ちゃんが初めて ni3
 兄ちゃんが初めてカメラを手にしたのは、小学校の三年生の誕生たんじょう日のときだった。お祝いに買ってもらったおもちゃみたいなカメラだったが、とにかく写るものだから、おもしろがって、さなえばっかり、たくさん撮っと てくれた。さなえは、まだ幼くおさな て、それだけにカメラの前でおどけたり、本気になって泣いたり怒っおこ たり笑ったりしたから、ずいぶんおもしろい写真が撮れと た。だから、そのころのさなえのアルバムはずいぶん厚いあつ 
 兄ちゃんは、その後何度かカメラを換えか た。カメラが良くなるにつれて、さなえの方も大きくなって、昔ほどカメラの前で、無邪気むじゃきになれなくなっていた。すると、兄ちゃんの方も気乗りしないのか、少しずつ、別のものを撮ると ようになっていった。さなえは、そんな自分のことも、兄ちゃんのことも、ちょっぴり寂しかっさび   た。
 そしてある日、兄ちゃんは、たまたま裏山うらやま(といっても中央アルプスの山の一つなのだ)へ入ったとき撮っと たモモンガの飛行写真がやみつきで、山へ写真を撮りと に入るようになったのだった。
 オオコノハズクがありノスリがあった。アオバズクもホシガラスもあった。兄ちゃんがスライドに作ったものを、時折、二階の部屋の白壁しらかべ映しうつ てくれるのを見ているうちに、さなえも、鳥が好きになってしまった。飛び立つときの身構えみがま 、飛んでいるときの身ごなし、飛び降りると お  ときの姿すがた――そのどれもがやさしく強い美しさにあふれていた。兄ちゃんに言わせれば、「めったに撮れと ない」カワセミの後ろ姿うし すがたの大写しなんかは、大きな宝石ほうせきのように美しく、さなえは何度見ても見飽きるみあ  ことはなかった。
 さなえは、自分もそんな写真を撮ろと うとは思わなかった。ただ、そんなすてきな写真を撮ると 兄ちゃんと一緒いっしょにいて、そんな写真を撮ると 手伝いがしたかっただけなのだ。
 ――木に登ってさ、ブラインドはってさ、そン中に何日もたてこもるなんて、さなえには、できっこないよ。
 とか、
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 ――夜中にタヌキなんかが、不意に駆け出しか だ てきたら、心臓しんぞうが止まるくらいびっくりするぞ。さなえなら、きっと、止まるもンな。
 とか、
 ――たちの悪いハンターに鳥と間違えまちが られて、木にいるとこを撃たう れたりするんだぜ。よせよせ。
 とか、人のことを一人前に扱っあつか てくれないのだから、さなえは、おかんむりなのだ。そんなとき、さなえはいつも、小さいときの出来事を思い出し、もっと悔しくくや  なるのだった。それは、さなえが初めて海へ連れていってもらったときのことで、初めてヒトデを見つけたさなえが、
 ――あ、お星様のかげが落ちてる!
 と叫んさけ だのを、兄ちゃんに大笑いされ、何度も繰り返しく かえ て笑い話の種にされたことだ。
 (兄ちゃんたら、いつまでたってもさなえのことを一人前に扱っあつか てくれないんだから……)
 そんなある日、兄ちゃんは、何を思ったものか、さなえにおみやげをもって帰ってくれた。小さなフクロウのヒナで、それはまるで、あの不思議な毛玉ケサランパサランみたいに、頼りたよ なくふわふわしたものだった。さなえの手のひらにも十分収まるおさ  くらい小さく、それでも目もくちばしも羽根も一人前にちゃんとそろっていて、さなえのことをまっすぐ見つめるのだった。ヒノキ林で拾った、親鳥の巣を探しさが たが、どうしても見つからなかった、独り立ちひと だ できるまで、めんどうをみてやろうと考えて持って帰ってきた、そいつをさなえに任せまか たいのだけど、できるかい?――というわけだった。
 さなえはこおどりした。兄ちゃんのことを嫌いきら になりそうだったことなど、いっぺんに忘れわす てしまった。
 ――ちゃんと育てて、また森へ返せるくらいにしてくれたら、そのときは、さなえを「助手」として、山へ連れてってあげる……。
 兄ちゃんはそう言ってくれ、さなえはうれしくて、るるるるとキジバトみたいにのどを鳴らして喜んだ。
今江いまえ祥智よしとも「あたたかなパンのにおい」)
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a 読解マラソン集 3番 二か月、三か月と ni3
 二か月、三か月とすぎた。まだ、兵太郎へいたろう君は学校へ姿すがたをみせない。そのあいだ久助きゅうすけ君は兵太郎へいたろう君についてほとんど何もきかなかった。ただ一度こういうことがあった。ある朝久助きゅうすけ君が教室に入ってくると、ちょうどいきちがいに、ふたりの級友がつくえを一つ廊下ろうかへさげ出していた。「だれのだい。」と何げなくきくと、ひとりが「兵タンのだよ。」と答えた。それだけであった。それからこういうことがもう一度あった。薬屋の音次郎おとじろう君が、ある午後裏門うらもんの外で久助きゅうすけ君を待っていて、いまから兵タンのところへ薬を持っていくからいっしょにいこうとさそった。久助きゅうすけ君はびっくりしたが同意して出かけた。薬はアスピリンというよく熱をとる薬だそうである。兵太郎へいたろう君はかぜをひいたのがもとだから、このアスピリンで熱をとればすぐなおってしまうと、音次郎おとじろう君は医者のように自信をもっていった。ほんとにそうだ、と知らないくせに久助きゅうすけ君も思った。それにしても、それほどよくきく薬ならなぜもっと早く持っていってやらなかったのだろう。やがていつもは通らない村はずれの常念寺じょうねんじのまえにきた。常念寺じょうねんじ土塀どべいの西南のすみに小さな家が土塀どべいによりかかるように(じじつ、すこし傾いかたむ ている。)たっている。それが兵太郎へいたろう君の家である。ふたりは土塀どべいにそって歩いていった。兵太郎へいたろう君の家のまえにきた。入口があいていて中は暗い。人がいるのかいないのかコトリとも音がしない。陽のあたるしきいの上でねこ前肢まえあしをなめているばかりだ。ふたりの足はとまらなかった。むしろ足ははやくなった。そして通りすぎてしまい、それきりだったのである。
 久助きゅうすけ君はほかの友だちと笑ったり話したりするのがきらいになった。そして、ひとりでぼんやりしていることが多かった。それからひどくわすれっぽくなった。何かしかけてわすれてしまうようなことが多かった。いま手に持っていた本が、ふと気づくともう手になかった。どこにおいたか、いくら頭をしぼっても思いだせないというふうであった。お使いにいって、買うものをわすれてしまい、あてずっぽうに買って帰って、まるでラジオできく落語みたいだと笑われたこともあった。
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 もとから久助きゅうすけくんは、どうかするとみなれた風景や人びとの姿すがたが、ひどく殺風景にあじきなくみえ、そういうもののなかにあって、自分のたましいが、ちょうどいばらのなかにつっこんだ手のようにいためられるのを感じることがあったが、このころはいっそうそれが多く、いっそうひどくなった。こんなつまらない、いやなところに、なぜ人間はうまれて、生きなければならぬのかと思って、ぼんやり庭の外をながめていることがあった。また、冷たい水にわずか五分ばかりはいっていただけで、病気にかかり死なねばならぬ(久助きゅうすけ君には兵太郎へいたろう君が死ぬとしか思えなかった。)人間というものが、いっそうみじめな、つまらないものに思えるのであった。
 三学期の終わりごろ、ついに兵太郎へいたろう君が死んだということを久助きゅうすけ君は耳にした。弁当べんとうのあと久助きゅうすけ君は教壇きょうだんのわきでひなたぼっこをしていた。すると、向こうのすみで話し合っていた一団いちだんの中から、
「兵タンが死んだげなぞ。」
とひとりがいった。
「ほうけ。」
ほかの者がいった。べつだんおどろくふうもみえなかった。久助きゅうすけ君もおどろかなかった。久助きゅうすけ君の心は、おどろくには、くたびれすぎていたのだ。
「うらのわら小屋で死んだまねをしとったら、ほんとに死んじゃったげな。」
とはじめのひとりがいうと、他の者たちは明るく笑って、兵太郎へいたろう君の死んだまねや腹痛はらいたのまねのうまかったことをひとしきり話し合った。
 久助きゅうすけ君はもうきいていなかった。ああ、とうとうそうなってしまったのかと思った。そっと片手かたてゆかの上の陽なたにはわせてみると、自分の手はかさかさして、くたびれていて、悲しげに、みにくくみえた。
 日暮ひぐれだった。

(新美南吉なんきち「川」)
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a 読解マラソン集 4番 久助君の身体のなかに ni3
 久助きゅうすけ君の身体のなかに漠然とばくぜん した悲しみがただよっていた。
 昼のなごりの光と、夜のさきぶれのやみとが、地上でうまくとけあわないような、妙にみょう ちぐはぐな感じのひとときであった。
 久助きゅうすけ君のたましいは、長い悲しみの連鎖れんさのつづきをくたびれはてながら、旅人のようにたどっていた。
 六月の日暮ひぐれの、微妙びみょうな、そして豊富ほうふな物音が、戸外にみちていた。それでいて静かだった。
 久助きゅうすけ君は目を開いて、柱にもたれていた。何かよいことがあるような気がした。いやいやまだ悲しみはつづくのだという気もした。
 すると遠いざわめきのなかに、一こえ山羊のなき声がまじったのをききとめた。久助きゅうすけ君はしまったと思った。生まれてからまだ二十日ばかりの山羊を、ひるま川上へつれていって、昆虫こんちゅうを追っかけているうちついわすれてきてしまったのだ。しまった。それと同時に、山羊はひとりで帰ってきたのだと確信かくしんをもって思った。
 久助きゅうすけ君は山羊小屋の横へかけ出していった。川上の方をみた。
 山羊は向こうからやってくる。
 久助きゅうすけ君にはほかのものは何もにはいらなかった。山羊の白いかれんな姿すがただけが、――山羊と自分の地点をつなぐ距離きょりだけがみえた。
 山羊は立ちどまっては川縁かわっぷちの草をすこしみ、またすこし走っては立ちどまり、無心に遊びながらやってくる。
 久助きゅうすけ君はむかえにいこうとは思わなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
 山羊は電車道もこえてきたのだ。電車にもひかれずに。あの土手のこわれたところもうまくわたったのだ。よく川に落ちもせずに。
 久助きゅうすけ君はむねが熱くなり、なみだがにあふれ、ぽとぽとと落ちた。
 山羊はひとりで帰ってきたのだ。
 久助きゅうすけ君のむねに、今年になってからはじめての春がやってきたよ
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うな気がした。
 久助きゅうすけ君はもう、兵太郎へいたろう君が死んではいない、きっと帰ってくる、という確信かくしんを持っていたので、あまりおどろかなかった。
 教室にはいると、そこに――いつも兵太郎へいたろう君のいたところに、洋服に着かえた兵太郎へいたろう君が白くなった顔でにこにこしながら腰かけこし  ていた。
 久助きゅうすけ君は自分の席へついてランドセルをおろすと、を大きく開いたまま、兵太郎へいたろう君をみてつっ立っていた。そうすると自然に顔がくずれて、兵太郎へいたろう君といっしょに笑い出した。
 兵太郎へいたろう君は海峡かいきょうの向こうの親戚しんせきの家にもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやで帰ってきたのだそうである。それだけ久助きゅうすけ君は人からきいた。川のことがもとで病気をしたのかしなかったのかはわからなかった。だがもうそんなことはどうでもよかった。兵太郎へいたろう君は帰ってきたのだ。
 休憩きゅうけい時間に兵太郎へいたろう君が運動場へはだしでとび出していくのをまどからみたとき、久助きゅうすけ君は、しみじみこの世はなつかしいと思った。そしてめったなことでは死なない人間の生命というものが、ほんとうに尊くとうと 、美しく思われた。

(新美南吉なんきち「川」)
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