a 読解マラソン集 9番 学校で先生は ne3
 学校で先生は「あなたの意見は?」というでしょう。お化粧けしょうひとつにしても、洋服ひとつにしても、流行を追うのはおろかですよ、自分にあったお化粧けしょうをしなさい、自分にあった服を着なさい、自分がたいせつですよと先生はいうでしょう。
 しかし会社にでると、みんな自分というものを中心にするのではなしに、会社に、みんなに、あわせようという具合になるのがふつうです。
 だが、このような事なかれ主義しゅぎ個性こせいのなさだけでよいでしょうか。世の中を良くしようとする人は、しばしば異端いたんの考えの持ち主の中から生まれるのではないでしょうか。一例をあげましょう。
 アメリカの自動車会社、GMの小型車コルベアは、しばしば事故じこをおこしました。車が高速でまがるとき、うしろが浮きう あがり、まがりきらず事故じこをおこすのです。やがて、この車には設計せっけい上のまちがいがあり、その原因げんいんは、少しでも安くしようとして材料を節約した点に問題があることが指摘してきされました。このことは、この車をつくっている人、したがってこの車をよく知っている従業じゅうぎょう員の指摘してきによって明らかになったのです。もしこうした指摘してきがおくれたら、さらに多くの人が事故じこにあったでしょう。だが、こうした指摘してき従業じゅうぎょう員からでないような会社だったらどうなるでしょう。
 日本では、おなじようなことをいった従業じゅうぎょう員に、「そんなことをいうのは会社を批判ひはんすることで、われわれのてきだ」という目が会社の中から生まれ、現にげん 、自動車会社にいられなくなったすぐれた技術ぎじゅつ者がいます。
 会社のためよりもっと重要なことがあったとき、会社第一と考え、ほんとうのことをいわず、かくしやすい――こうしたゆがみが日本の会社にはないでしょうか。
 このような日本的な社会の中にいる人間は、それに合うようなことばを使います。みなさんの使っている日本語と、学校でならう英語とをくらべてごらんなさい。英語は文章のいちばんはじめに、なにがきますか。主語がきます。「わたしが」とか「あなたが」というのがきます。なにかをするその責任せきにん所在しょざいは、まず「?」なり「Y
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ou」なり、はっきり主語として、いちばんはじめにでてくるのが特徴とくちょうです。
 そのつぎに、その問題に賛成さんせいなのか反対なのか、イエスかノーかというのがきます。ですから英語を聞くと、はじめのところを聞いていると、だれがどういう意志いしをもっているかがだいたいわかります。
 しかし、日本語はそうではありません。たいてい主語がないでしょう。そして、イエスかノーかというのはまえにきません。文章のいちばん最後にくるのです。
 会議のときなど話をしているうちに、みなが反対だなということが顔色でわかると「……というような考えもあるんだが、まずいですねェ」なんて、きゅうに方向転換てんかんすることができることばです。
 つまり、相手とちがう考えをだすことはたいへん失礼だし、おたがいの関係をまずくする。なにしろ大部屋のなかにいっしょに住んでいるのですから。
 そこで、相手と自分とがおなじような考えになるようにし、相手も傷つけきず  ない、自分との関係もひびがはいらない――そういうようにもっていく習慣しゅうかんや考え方が、ことばの構造こうぞうの中にもはいってくるのです。賛成さんせいか反対かをいちばん最後にもっていくという、世界にも珍しいめずら  日本語がこうした習慣しゅうかん対応たいおうしているのです。
 中国語だって英語とおなじことばの構造こうぞうで、賛成さんせいか反対かを示すしめ ことばが主語のつぎにきます。日本語は主語がはっきりしません。責任せきにん所在しょざいをまずなくし、賛成さんせいか反対かをいちばん最後につけて、どうにでもかえられるということばの構造こうぞうになっています。
 ですから、問題がおこったときどうするかというと「わたしは自分の責任せきにんをよくよく考えて、こういう結論けつろんに達しました」ということはしないのです。なにが正しいか、なにがいいか、それよりもみんなはどう考えるであろうかを考えるというのが多くの日本人です。そして顔色を見ながら、いつでも方向転換てんかんできるようなことばの構造こうぞうをさぐりながら、最後でみんなが一致いっちするようにもっていく。これです。ボスといわれている人間はこれをやるのです。
 佐藤さとう栄作という、ひじょうに長く総理そうり大臣をつとめた人がいま
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読解マラソン集 9番 学校で先生は のつづき

す。この人は、自分で決定を下すことがなかったといわれています。
「他からすすめられた形をとりたい」
 これが佐藤さとうさんの名文句もんくと伝えられています。自分できめたら自分が責任せきにんをとらなければなりません。それは団結だんけつをみだすことになります。なぜなら、反対意見の人がいるかもしれないからです。
 ある事件じけんがおこった。みなの意見がとうぜん対立する。しかしボスは自分の意見をいわない。いえば、反対の人をてきにまわすことになる。そこでなすがままにまかせる。たとえば、外国との貿易ぼうえきで、一ドルが三百六十円であったのを三百円にするか、それとも三百六十円のままかという問題です。佐藤さとうさんはきめないのです。世界経済けいざいは一九七一年八月十五日から混乱こんらんし、この問題で大さわぎになったとき、軽井沢かるいざわ逃げに てしまったのです。東京にいれば、首相として自分がきめ、自分が責任せきにんをとらなければならないからです。
 現実げんじつはどんどんすすんで、とうとう反対もなにもあったものではなく、三百四十円、三百二十円と動いてしまいました。もうやむをえない、これを認めるみと  より道がないという、そういうところまで追いこまれて、みんなの意見がまとまり、さあそうするかというところまで待って佐藤さとうさんは山をおり、これを認めみと ました。したがって反対はおこりません。これが、佐藤さとうさんが日本でいちばん長い年月総理そうり大臣をつとめた秘訣ひけつだといわれています。
 もしまちがっていたならば、みんながきめたのですから、一億そうざんげ、けっして佐藤さとうさんの責任せきにんにならないのです。
 しかし、佐藤さとうさんのような行動をしていると、なにもないときはいいのですけれど、重大な問題がおこったとき、それにたいして、はやく手をうち、事態じたい危険きけんのない方向にもっていくということができないのです。
 だれが戦争をするということをきめたかわからないうちに、いつの間にか中国との戦いがはじまり、ずるずる拡大かくだいし、日本はあの敗戦を経験けいけんしたのではないでしょうか。そして、戦争の責任せきにんというこ
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とになると、みんなが悪かったのだといって、だれも昔のあやまちを反省しようとしないのです。
 したがって日本の社会のくさった部分、悪い部分、それを切り取ることもできませんでした。おなじ戦争をし、敗れたドイツは、まったくちがいます。戦争をひきおこした責任せきにん者がいたのです。ヒットラーを中心とするナチスです。したがってその責任せきにん追及ついきゅうし、くさった病の部分を取りのぞく。いまもってドイツはこのナチスの協力者を裁くさば 裁判所さいばんしょをもっているのです。だから新しく生まれかわることができたのです。
 日本は、いつまでたっても仲良しクラブの中で、責任せきにんもはっきりせず、病もはっきりせず、くさった部分をそのままにしながら、みんなかたをくみながら動いている。これでいいのでしょうか。
 小学校や中学校の先生は、自分の意見をいいなさいとみなさんにいったでしょう。それは、こういう病を取りのぞくことができるような人間に、みなさんをしたいと思っているからにちがいありません。

伊東いとう光晴「君たちの生きる社会」)
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a 読解マラソン集 10番 子どもたちの好きな昔話に ne3
 子どもたちの好きな昔話に「王様の耳はロバの耳」というお話がある。どういうわけかロバのような耳をした王様がいた。それが知られるのがいやでいつも帽子ぼうしをかむっていた。ただ、床屋とこやにはそれがバレてしまうので、床屋とこや散髪さんぱつしてもらうたびにその床屋とこやを殺していた。とうとう、ある床屋とこやがあまりにも助命を願うので、「秘密ひみつを守る」ことを約束させて帰らせてやった。ところが、その床屋とこや秘密ひみつを守っているうちに変な病気になってしまう。占師うらないしかれに対して、その病いは言いたいことを言わずにいるためのものだから、だれにも聞かれないようにして町のはずれのやなぎの木に向って、言いたいことを言えばよい、と教えてくれる。
 そこで床屋とこややなぎの木に向って、「王様の耳はロバの耳、王様の耳はロバの耳」と話すと、病気はすぐに治ってしまった。ところが、その後、風が吹いふ やなぎの木が揺れるゆ  度に、「王様の耳はロバの耳」と鳴りはじめたので、国中の人が王様の耳の秘密ひみつを知ってしまった。王様はそれを聞いて、みなに知られてしまったのなら仕方がないと帽子ぼうしをぬいでしまわれた。ところが、国民はむしろそのような王様を尊敬そんけいして、「ロバの耳の王様」として敬愛けいあいするようになった、というお話である。
 子どもたちは、この話のなかで「王様の耳はロバの耳」という面白い繰り返しく かえ を何度も楽しみながら、彼らかれ にとっても大変重要な「秘密ひみつ」ということと深く関連するものとして、興味きょうみをもって聞くようである。確かたし に、この話は秘密ひみつ機微きびについて多くのことを教えてくれる。まず、秘密ひみつを守っていて病気になった床屋とこやのこと。これは秘密ひみつを守ることのつらさや難しむずか さを端的たんてき示ししめ ている。秘密ひみつは身体内に進入してきた異物いぶつのように、外に排除はいじょしないとたまらないときがある。
 人間の心はある程度  ていどのまとまりをもって存在そんざいしている。多くの場合、秘密ひみつはそのまとまりを壊しこわ そうなものであることが多い。王様を尊敬そんけいすることと、王様がロバの耳をもっていることは簡単かんたんには両
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立し難いがた 。それに、王様がロバの耳だということは、凄いすご ニュースバリューももっている。床屋とこやがしゃべりたくなるのも無理はない。そして、それを辛抱しんぼうし続けることは身体の病気をさえ引き起してしまうのである。
 王様にとって「ロバの耳」は運命によって与えあた られ、いかんともし難いがた 欠陥けっかんであった。かれにとって出来ることは、あらゆる手段しゅだん講じこう てそれを隠しかく て通すことであった。そのためには、殺人ということも避けさ られなかった。王の犯しおか た多くの「殺人」は、かれ秘密ひみつを守るために、どれほど多くの「感情かんじょうを殺し」、「人間関係を殺し」てきたか、と考えると了解りょうかいしやすいだろう。実際じっさい、われわれは自分の欠点を隠すかく ために、どれほど多くのことを殺すことだろう。
 ついでながら、殺されるのが床屋とこやというのも面白い。床屋とこや髪型かみがたを変えるという意味で、「人格じんかくの変化」との関連でゆめや物語によく現われるあら   。王は自分の欠点を隠すかく ことに固執こしつして、自分の人格じんかくの変化のチャンスを見殺しにしていたのである。
 ところで、ある床屋とこや嘆願たんがんに王は心を動かされ、殺すのをやめる。だれかの心情しんじょうに動かされることは、何か意味あることが行われるきっかけとなることが多い。王はそれまで殺してきた自分の感情かんじょうて身をゆだねることを決意した、ということができる。王はその後、自分の隠しかく たい秘密ひみつが国中に広がっていることを知ったとき、すぐに床屋とこや罰するばっ  ことをせず、その経緯けいいを知って、それが「やなぎの木のそよぎ」によって広まったことを知った。人間がいかに努力をしても、「自然」の力にはこう難いがた ときがある。そのことを知った王は、自然の力の前に文字どおり「脱帽だつぼう」したのである。
 王のこのような態度たいど接しせっ て、国民は王の隠しかく たがっていた欠点を知ったにもかかわらず、前よりも王を敬愛けいあいするようになった、という点が大切である。人間は自分の大きな欠点が他人に知られたと
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読解マラソン集 10番 子どもたちの好きな昔話に のつづき

しても、必ずしもそれによって他から軽蔑けいべつされるとは限っかぎ ていないのである。国民が「ロバの耳の王様」と言って敬愛けいあいしたということは、王の欠点がかえって国民の親愛のじょうを引き出す通路となっている、とさえ言えるのである。
 欠点を知られること、秘密ひみつを知られることなどは、必ずしも軽蔑けいべつされるきっかけとはならないし、むしろぎゃくのことさえ生じるのであるが、「ロバの耳の王様」の話が示唆しさするように、そのようなことが生じるためには、それにふさわしい努力や、時のじゅくすることなどの要素ようそが必要なことを忘れわす てはならない。

河合かわい隼雄はやお「子どもの宇宙うちゅう」)
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a 読解マラソン集 11番 文明人は時計によって ne3
 文明人は時計によって時間を測るはか 。それによって、一日は二十四時間に正確せいかくに区切られ、共通の時間が設定せっていされる。これは多くの人間が社会をつくっていくためには、非常ひじょうに大切なことである。これによって、われわれは友人と待ち合わせもできるし、学校も会社も、同一時刻じこく一斉いっせいに始めることもできる。時計の発明によって、人類はどれほど時間が節約できるようになったかわからない、本当に便利なことだ。
 ところで幼児ようじたちは、大人のもつ時計によって区切られた時間とは異なること  時間を生きているようだ。「きのう」とか「あした」とかの意味も、はっきりとしていない子もある。「また、あしたにしようね」などと言っている子も、それは厳密げんみつにあしたということをさすのではなく、「近い将来しょうらい」を意味していることも多い。
 あるいは、何かに熱中していたが、何かで中断ちゅうだんしなければならなくなったとき、「また、あしたにしよう」と言うのは、このことを言うことによって、中断ちゅうだんすることを自らに納得なっとくさせようとする意味あいで言っている子もある。この場合の「あした」は、二十四時間の経過けいか後に存在そんざいする時期などではなく、断念だんねんしなければならないという気持ちと、何か希望を残しておきたいような気持ちの交錯こうさくした現在げんざい状況じょうきょうをのべている表現ひょうげんなのである。
 道くさをしたために叱らしか れる幼児ようじたちが、悪かったという気持ちをあらわしながら、何とも納得なっとくのいきかねる表情ひょうじょうをしていることがよくある。彼らかれ 叱らしか れながら、「おくれてしまった」「おそくなって悪かった」ということはよくわかっているのである。しかし、なぜおそくなったのだろう。「ぼくは何もしてなかったのに」、「ちょっとだけ、おたまじゃくしを見てただけなのに」と思っているのである。たしかに子どもたちは「ちょっとだけ」何かをしていたのである。しかし、残念なことに、それは大人のもっている時計では「一時間」も道くさを食っていたことになるのだ。
 おたまじゃくしを見ていた子どもが、一時間を「ちょっとの間」と思ったように、われわれ大人でも、同じ一時間を、長く感じたり短く感じたりする。時計の上では一時間であっても、経験けいけんするもの
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にとっては、その一時間の厚みあつ 異なること  ように感じられるのである。もちろん、時間そのものには厚みあつ などあるはずがないから、あくまで、それを経験けいけんするものの主観として、厚みあつ が生じてくるのだ。
 何かひとつのことに熱中していると、時間が早くたっていくことはだれもが知っていることである。といっても、何かひとつのことをしていると、必ず充実じゅうじつした時間を過ごしす  たことになるとは限らかぎ ない。たとえば、テレビのドラマなどを見るともなく見ていると、ついひきこまれて終わりまで見てしまう。終わってみるといつの間にか一時間たってしまっている。しかし、このあとでは充実じゅうじつ感よりも空虚くうきょな感じを味わうことだってある。時間は早くたったと感じられるが、その厚みあつ の方はうすく感じられるのである。
 あるいは、ひとつのことをしていても時間が長く感じられるときもある。その一番典型的な場合は、「待っている」時間である。だれかが来るのを待っているとき、われわれはなかなか他のことができない。そわそわしながら待つ。しかもその間は随分ずいぶんと長く感じられるのである。「待つ」ということだけをしているのだが、時間を長く感じてしまう。
 これらのことを考えると、自分のしていることに、その主体性しゅたいせいがどのように関係しているかにしたがって、時間の厚みあつ 異なっこと  てくるらしいと思われる。「待つ」ことは、受動的なことである。その人がいつ来るかは、その人の行動にまかされているわけで待っている方としては、ただそれにしたがって待つより仕方がないのである。これはテレビの場合でも同様である。テレビを見終わって充実じゅうじつ感のない場合は、わたしたちがテレビを見たのではなく、テレビがわたしたちをひきこんでしまったのである。わたしたちは受動的に見ていたのだ。
 子どもがテレビを見すぎることはよく問題になる。たしかにテレビを見すぎることは、子どもが「与えあた られた映像えいぞう」を受動的に楽しむことによって、主体的な時間をもたなくなる点に危険きけんせい存在そんざいしている。しかし、テレビの主体的な見方だってあるはずである。怪獣かいじゅうにしろ、チャンバラにしろ、子どもにとっては必ず経験けいけんしな
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読解マラソン集 11番 文明人は時計によって のつづき

ければならない世界なのである。だから、それを見たいときには「主体的」に十分に見させることがいいのではないか。主体的にテレビを見させるということは、子どもの「見たいままに放任ほうにんする」ことではない。放任ほうにんの中から主体性しゅたいせいは出てこない。
 テレビは見たいが勉強はどうするのか、父親は野球が見たいが子供こども漫画まんがが見たい。これをどう解決かいけつするか。食事中にテレビを見ないのはわが家のおきてである。ところが、食事時間にどうしても見たい番組ができた。これをどうするか。
 これらの葛藤かっとうと対決していくことによってこそ主体性しゅたいせいが得られる。対決を通じて獲得かくとくした時間、それは主体性しゅたいせい関与かんよするものとして、「厚みあつ 」をもった時間の体験となるのである。

河合かわい隼雄はやお「子どもの『時間』体験」)
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a 読解マラソン集 12番 ぼくは子どものころ、 ne3
 ぼくは子どものころ、弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた子にたいして、いじめなかったかというと、そうも言いきれない。いま考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
 たとえば、近所に鬼がわらおに   のような顔の子がいて、「おにの子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その子の母親がなみだを流して飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている側は、ことの重要さを理解りかいしていないことが多い。
 いじめている人間が、強いわけではない。抑圧よくあつされている人間は、いじめる相手を探しさが がちなものだ。上級生が下級生をいじめる学校は、たいてい管理がきびしい。クラブだって、リベラル(自由主義しゅぎ的)な雰囲気ふんいきのあるところだと、上級生も下級生も友だちづきあいしている。いじめている人間はたいてい、体制たいせいによっていじめられている、弱い人間なのだ。強ければ、弱い者いじめなんか、する必要がない。
 ときには、だれかをいじめているという、加害意識いしきのないことも多い。その集団しゅうだんが、いじめを作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。つみ意識いしきなしに悪いことをするほど、困っこま たことはない。
 それでも、やがて、もしもまともに成長すれば、そのときの自分が、こうした状況じょうきょう強制きょうせいされて、つみ意識いしきなしに、だれかをいじめていた事実に気がつく。たいてい、そのときには、もう過去かこをとりもどすことができない。しかも、その自分は、そうした状況じょうきょうのなかで、弱くみじめで、その弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
 こうした、みじめな気持ちを持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている子もみじめだろうが、あとになって考えてみると、いじめたほうだって、それに劣らおと ず、みじめなものだ。
 とくにこのごろ、一種の村八分みたいな、いじめ方があるらしい。かれもしくは彼女かのじょが、存在そんざいしないように扱うあつか 。顔を合わさず、声をかわさず、存在そんざい自体を無視むししてしまう。これは、一種の精神せいしん的殺
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人である。暴走ぼうそうよりも、万引きよりも、もっとひどい、最大級の非行ひこうだと思う。
 ときに、いじめの計画者がいないことさえある。集団しゅうだん自体が、いじめ存在そんざいになる。ちょっと怪談かいだんじみたこわさがある。こうしたとき、みんな普通ふつうの中学生で、だれも、いじめているという意識いしきのないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの感覚は、怪談かいだんの感覚である。
 ときには、いじめられている子までが、それを意識いしきしていないこともある。こうなると、最高にこわい。意識いしきしていなくても、いじめは存在そんざいしている。意識いしきにのぼらないたましいの底で、一種の夢魔むまの世界で、だれかがだれかをいじめている。
中略ちゅうりゃく
 中学生の間で、いじめが増えふ ているというのを、悪い子がいるからだとは、ぼくは思わない。いじめっこも、たいていは、普通ふつうの子だと思う。いまの中学生の状況じょうきょうが、そうした弱い部分を作っているのだとは思う。
 それでも、もしきみが、よく考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな思いになる。相手にたいしてだけでなく、きみ自身の未来のために、すぐにやめたほうがよい。
 だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている空気があろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみの弱さだ。人間というものは、弱いもので、ぼくは人間の弱さを、むしろいとおしむほうだが、この場合だけは、いや、この場合こそ、きみに強くなってほしい。
 やる気を出せとか、根性こんじょうでがんばれとか、そんな声にのっかって、強くなれというのは、ぼくの趣味しゅみではない。それより、どんな状況じょうきょうにしろ、状況じょうきょうに負けて、他人をいじめることで心のバランスをとったりしないような、自分自身の心の強さがほしい。

(森あつし「まちがったっていいじゃないか」)
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問題

ne-03-4 問題1
問1 読解どっかいマラソン集9番「学校で先生は」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■周囲や社会に合わせる日本人の習性しゅうせいは、日本語の特徴とくちょうにも表れている。 
1 ○    2 × 

解答1

ne-03-4 問題2
問2 読解どっかいマラソン集9番「学校で先生は」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■問題が起きたときにみんなが望む最善さいぜんの方法をとろうとするのは日本の長所だ。 
1 ○    2 × 

解答2

ne-03-4 問題3
問3 読解どっかいマラソン集10番「子どもたちの好きな昔話に」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
精神せいしん力があれば秘密ひみつ隠すかく ことができる。 
1 ○    2 × 

解答3

ne-03-4 問題4
問4 読解どっかいマラソン集10番「子どもたちの好きな昔話に」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■欠点は必ずしも軽蔑けいべつの対象になるものではない。 
1 ○    2 × 

解答4

ne-03-4 問題5
問5 読解どっかいマラソン集11番「文明人は時計に」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■時計で区切られた時間は子どもにこそ必要だ。 
1 ○    2 × 

解答5

ne-03-4 問題6
問6 読解どっかいマラソン集11番「文明人は時計に」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■何かに熱中していると時間が経つた のが早く感じられるが、それは充実じゅうじつした時間を過ごしす  ているからだ。 
1 ○    2 × 

解答6

ne-03-4 問題7
問7 読解どっかいマラソン集12番「ぼくは子どものころ」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■人をいじめる人は強い人間なのではなく、弱いからこそそうした行為こういをする。 
1 ○    2 × 

解答7

ne-03-4 問題8
問8 読解どっかいマラソン集12番「ぼくは子どものころ」を読んで次の問題に答えましょう。 
 次の文を読んで、○だったら1を、×だったら2を選び、その数字を書きなさい。 
■いじめをする方とされる方の両者が意識いしきして初めていじめは存在そんざいする。 
1 ○    2 ×

解答8